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✧≡≡ FILE_023: 終身刑 ≡≡✧
「──フラッシュ」
名前を呼ばれた。
その声に、意識がふっと現在へ戻る。
第六実験室へ使う途中。
俺たちは廊下を歩いていた。
白い蛍光灯の光が、足元を流れていく。
ドヌーヴの手には、いつものコーヒーカップ。
俺の手には、いつもの分厚い資料。
いつも通りの光景。
いつも通りの日常。
いつも通りの──彼の背中。
それなのに、このときのドヌーヴは、少しだけ違っていた。
「俺は、フラッシュを“友達”だと思ってる」
唐突にそう言い出した。実験よりも難しいテーマを提起するように、真面目な顔で。
「なんだよ、急に」
思わず聞き返す。
ドヌーヴは構わず歩きながら、自分自身の影を踏むように言葉を続けた。
「……子供が、12月に産まれるんだ」
歩みが止まった。
時間も、空気も、廊下の蛍光灯のちらつきすら──止まった気がした。
ドヌーヴは立ち止まって、手に持ったコーヒーを見つめていた。それが冷めていることにも、気づいていない様子。
「……冬だ」
ぽつりと、それだけ言った。
冬に産まれる──
俺は何も言えなかった。
だって、それは、あまりにも眩しかったからだ。
“おめでとう”という言葉が、喉の奥で凍りついていく。それを言った瞬間に、もう二度と戻れない気がした。
「……それと、もうひとつ」
少し息を吐いて、彼は言った。
「言っておきたいことがある」
「……な、に」
「俺は、お前が──コイルに想いを寄せてることを知ってる」
心臓の音が、世界のすべての音を消した。
息の仕方を、一瞬忘れた。
ドヌーヴは、やわらかい声で続けた。
「責めてるわけじゃない。恨んでもいない。ただ……知ってて、何も言わないまま、お前のそばにいるのがずっと苦しかった。……それを言うことで、お前を傷つけるのも分かってた」
ドヌーヴは目を伏せ、指先で冷めたコーヒーを軽く揺らした。液面がわずかに波打ち、光を反射する。
「結婚式に、お前を呼ぶのが……苦しかった」
声は絞り出すように低く、けれど曇りはなかった。
「呼ばないほうが楽だったかもしれない。お前を見なくて済むから。……でも、それじゃダメだって思った」
少し目を細めて、遠くを見るような視線を落とす。
「俺たちの関係は……どこかで線を引かなきゃいけなかった。なのに俺はズルズルとお前を繋ぎ止めていた」
俺は黙って聞いていた。たぶん、何かを言えるような状態じゃなかった。
「……俺はお前との居場所を残したかった。たとえ、どんなに苦しくても──“友達”を続けたいって、それが一番……卑怯だと思った」
空気が重く、冷たくなっていく。
俺は、何も言えなかった。
“優しさ”と“残酷さ”の区別がつかない。
「……それでも、俺は気づいてたよ」
ドヌーヴは、まっすぐ前を向いたまま言った。
歩く足を止めず、でも──その言葉だけが、確実に俺の胸に向かっていた。
「お前が、コイルに……俺より先に、想いを寄せていたことも」
俺の心臓が、いっこ飛んだ。
音もなく、脈もなく、地面に落ちた気がした。
「……」
「チャンスはいくらでもあったのに、手を出さなかったことも」
彼は続けた。優しさでも怒りでもない──事実として。
「だってお前は──“コイルの未来を、望みを叶えてあげられないから”」
──やめてくれ。
「自分の気持ちに蓋をして、コイルと離れた」
やめてくれ。
「お前の気持ちも、お前の選択も、俺は分かってる。全部、苦しかったんだろ。ずっと、苦しかったんだよな。それを黙って、笑って、俺たちの側にいてくれた。ずっと。友達でいてくれた。……ありがとう」
俺は、拳を握りしめた。
──ありがとう、じゃない。
それを言われた瞬間、胸の奥に小さな“死体”ができた気がした。俺の想いは、もう遺されたものとして扱われている。
“それでも君は優しかった”──そう語られたことで、俺の選ばなかった選択肢が、埋葬されていく。そんなふうに綺麗に片づけられるほど、俺の想いは清潔じゃない。
何度も何度も言おうとした。けれど、言えなかった。気づいていた。ふたりが互いに惹かれていることも。
けど、それでもいいと思った。
そばにいるだけでよかった。
──でも。
その「ありがとう」で、
その「優しかった」で、
俺はもう“終わったこと”にされたんだ。
だったら、いっそ、嫌ってくれた方がよかった。
「………………」
沈黙の中で、俺は何も言えずにいた。
言葉を吐けば、全部崩れてしまいそうだった。
ドヌーヴは、そんな俺の姿を見て、少しだけ目を伏せ──そして、ゆっくりと口を開いた。
「……だから、これだけは聞いてほしい」
その声は、まるで誰かを裁くようでも、赦すようでもなかった。ただ一人の男が、自分の弱さをさらす声だった。
「俺達の研究はもうすぐ発表される。ルミライトが完成したら──世界が変わるだろう。俺達が目指した“優しい世界”が、ようやく手の届くところに来る」
「…………だからなんだよ」
「だから──」
ドヌーヴは振り返ると、真っ直ぐな瞳で俺を見つめた。
「その論文は──お前の名前で出してくれ」
「────」
呼吸が止まった。
「俺じゃなくて、お前の名前で。世界中の学会に、お前の名を刻む。それが……俺にできる唯一の、罪滅ぼしだと思ってる」
「……なに、言って……」
「お前は必ず偉大な発明家になる。ワイミーさんの跡を継ぐという未来がある。──だから、娘には、“お前の名前をつける”」
「──ッ!」
頭が真っ白になった。
言葉の意味が、すぐには処理できず、呆然とした。
「俺は、お前から多くのものを奪った。大切な人も、未来も、全部。だからせめて、残したいと思う。お前に、“未来”を」
目が滲む。
感情が、もはやどこにしまえばいいのかわからなかった。
「は、はは……は、は」
俺は、笑っていた。
いや、笑おうとしていた。
それはきっと、顔面の筋肉の反射であって、感情ではなかった。
「……冗談だろ」
声が震える。
足元が、ちりちりと音を立てて崩れていく。
「俺の名前で発表しろ? それが俺のためだと思うのか……?」
手は、握ってもいないのに、拳の跡が残るくらい震えていた。
「ああ……」
喉が焼けるように痛かった。
けどそれ以上に、心が、裂けそうだった。
「俺が、どんな気持ちで……」
どんな気持ちで、“親友の結婚式”に立ったか。
どんな気持ちで、“ベストマン”なんて役を演じたか。
──全部、わかってたんだろ、お前。
「だから、俺の子には──“ルミエル”という名をつける」
宣告のようなその言葉に──俺の心が、奇妙な形で軋んだ。
名を与えるという行為は、未来を与えるということだ。
一生を背負わせるということ。存在を刻みつけ、逃れられない重さとして封じ込めるということだ。
ドヌーヴは俺に未来を与えると言ったが──俺の未来を、彼の子供に封印する気だ。
それはきっと善意であり、彼なりの正義心なのだろう。
だからこそ、この上なく残酷だ。
「……お前、ほんと……最低だよ……」
震えていた。
声が、心が、呼吸までもが。
“俺の名前を娘に与える”なんて。
お前は知らないだろう──その子が生きるたびに、俺が思い出に閉じ込められていく痛みを。
“あの日の俺たち”は二度と取り戻せないのに。
お前は俺を未来に置き去りにし、そして未来に縛りつける。
──優しさの皮を被った、最もひどいやり方で、俺を繋ぎ止めようとしている。
“ありがとう”じゃない。
“おめでとう”でもない。
“お前を祝いたかった”でもない。
これは、俺に永遠の未練と誇りと喪失を同時に抱かせる──
完璧な呪いだ。
沈黙が、廊下の温度をさらに下げていく。
ドヌーヴは目を伏せたまま、かすかに息を吐いた。
「……恋愛は、本当に罪深い」
ぽつりと、誰へでもなく投げられた言葉。
「俺は法律の世界に長くいた。最高裁判所長官として、あらゆる“罪”を裁いてきた」
ほんの一瞬、彼は自嘲するように笑った。
「けど……愛だけは裁けなかった。誰のものでもないはずの感情が、人の人生を壊すこともあるのに、俺には、その罪を量る方法がなかった」
彼は俺を見た。
まっすぐに、弱さを隠さない目で。
「フラッシュ、これは“罪滅ぼし”じゃない」
低く、よく通る声だった。
かつて何百もの人生を断じてきた、裁く者の声。
「俺はお前に償うつもりなんてこれっぽっちもない。これは俺が俺自身に下す──“裁き”だ」
息が止まる。
「俺たちの間にあるものに、線を引く。お前の未来と、俺の未来の間に。だから──これだけは言わせてくれ」
フラッシュは、何も言わなかった。
言葉なんて、きっと選びようがなかった。
この痛みを包めるような台詞なんて、世の中には存在しない。
それでも、彼は言った。
迷わず、真っ直ぐに、最も重たい言葉を。
「俺はお前を愛してる。たとえ自分の子にお前の名前を背負わせることになっても、俺は誇りに思う。──それが、俺にできる懺悔であり、下るべき裁きだ」
それは──友情の名をした、決して癒えない呪いだった。
目を伏せず、真正面から言い切る。
「お前が愛した罪は、俺が一生をかけて背負う。毎日、自分の子の名を呼ぶたびに──俺は、お前の失った心を思い知らされる」
声は震えていない。震える権利すら持たない者の声。
「それこそ、俺が俺に下せる唯一の裁き。死ぬまで逃げられない──終身刑だ」