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夜。テレビも消え、空気は乾いていた。リビングの窓には、街灯のオレンジがぼんやり映っている。
日下部が、ジュースを飲み干した。
その空のペットボトルを、何の気なしに、軽くテーブルに置く。
──“トン”という音が響いた。
その瞬間だった。
遥の肩が、ぴくりと跳ねた。
まるで、何かを叩きつけられる前に反射的に身構えるように。
手にしていたマグカップが、指から滑り落ち、床で派手に砕けた。
「──っ!」
破片が跳ね、足元に飛び散る。
静寂が、刺すように訪れた。
「……あ?」
日下部が顔を上げた。
遥はその場に立ち尽くし、唇をわずかに震わせていた。
目が虚ろだった。焦点が、まったく合っていない。
「何やってんだよ」
そう言った日下部の声すら、遥には届いていなかった。
「……今の、音……」
「……は?」
遥がぽつりと呟く。
その声はひどくかすれていて、どこか“別の場所”に向けて話しているようだった。
「ペットボトル、置いた音……似てた」
「……は?」
「誰かが、鉄の棒、床に叩きつける音……廊下の奥の、掃除用具室の……カギの音……誰かが、オレを……呼ぶ前の──」
遥は突然、息を荒くした。
過呼吸のように胸が上下し始め、指先が小刻みに震え始める。
「おい、遥──」
「オレ、戻れねぇ……っ。あんなの、また行ったら……」
「おい、落ち着けって」
日下部が立ち上がると、遥は首を横に振った。
拒絶のように。混乱のように。
「何もされないと、思ったのに……! ここは、大丈夫だと思ったのに……!」
「だから、誰もなんにも──」
「だから、怖ぇんだよッ!」
遥の声が、突き刺さるように響いた。
「何もされないことが……一番、怖ぇ……! オレ、もう何されたら安心で、何されなかったらヤバいのか……わかんねぇよ……!」
泣いてはいない。
けれど、全身がガタガタと震えていた。
痛みよりも、「痛みが来ない空白」に怯えていた。