テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
石畳の参道に足を踏み入れた瞬間、胸の奥が小さく鳴った。 孤児だった私を拾い、名を与え、剣の扱い方を教えてくれた癒しの天使ーーラフィエル・カリス。引退した今も、その気配は古い神殿の裏庭に残っている気がした。
「正義は感情に溺れないことだ。」
かつて彼はそう言って、私に剣を渡した。私を傷つけないために、彼自身の感情を押し殺して。ラフェエスが、誰よりも痛みを知っているからこその選択だった。だからこそ、私の揺らぎは、彼の選択を否定しまうかもしれない。
足が、進まない。
もし、私が「悪魔を倒す正義」を疑い始めたと知ったら。彼は、また自分を削って、私の前で微笑むのだろうか。尊重という名の距離を取ってしまうのだろうか。
それでも――会いたいと思っている自分がいる。
答えではなく、 選びかけている道が、独りよがりではないと、確かめたいだけだ。
私は深く息を吸い、門を押した。 軋む音が思ったより大きく響いた。 その音に応えるように、裏庭の奥から足音がする。
そこには、師匠の姿があった。年を重ねたはずなのに、癒しの天使特有の澄んだ光は少しも曇っていない。
「…師匠」
名前を呼ぶだけで、喉が詰まった。
彼は一瞬、驚いたように目を見開き――すぐに、困ったような笑みを浮かべた。
「リア…随分、大きくなったな。」
その一言で、胸の奥に張っていたものが音を立ててほどけた。
「急に来て、すみません。友人に、帰ってみろって言われて。」
「迷っている時ほど、帰りたくなるものだ。」
彼は責めることなく頷いた。
「ここは…君にとって、そういう場所だったんだろう。」
私たちは裏庭の石の縁に腰を下ろした。沈黙が落ちる。ひんやりとした夜気が肌を撫でる。
師匠の視線が、私の手に落ちる。剣だこだらけの、血を知る手。
「随分、重たいものを背負ってきた顔だ。」
胸が締めつけられた。
叱責でも、説教でもない。ただの事実。それが一番堪えた。
「…師匠」
言葉が続かない。
捕虜の悪魔が自分の名前を呼ぶ声が、ふいに蘇る。恐怖よりも先に、理解を求めていた。――あれを、師匠に話していいのか。
「話さなくていい。」
彼は、私の迷いを察したように言った。
「君が口にする準備ができるまで、私は待つ。それが、引退した癒し手の特権だ。」
小さく笑う。その奥に、押し殺された感情があることを、少年は知っている。
「だが、ひとつだけ聞かせてくれ。」
師匠は、まっすぐ私を見た。
「君は今も、“悪魔を殺すことが正義”だと、疑いなく言えるか?」
逃げ場のない問いだった。
私は視線を逸らし、それでも嘘はつかなかった。
「…言えません。」
師匠は目を閉じ、ほんの一瞬、息を吐いた。
「そうか。」
否定も、怒りもないく、ゆっくりと静かに言った。
「リア。私は昔、君を守るために、感情を殺せと教えた。それが、君を壊さない唯一の道だと信じていた。」
組まれた手に、力がこもる。
「だが今、君が迷っているなら…少なくとも、君の心は生きている。」
その言葉に、胸が熱くなる。
「迷うこと自体が罪だとは思わない。神殿はそうは言わないだろうがね。」
苦笑してから、彼は続けた。
「答えは、私は与えられない。だがーーここにいる間だけは、君は選ぶ途中でいてもいい。」
選ぶ途中。
その言葉が、静かに少年を支えた。
少年は深く頭を下げた。同情でもなく、許しでもなく、ただ居場所を与えられた気がして。
「…ありがとうございます、師匠。」
ラフィエルは、穏やかに頷いた。
「おかえり、リア。」
夜空に大きな満月が浮かんでいた。白銀の光が庭の木々を淡く照らし、影を長く伸ばす。まるで月自身が、少年をそっと迎え入れているかのようだった。