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「……三田、車寄せにつけられるように、クラクションを鳴らせ」
門を閉じようとしている男へ、知らせろと岩崎は言う。
「……構わないでんすか?何なら、あちらが収まるまで、時間潰しで、ぐるりをまわりますけど?」
三田が、遠慮ぎみに言った。
「逃げる事でもなかろう……」
岩崎は、先ほどとは、うって変わって重い口調になっている。運転席側は、何か、重苦しい空気が流れていた。
三田は言われた通り、門扉を開けるよう、クラクションを鳴らして合図する。
その大きな音に、後部座席の月子親子は、驚きから、びくりと肩を揺らした。
続けて、岩崎が窓を開け、クラクション以上の大声を、はり上げる。
「一ノ瀬君!どいてくれないか!車か入れん!」
門で、諍いを起こしている女学生が、岩崎の声に反応した。
はっとした表情を浮かべ、門から離れると、岩崎の乗る車へと駆け寄って来る。
「岩崎先生!お戻りになられたのですね!」
興奮気味の女学生を、岩崎は、迷惑そうに見た。
三田は、今だ、と言いたげに、女学生の脇を通り過ぎ、門を潜ると玄関前に車を止めた。
岩崎が車を降りるが、降り際、月子達へ、人を連れてくるから、車の中で待っているようにと静かに言った。
そして、一転し、荒々しい岩崎の大声が玄関前に響きに渡る。
女学生へ向け、岩崎は、怒鳴りつけていた。と、言うべきか、あまりの不機嫌な口調と声の大きさから、月子にはそう聞こえたのだ。
「全く。あのお嬢さんは、京介様を、追っかけてるんですよ。諦めが悪いのなんの。師弟の関係と、見せかけてますがね、ありゃ、京介様に、ゾッコンってやつですな。京介様は、次男坊とはいえ、欧州《ヨーロッパ》に渡っているしで、なんというか、そこいらの華族なんぞより、よっぽど、紳士で。あたしから言わせれば、そこまで、紳士ぶるんですか?!って具合に紳士でしてねぇ。まあ、そこに、あのお嬢さんも惚れ込んでるんでしょうねぇ」
三田が、車外の騒ぎを説明しようとばかりに、勝手にしゃべってくれた。
月子の脳裏には、また、野口のおばが言っていた、訳ありという言葉が過り、隣に座る母は、黙りこんでいる。
「なんども言っているように、私は、個人的にレッスンは行わない!」
「分かっています!ですから、今度の定期演奏会で、先生と一緒に演奏できれば……。私が、ピアノで伴奏します!先生は、チェロを!」
「いい加減にしないか!」
聞こえてくる、話し声というべきか、怒鳴りあいは、月子には、さっぱり理解出来ないものだった。
岩崎と、半ば対等に接している、女学生は、月子とそう歳も変わらず、そして、艶のある髪には、レース飾りのついた、大きなリボンを止めている。
着物は、紅色に、白く抜かれた幾何学模様が、袴は、皴ひとつない、パリッとしたもので、岩崎に劣らず、品のある、良家の子女に見えた。
そして、臆することなく、自分の意見を岩崎へぶつけている姿に、月子には、少しばかり、羨望の眼差しを送っていた。
自分とは、まさに、住む世界が違う二人なのだと、月子は、どこか、寂しさのようなものに襲われ、西条家の名前があるから、ここにいられるのだろうと、皮肉めいた巡り合わせに、ふっと小さく息を吐く。
「ああ、どうやら、収まりそうだ」
三田が、見てごらんなさいと、言いながら、こちらも、安堵からか、小さく息を吐きつつ、ほら、と、背後を指差した。
「あらあら、まあまあ!お見合いが、台無しじゃない!あなた、京介さんの邪魔しないでくださる?」
人力車に乗って、岩崎男爵夫婦と、あの、お咲とかいう女の子が現れた。
「こちらにも知らせが入ってね、転院だなんだと、言うから、月子さんが心配で、忙いで、帰って来たのよ。で、いったい、どうゆうことかしら?というよりも、京介さん、お見合いは、上手く行ったということで、よろしいのよね?」
芳子が、ニンマリ笑いながら、岩崎を伺っている。
「ああ、月子さんなら、申し分ない。話を進めるぞ、京介」
男爵も、にやつきながら、言う。
二人とも、ちらりと、女学生に目をやると、めでたい、めでたいと、岩崎を見続ける。
「あら?京介さん、そちらは?」
続け、芳子が、とぼけきった。
「帝都音楽学校で、岩崎先生にご教授をお受けしております、一ノ瀬玲子と申します。本日は、先生に、合奏のお伺いにまいりました」
名乗った女学生に、芳子は、そう、と、つれなく返事をする。隣では、男爵が、渋い顔をしている。
「一ノ瀬さんとおっしゃったわね。ちょうどいいわ、京介さんの為に、力を貸してくださる?二人で演奏なさいなさいな。京介さん、独身最後の演奏って、ことで、ねぇ?京一さん?」
男爵は、ああ、そうだと、苦し紛れに返事をし、岩崎は、あぜんと芳子を見るが、何かを察したのか、
「そ、そう、結婚が迫っていて、忙がしい。一ノ瀬君、そうはいうものの、合奏は、無理だ」
などと、たどたどしく、女学生──、玲子へ返事をする。
「……ご結婚……」
言い詰まる玲子へ、岩崎が、拍車をかけた。
「ああ、相手が、車の中で待っている。これからの事を話さなければいけないからねぇ。だから、私は、失敬するよ」
「そうそう!お待たせしては、いけないわ!京介さん!新居は、どうします?ここで、暮らしてもよろしいのよ?」
「義姉上《あねうえ》、それは、月子の希望も聞かないと」
そうね、そうね、と、芳子は岩崎へ満面の笑みを向け、男爵も、さあさあ、中で話しをと、促す。
岩崎は、これでもかと微笑みながら、車へとやって来て、後部座席のドアを開け、
「さあ、月子、降りられるかい?」
などと、妙な猫なで声を出した。
運転席では、三田が、笑いを堪えている。
月子は、どう、応じるべきかと、思わず、母を見た。