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課長は心広いなあ、と思いながら、和香はダイニングでお弁当を食べていた。
何処でもいいと言われたので、本当は図書館を眺めながら食べたかったのだが。
ちょっと遠慮してみた。
一番よく見えるの、寝室だったようだし。
それにしても、課長ってば、私みたいな、よく知らない人間をこんな簡単に家を上げるだなんて、警戒心なさすぎですよ。
私が課長を狙う怪しい輩だったりしたら、どうするんですか。
いや、課長は狙ってないですけどね、と思ったとき、耀が、
「そういえば、おばにもらった果物があったな」
とテーブルの籠に色鮮やかに盛られた林檎などを見る。
「私、切りましょうか?」
と和香は立ち上がった。
いろいろとお世話になったので。
感謝を込めて、するするっと林檎をうさぎにしたり、花にしたり、市松模様にしたりすると、
「すごいじゃないかっ。
お前にそんな細かいことができたとはっ」
と耀は驚く。
いや、私、どんなイメージなんですか、と思いながら和香は言った。
「昔、田舎の食堂でバイトしたときに習いました」
「そういうのできるとバイト代上がるとかあるのか」
「いや~、おばあさんが一人で経営してらっしゃる食堂でしたからね。
バイト代は……えーと。
なんユーロくらいでしたかね?」
耀が、……お前は一体、何処で働いてたんだ、という顔をする。
「ナイフは得意なんです、昔から」
またなんか怪しいことを言いはじめた……と思いながら、耀はオレンジまで花にしはじめた和香を見る。
いや、単に、飾り切りが得意だと言っているだけなのだが。
こいつだと、まともな意味に聞こえないの、なんでだろうな……。
自分が要求するまま、和香は、どんどん作ってくれ、皿が足らなくなったようだった。
「そこの棚から、出していいぞ」
と言うと、
「では、失礼して」
と和香は作り付けの食器棚の白い扉を開ける。
中の食器を眺めていた。
失礼して、とか言わなくていいんだぞ、と他人行儀な和香に思うが。
よく考えたら、まだ他人だった。
直属の部下ですらない。
……呑み友達くらいかな。
まあ、楽しく酔う呑み仲間という感じではないが。
酔ってんの、俺だけだからな……。
そう耀が思ったとき、和香がガランとした食器棚を覗いたまま、ちょっと不思議そうに言った。
「素敵なおうちで、なにもかも整ってるのに、意外にお皿は少ないですね」
「だって、一人暮らしなのに、いらないだろ? 皿」
「そういえば、そうですね。
あ、この素敵なガラスの器、お借りしても大丈夫ですか?」
和香が手にしていたのは、引っ越し祝いに友人がくれたものだった。
「いいぞ」
と言ったが、和香は切るのは得意だが、並べるのは得意ではないらしく。
「……私、こういうセンスないんですよね」
と渋い顔をするので、並べ直してやる。
和香は喜び、
「課長はやっぱりセンスいいですね。
切る私と並べる課長。
二人そろうと、ちょうどいい感じですね」
と言う。
二人そろうと、ちょうどいいと言われて、ちょっと嬉しかったが、和香は微笑み、
「二人そろってたら、技術力アップで、高く雇ってもらえそうです」
と言い出す。
「……ヨーロッパの片田舎のおばあさんの食堂にか」
「バイト代アップじゃなくて、寝る前にホットミルクがつくくらいかもしれませんけどね」
「住み込みで働いてたのか?」
「短い間ですよ。
学生時代、ちょっぴり放浪の旅に出てまして」
それから、二人で和香が切ったフルーツを食べた。
「あ、この照明器具も素敵ですね」
と上を見上げた和香に、
「全部業者任せだから」
と言いながら、
「そういえば、お前は今のアパートはいつから住んでるんだ?」
と訊いてみる。
ちょうど更新の時期なんですよ~。
いい家があったら、引っ越そうかなと思って、とかいう展開になったら、
「空いてる部屋、使ってもいいぞ」
とか言えるのだが、と思いながら。
アパートの環境、よくないしな。
なんせ、隣にイケメンが出るらしいし、と羽積を幽霊か変質者扱いして思う。
ところが、和香は、
「あのアパート、半年くらい前に住みはじめたばかりなんです」
と言い出した。
「……その前は?」
「え?」
「その前は何処に住んでたんだ?」
今の仕事に着いてから越した、というタイミングではなかったので、なんとなく訊いてみたのだが、和香は、
「今のアパートの斜め前のアパートに住んでましたね」
と言う。
何故、斜め前のアパートから、今のアパートにっ!?
「ちょうど、今のアパートのあの部屋が空いたので、引っ越したんですよ」
「……前のアパートが崩れかけてたとか?
防犯上、問題があったとか?」
「いいえ」
「変な男に付きまとわれていたとか?」
和香は、にこ、と笑って答えなかった。
そうなのかっ!?
いや、それにしては緊迫感がない上に、斜め前のアパートに越してもなんの意味もないだろうっ。
和香は、ただ、笑ってはぐらかそうとしているだけなのだろうか?
なんなんだ、お前が引っ越した秘密っ。
とてつもなく、しょうもなさそうな予感もするがっ、
と思う耀は、和香のアパートの斜め前にあるアパートを必死に思い出してみた。
記憶の中で、和香のアパートの前に立ち、ぐるりと見回してみる。
あれか。
木の生い茂る古い民家を挟んで向こうにあったアパート。
今和香が住んでるところより新しかった気がする。
窓の造りなんかも凝っていて、今のアパートより女子好みな感じだったようだが。
なんで、急に出たんだろうな……?
アパートの外観を思い出すと、さらに疑問が湧いてくる。
だが、さっきの、にこ、からいっても、話しそうにないな、と思った耀は違うことで気になっていることを訊いてみた。
「そういえば、『尊敬しています』ってスマホで打った話をしていたが。
誰に向かって打ったんだ?」
ああ、あれですか、と和香は笑う。
「打ったのは、美那さんにだったんですけど。
尊敬しているのは、猫です」
「猫!?」
「猫を尊敬しています、と美那さんに打ったんです」
「どういう状況で、猫を尊敬したんだ。
そして、何故、蒼井にそんなメッセージを送るんだ」
せめて、蒼井を尊敬してやれ、と言うと、
「いやあ、美那さんのことは尊敬してますよ」
と言ったあと、
「単に猫みたいに、身軽で気ままに生きてみたいなと思ったんで。
その話をしただけです」
と和香は言う。
「いや、お前も蒼井も充分身軽で気ままなように思うが……」
と耀が言うと、
「そうかもしれませんね」
と言って、和香は、ちょっと笑ってみせた。
そのあと、二人、ソファで借りてきた本を読んだ。
そうやって、くつろいでいる姿を見ていると、和香は充分、猫っぽかった。
尊敬しなくても、お前も猫だぞ、と耀は思う。
身軽で気まま。
そして、同じ場所にいても、何処を見ているのかよくわからないところまで猫っぽい。
……妙なところで笑い出したりするしな。
こいつの感性、ついていけないところがある、と思うのに。
一緒にいると、何故か妙に落ち着く――。
満腹、あったかい、目が疲れた、と眠くなる条件が三拍子そろったらしい和香は、うとうととしはじめた。
物音ひとつさせないよう、耀はページをめくるのにも緊張する。
そうそう。
そのまま寝るんだ。
よしっ、寝ろっ、と耀は念を送ってみた。
すると、自分が超能力者だったのか。
和香が疲れていたのか。
和香は、ゆっくり目を閉じはじめた。
だが、突然、『いや、人様のおうちで寝てはいかんだろうっ』とばかりに、カッと目を見開く。
和香が神殿の巫女なら、今、なにか神からのお告げでもあったのかっ? と問いたくなるくらいの勢いだった。
いやいや。
いいから、いいから。
無駄な抵抗をせずに寝ろ。
クラシックでも流してみようかと思ったが、意外にそれで目が覚めて、鼻歌でも歌い出すかもしれない。
そうだ。
突然、スマホが鳴らないよう、自分の分だけでも切っておこう。
そんなことをそっとやっている間に、和香は肘掛けに寄りかかり、目を閉じていた。
もう少し寝入ったら、毛布でもかけてやろう。
耀は和香の前に立って、その寝顔を見下ろした。
ぽかぽかした日差しの中、塀の上で寝ている猫みたいに、気持ちよさそうに和香は眠っていた。