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僕は、折原詩織の雨(あめ)が静まるのを待ってから背中に雨(う)を通した。
折原さんの「雨(う)って何ですか?」という質問に対して、治療用の鍼だと簡単に答えたが、鍼供養に使われる雨(う)は、治療用の鍼とは構造も用途も全く異なっている。
鍼治療に使われる鍼の長さが一寸六分(五センチ)なのに対して、雨の長さは三寸(九センチ)と長く、中が筒状で注射針を細くしたような作りになっていた。
更に、鍼治療では筒状の鍼管に鍼を入れて、トントンと指で叩いて刺入する菅鍼法(かんしんほう)が用いられるが、鍼供養では、親指と人差し指でつまんだだけの鍼を、素早く刺入する撚鍼法(ねんしんほう)という技法が用いられている。
僕が、邪気を引き寄せる呪い詞(まじないことば)を唱え始めると、雨(う)の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い霧が吹き出してきた。
これが、邪気のことを雨(あめ)と呼ぶ理由なのだろう。
その重い霧が空中を漂い、霧散する前に、僕が深呼吸をする要領で口から深く吸い込んでいく。
すると、口いっぱいに酸味が広がる。
雨音と同じ悲しみの味だ。
僕の体内に入り込んだ雨は、肉体を支配しようと全身のあらゆる場所を突き刺してきた。
しかし、僕の強い霊力がそれを許さない。
この時、無数の針で内臓を突き刺すような激痛に苛まれる。
やがて、侵入を諦めた雨は一つにまとまって、まるで硬い水晶玉のようになった。
そして、僕の様子をうかがうように小刻みな伸縮を繰り返している。
まるで、獰猛な獣が静かな呼吸を繰り返しながら、獲物を狙っているみたいだ。
僕は身体の中に存在する、その凶々しくも美しい水晶玉に意識を集中させる。
すると、そこから囁くような声が途切れ途切れに聞こえてきた。
更に意識を集中させると、声がはっきりして会話が聞き取れるようになる。
男女の罵り合う声が聞こえてきた。
女性の声には聞き覚えが有る。
折原さんの声だ。
「どういうことなの?
私のお腹にはアナタの赤ちゃんがいるのよ。
それなのに、別の女性と結婚するってどういうことよ!」
苛立つ男の声も聞こえてくる。
「しょうがないだろう。
親父が政略結婚を画策している。
相手は大手製菓会社を創業した一族の娘さんなんだ。
親父には逆らえないよ。
それに、会社を守るためには必要なことなんだ」
「じゃあ、この子を堕ろせっていうの?」
「そうは言ってない。
僕は、その娘さんと結婚するけど、本当に愛しているのは君だけなんだ。だから、ずっと付き合っていけば良いじゃないか」
「私に、愛人になれって言っているの?」
その質問は、小さな泣き声と共に徐々にフェードアウトしてしまう。
次は、男二人が何やら楽しげに会話する声が聞こえてくる。
「経理部の折原詩織って知ってるか?」
「ああ、社内で一番の美人だろう」
「桜井専務と付き合っていたけど、どうやら捨てられたらしいぜ」
「本当か?誰が言ってたんだよ」
「バカ。飲み会の席で桜井専務本人が、面白おかしく喋っていたんだよ。
名家のお嬢様と婚約が決まったから、色々と清算するのが大変だって…
折原を、愛人三号に指名したけど断られたって笑ってたよ」
「まあ、専務も最悪だけど、その最悪な男に金目当てで群がる女も最悪だよな」
「お互い様ってことだよ」
吐き捨てられた悪口の後に、二人の笑い声がハウリングして、最後はキーンという金属音と共に消えてしまう。
今度は、女同士の会話が聞こえてくる。
「あの子、本気で桜井専務と結婚できると思っていたのかしら?」
「バカじゃあないの。
もて遊ばれているとも知らずに、都合よく秘密交際に応じて、自分は約束守ってずっと黙っていたのに、別れた途端にペラペラ喋りまくられて、本当に哀れな女だわ」
「美人だと思って、調子に乗ってたんじゃないの?」
フンと鼻息荒く笑った声は、シュポッという吸引音と共に一瞬で消えてしまう。
すると今度は、諭すような男性の落ち着いた声が聞こえてきた。
「ずいぶんと迷われているようですが、十二週未満の妊娠初期と、それ以降では人工妊娠中絶の方法や手続きが大きく異なるのです。
経済的な面もありますが、何より母体に掛かる肉体的、精神的負担が大きくなるので、早目に決断されることをお勧めします」
折原詩織の泣き叫ぶ声が反響する中で、呪詛めいた慟哭が、ぽとり、ぽとりと落ちてきた。
「ゴメンね…産んであげられなくて。
ゴメンね…抱きしめてあげられなくて。
ゴメンね…弱い母親で。
ゴメンね…身勝手な人間で。
きっとアナタは、私のことを恨んでいるよね?
許してくれなんて言えないけど、私は、アナタの紅葉みたいな小さな手に触れてみたかった。
一人で寂しい思いをさせてしまったけど、私も直ぐにそっちに行くからね。
そうすれば、ずっとアナタと一緒に暮らして行ける。
そっちでは、お金の心配も、辱められたり、踏みにじられたり、騙されたりすることもないだろうから…」
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