深夜二時を過ぎた頃。王宮の廊下は、まるで息をひそめるように静まり返っていた。
人の気配も、声も、何もない。
ただ、遠くで灯る燭台の揺らめきと、どこかから聞こえる時計の針の音だけ。
そんな静寂の中。
ハイネは、また陛下の部屋の扉の前に立っていた。
ノックはしない。ただ、そっと手を置くだけ。
すると――中から、まるでそれを待っていたかのように、ゆっくりと扉が開いた。
「……来ると思っていた」
「陛下……」
「ヴィクトールでいい」
ハイネは一瞬ためらい、それでも、目を見て応じた。
「……では。ヴィクトール」
その一言が、ふたりの間に何かを灯す。
淡く、あたたかく、そして、切なく。
ヴィクトールは部屋の中へと招き入れ、ハイネはためらわず足を踏み入れる。
寝巻のままのヴィクトールと、薄い上着を羽織ったハイネ。
互いに夜風の冷たさを纏いながら、それでも心の距離は、ほんの少しずつ近づいていた。
「……君の声で、名前を呼ばれるのは、不思議な気分だ」
「わたくしも……少し、震えました」
「怖いのかい?」
「いえ。ただ……嬉しいのです。これほどまでに、名前を呼ぶことが、意味を持つのだと知って」
ヴィクトールが笑う。けれどそれは、どこか翳りを帯びた笑みだった。
「……ハイネ」
「はい」
「本当はね、何度も、何度も――夢の中で君を呼んでいたよ。けれど、君はいつも遠くにいた」
「それでも、貴方の声は、ずっと届いていました」
目と目が合う。
名前を呼ぶだけで、心が震える。
言葉はもういらないと、そんな風に思える夜だった。
「ヴィクトール」
「……ハイネ」
二人の間に距離はなかった。
手も、肩も、頬も、触れられるほど近くにある。
けれど――触れない。
触れてしまえば、すべてが壊れてしまいそうだった。
「……もう少しだけ、こうしていてくれないか」
「もちろんです。貴方が望むなら、わたくしは……」
ハイネの声が少しだけ掠れる。
「何度でも、貴方の名を呼びます」
「……ありがとう。ハイネ」
そうして静かな夜に、ふたりの名前だけが、淡く、優しく響き合っていた。