テラーノベル
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その日の午後、碧斗がやって来た。戸崎の部屋を訪ねてから数日後のことだ。
この日は両親が揃って久しぶりの観劇に出かけることになっていた。昼食を終えた後、外出の準備をしていた母が思い出したように私に告げた。
「お昼前に、仁枝ちゃんから電話があったんだけど」
仁枝ちゃんというのは、母の友人であり、碧斗の母親だ。
「カニをたくさんもらったから、おすそ分けしてくれるんだって。後で碧斗君が持って来てくれるらしいから、詩乃、受け取ってくれる?ほら、お母さんたち、これから出かけるでしょ。詩乃は今日家にいるって言ってたから、大丈夫よね?」
「わ、私……?」
母は首を傾げる。
「あら、もしかして、出かける用事とかできちゃった?」
「別に、ないけど……」
素直に答えてしまって後悔する。出かけると言って、外出してしまえば良かった。
「そう?それなら、お願いするわね」
「おぉい、そろそろ出かけるぞ」
玄関の方から父の声が飛んできた。
「じゃあ、詩乃、頼んだわね」
「う、うん……」
私は渋い顔で返事をした。
母は私に物問いたげな目を向けたが、父の急かす声に弾かれたように返事をし、慌ただしくリビングを出て行った。
両親が出かけていった後、私はため息をついた。数日前、戸崎のアパートを出た所で碧斗に会った。その時のことを思い出すと気まずくて、どういう顔をすればいいのか分からない。
「とりあえず、受け取るだけだから」
私は気を取り直して、碧斗の訪問を待った。
彼がやって来たのは、それからしばらくたってからだ。
いつも通りにしていればいいのだと自分に言い聞かせて、私は玄関に向かった。どきどきしながら開けたドアの向こうには、いつもと変わらぬ様子の碧斗が立っていた。私を見てにこりと笑う。
「こんにちわ。母さんから連絡が行ってたと思うけど、カニ、持って来たぞ。あと、この上の紙袋にはシフォンケーキが入ってる。たくさんもらったから、これも持って行けって、母さんが。個包装されていて、保存もしやすいだろうから、って」
「こんなに色々?わざわざありがとう」
私は礼を言いながら、碧斗から荷物を受け取ろうとした。
ところが碧斗は私の手をかわす。
「俺が運ぶよ」
碧斗は言いながら靴を脱ごうとした。
「ここでもらうよ」
私は碧斗を止めた。彼を家に上げれば、それだけ会話する時間が増える。そうなった時、碧斗が先日のことに触れないとも限らない。それによって、戸崎に対して取ってしまった自分の恥ずかしい行動を思い出したくなかった。
碧斗は不思議な顔で私を見た。
「いつもなら、どうぞどうぞって言うのに、どうした?俺が家に入るの、今日は何かまずい?」
「そ、そういうわけじゃ……」
「なら、俺が持ってくよ。その後、柚乃に挨拶もしたいし」
そう言われては、碧斗の親切をさらには断りにくい。
「……じゃあ、お願いします」
「あぁ」
碧斗は荷物を抱え直し、廊下の奥へと進んで行った。ダイニング側から入り、カウンターを目で示す。
「ひとまずここに置いていい?」
「うん、大丈夫。ありがとう」
「じゃあ、柚乃に挨拶するかな」
荷物を置き、身軽になった碧斗は早速リビングに足を向けた。
「いつもありがとう。柚乃のこと気にかけてくれて」
「当たり前のことさ」
碧斗が柚乃の位牌に手を合わせている間に、私は箱からカニを取り出して包みごと冷蔵庫に仕舞った。その後、飲み物をどうしようか迷う。
碧斗が来ればいつも何かしら出していたが、今日に限って何も出さずに帰すというのも変だ。いつもと違う私の行動が、かえって藪蛇となってしまうかもしれない。それならばいつものように飲み物を出すなどした方がいい。
私は紅茶を淹れ、彼が持って来てくれたシフォンケーキと共にトレイに乗せてリビングに向かった。
いったい何を話しているのか、碧斗はいつもよりも長い時間、柚乃の位牌と向き合っていた。
私は彼の背中に遠慮がちに声をかける。
「お茶、飲まない?」
碧斗は振り向き、私に訊ねる。
「いいのか?」
「うん、時間があるなら、だけど」
「ふぅん」
碧斗はくすっと笑う。
「さっきは俺を家に上げたくなさそうだったけど?」
「あ、あれは、その……」
私はうろたえ、その理由を追及されるかもしれないと身構えた。
しかし、碧斗はただおかしそうに笑うだけだった。
理由は聞かないと言ったあの日の言葉は今も有効なのかもしれないと、私は自分の都合のいいように解釈することにした。
「とにかく、あったかいうちに飲んで」
「ありがと。頂くよ」
碧斗はソファに腰を下ろし、テーブルの上を見て、首を傾げる。
「シフォンケーキは俺だけ?詩乃はいらないの?」
「私は後で食べようかな、って……」
「そう言わずに、一緒に食べようぜ。シフォンケーキ、柚乃が好きだっただろ?俺だけ食べてたら、夢に出て来て恨み言でも言われそうだからさ」
「柚乃は、そんなに食い意地張ってなかったと思うけど」
碧斗の言葉がおかしくて、私は笑い声をあげた。碧斗が来た時からなんとなく身構えていて緊張していた。けれど今、声を出して笑ったことで、それらがふっと解けて溶けたような気がした。
「それなら、私も一緒に頂こうっと」
「うん、そうして」
碧斗はにっと笑い、ティカップに口をつけた。
私はキッチンに戻り、シフォンケーキを二つ持ってきた。そのうちの一つを柚乃の位牌の前に置く。
「柚乃、碧斗が持ってきてくれたよ。シフォンケーキ、好きだったもんね」
碧斗の向かい側に戻った私は、直に床に腰を下ろした。シフォンケーキの包みを開き、早速味わう。
「これ、美味しいね」
「確かにうまい。でもさ、俺、柚乃が作るお菓子の中じゃ、シフォンケーキが一番好きだった」
「私もそうだった。私もお菓子は作るけど、やっぱり柚乃が作るお菓子には全然敵わなかったなぁ」
「そんなことないだろ。詩乃が毎年バレンタインデイに作ってくれるチョコケーキ、あれ、すごくうまいよ」
「え、そ、そう?それは良かった」
「なぁ、今度のバレンタインデイも、またあれ、作ってくれるんだよな?」
「え?」
碧斗には好きな人がいるはずだ。前回は、義理チョコなんだから問題ないと言い張る碧斗に押し切られて、彼にチョコレートケーキを作ってあげたが、次の時もそれをしていいのかしらと、頷くのにためらった。今ではもう一昨年となる花火大会の時点では、確か、まだ何の進展もないようなことを言っていたが、あれからもうだいぶ時が過ぎている。そろそろ何かしらの変化があっても良さそうなものだ。
「碧斗って、好きな人がいるんだよね?その人とはどうなってるの?告白はしたの?」
碧斗の表情が揺れた。
「えぇと、まだ、かな」
「まだ?」
「もう少しだけ待とうと思ってるんだ。彼女、色々あったから。それに、たぶん、今はまだ、俺の告白を本気にはしてもらえなさそうだし」
「ふぅん……」
優しい目をして話す碧斗を見ていたら、急に胸の内がもやっとした。どうしてそんな気分になったのか不思議だったが、きっとブラコン的な気持ちから来るものだろうと結論づけ、私は話題を変える。
「そう言えば、来年の春からは碧斗はN県に住むんだったね」
大学卒業後、私は地元で公務員として働くことが決まっているが、碧斗は他県にある商社に就職する。
「碧斗とこれまでみたいに会えなくなるのは、やっぱり寂しいなぁ」
私がぽつんと漏らした言葉を聞いて、碧斗は一瞬真顔になったが、すぐにふっと表情を崩して笑う。
「長い休みなんかには帰ってくるよ。その時はめいっぱい遊ぼうぜ。普段は電話もメールもあるしさ」
「そうだよね。新幹線で二時間くらいだもんね。でも、彼女ができたら、私のことは二の次三の次でいいからね」
「彼女ねぇ。できるかどうかも分からないけどな」
碧斗は肩をすくめて苦笑した。
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ゆずき
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