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「宗親、さ……?」
お陰で目線は随分楽になったけれど、今度は私が彼を見下ろすみたいになってしまったことが落ち着かない。
なのに宗親さんは「しー」って私の唇に人差し指を当てて黙らせると、そのまま話し出すの。
「僕が、以前婚姻届を出さなかった理由は……春凪が僕のことを好きになってくれていなかったからです」
宗親さんに切ない表情で見上げられて、私は思わず「え?」とつぶやいた。
「僕はね、春凪。キミと両想いになれるまでは婚姻届は出さないって心に決めていたんだ」
偽装結婚を持ちかけていらしたくせに?
そんなことをおっしゃる宗親さんにキョトンとしたら、彼が小さく吐息を落とした。
「言いましたよね? 僕はキミを妻に欲しいと希った時から……いいえ。それよりもっとずっと前から……春凪のことが好きだった、って」
言われて、そう言えばそんなことをおっしゃってらしたなって思い出してコクッと頷いたら、膝に載せたままだった手をギュッと握られた。
「失恋したと……僕にとっては願ってもない千載一遇のチャンスをもたらしてくれた大好きなキミを。また他の男に取られたくない一心で契約結婚だの、入籍は済ませただのと小賢しい御託を並べて僕のそばに縛りつけたくせに。……最初からそこだけは譲れないラインだって、自分の中で決めていたんです」
「最初……から?」
「はい」
恐る恐るつぶやいたら即答されて、私は息を呑む。
「幸いキミは僕の見た目と声は好みのどストライクだって教えてくれたから。だったらそばに置いて毎日嫌って言うほどキミのことを占有して……。そうしていく中で絶対いつか丸ごと僕のことを好きになってもらうって……。春凪から僕に〝好きです〟って言ってもらうって……。変に意地になっていました」
何それ?
そんなの、そんなの――。
「宗親さんの……バカ。偽装だって言われてるのに……宗親さんのこと、好きになりましただなんてルール違反な気持ち、私から伝えられるわけないじゃないですかっ」
私、ずっとずっとそう思っていたから……。だからこの気持ちに気付かれたら終わりだって……すっごくすっごく辛い思いをしてきたのに!
宗親さんの変な意地のせいだったって思ったら、むちゃくちゃ悔しくなった。
「――本当にすみません。臆病な僕が真っ向勝負を避けて愚策に走ってしまったせいで、春凪に随分としんどい思いをさせてしまったみたいですね。僕が……あんな回りくどい真似をせず、最初からキミに『好きです。結婚を前提に付き合ってください』って伝えられていたら……。こんなことにはならなかったのに」
宗親さんのバカっ!
本当にその通りですよぅ!
そう言いたいのに……。
私が責めた途端しゅん、としたお顔をなさって素直に謝られてしまったから。
私は毒気を抜かれて、それ以上は何も言えなくなってしまった。
「僕より八つも年下な春凪は……僕がキミに出会った時には既に同級生の男と付き合っていて……Misokaではその男のことをいつも愛しそうに見つめていたから……。キミがフリーになったのを知ってチャンスだって思ったくせに……どうしても正攻法で行くことが出来ませんでした。ごめんなさい、春凪。――情けない僕をどうか許して?」
私はそれに小さく頷きながらも問わずにはいられない。
「宗親さん。コウちゃんと一緒にいた頃の私を……知ってるの?」
って。
私の疑問に、宗親さんは一瞬だけ不機嫌そうに眉根を寄せて、「知っています」と苦々しそうにつぶやいた。
「あの男はキミを大切にしているようには見えなかったから……。最初のうちはね、何でこの子は自分を押し殺してまであんな男と一緒にいるんだろう?って心配で……目が離せなかったんです」
妹と同い年くらいの若い女の子が、酷い言葉を投げかけられながらも懸命に彼氏に愛されようと尽くしている姿が、余りにも痛々しく見えたのだと宗親さんに言われて……私はチクリと胸の奥が痛むのを感じた。
私自身、コウちゃんと一緒にいるとき、彼から大事にされていないと感じていなかったわけじゃない。
エッチのとき、ちっとも濡れてこないことを責められたのも覚えているし、それを何とかしたくてローションを用意したら鼻で笑われたのだって覚えてる。
濡れない上にローションを使ってでさえ痛がるから、私と一緒にいると男としての自信を喪失させられるってため息をつかれたことも一度や二度じゃなかった。
付き合ってるとき、面と向かって言われたことはなかったけれど、私の胸にも不満を持たれていたことも後から知ったし。
それでも先に好きだって告白してくれたのはコウちゃんからだったから、私は見た目だけでも彼に好かれた自分を保っていたくて……服装もメイクも……髪型でさえも彼の好みに合わせて始終コウちゃんの顔色を窺ってデートしていたように思う。
「Misokaの支払いも、いつもキミがしていましたよね? ――彼の分まで全部」
そんなところまで見られていたんだと知って、私は恥ずかしくて堪らなくなる。
「は、初めての彼氏だったので……その、どんな風に接するのが正解なのかよく分からなかったんです。ほ、ほらっ。うち、家があんななのでいずれは親が決めた人と結婚させられるんだろうなって。必死に抵抗するふりはしていましたけど……好きな人と結婚すること、実際には薄々諦めていましたし……それまでの間くらい、自由恋愛の思い出をたくさん作るぞー! あわよくばコウちゃんにあの家から連れ出してもらうぞー!みたいに……その……意地になってました」
宗親さんは柴田の家が抱えていた因縁をご存知だったから。
だから誰にも話したことのない、あの当時のそんな馬鹿な本音を話してみてもいいかなって思ってしまった。
……それに、宗親さんのお陰で私、その呪縛から解き放たれたんだもの。
……宗親さんだって、さっきから相当恥ずかしい心情吐露をしてくれている。
私も少しぐらい浅はかだった自分をお見せしてもいいよね?って思ってしまった。
「けど……ご存知でした? Misokaって学割がきくんですっ!」
一介の学生が、頻繁にバーを訪れることが出来るなんて、普通に考えたらおかしいと思う。
でも……Misokaは、Misokaだけはすっごくリーズナブルで。
Misokaでならば、それが可能だったの。
「ワンコインで飲み放題、千円出したら色んなおつまみも付いてくるとかっ。すごくないですか? 明智さん、神です!」
大学を卒業してから、学割がきかなくなるのが怖いって思う程度には、私、絶対学生の頃、優遇されていたと思うの。
就職してすぐ、宗親さんと色々あって足が遠のいてしまったけれど、それがなくてもある程度生活の基盤が整うまでは行けなかったんじゃないかな?
何せ私、通帳の残高が四桁を記録した女なので。(あ、い、今はちゃんと五桁越えました! 何ならもうじき六桁です!)
今度ほたると行ったらお土産もつけてくださるって言って下さったし、Misokaのマスター明智さんは、本当に商売っけのない人だなぁって思って。
「宗親さん、明智さんも宗親さんみたいにどこかの御曹司か何かですか?」
お金持ちの道楽なら規格外の学割も、太っ腹なお土産も説明できちゃう気がした。
「明智の父親はごくごく一般的なサラリーマンで、母親はスーパーでレジ打ちのパートタイマーをしています」
私の言葉に、宗親さんはちょっぴり不機嫌そうにそう返すと、おもむろに立ち上がられた。
私はそんな宗親さんを見上げながら(足、疲れちゃったのかな)って思う。
「そうなんですか? でしたら尚のこと、私、マスターには感謝してもしきれませんねっ。就職してからはずっと行けてなかったですけど、これからはまたちょくちょくほたると行きた――、……んんんっ」
――いです!まで言わせてもらえずに、私は宗親さんから半ば強引に唇を塞がれて、ただただ驚いて瞳を見開いた。
ソファに片足を乗り上げるようにして私に覆い被さった宗親さんから、後頭部をグッと押さえつけられて逃げられないようにされてしまう。それが、何だかとってももどかしいの。
「んっ、あ、はぁ、んっ、……ねちか、さっ、……ん、ぁ」
何とか「宗親さん」って呼びかけたいのに、それすらさせたくないみたいに話そうとするたび、舌を絡め取られて吸い上げられる。
やっと唇を離してもらえた時には、私、酸欠で涙目になっていた。
肩で息をしながら宗親さんをぼんやり見上げたら、とても悲しそうな顔をした宗親さんが「僕なのに……」って消え入りそうなほど小さな声でポツンとつぶやいて。
私はそれがどういう意味なのかちっとも分からなくて、気持ち悪かったから。
グルグルと宗親さんとの会話を思い出してみた。