テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
【プロローグ】
朝起きて、隣に誰かがいる生活なんて───
ずっと、夢の中だけの話だと思ってた。
「ひろくん、おはよ」
穏やかな声と、髪を撫でる指先。
その温もりは、夢と現実の境界線を優しく溶かしていくようだった。
柔らかな光が差し込む寝室で、僕の視界はゆっくりとクリアになっていく。
それが僕の目覚まし。体温のある現実。
僕の隣で、敦はいつも少しだけ早く目を覚まし
僕が目を開けるのを待っていてくれる。
その眼差しは、朝日に照らされて、まるで琥珀のように輝いていた。
太齋敦
この人と出会って
好きになられて、好きになって
少しずつ過去の痛みから解放されて。
まるで凍りついていた心が、春の陽射しを浴びてゆっくりと解けていくような感覚だった。
彼の存在そのものが、僕にとっての確かな光であり、希望だった。
僕は、今──
誰よりも優しくて、強くて、温かい人と一緒に暮らしている。
彼の隣にいるだけで、世界はこんなにも色鮮やかになるのかと、毎日が発見の連続だった。
毎朝、キッチンから漂ってくる珈琲の匂い。
その香ばしい香りが、まだ眠気の残る僕の意識を穏やかに覚醒させる。
寝ぼけ眼の僕を、後ろから抱きしめてくれる腕。
彼の逞しい腕が僕を包み込むたび、僕は世界で一番安全な場所にいるのだと実感する。
その温かさに、どれだけ救われてきただろう。
仕事に向かう前に、唇にそっとくれるキス。
それは、僕の一日を祝福してくれる
甘くて優しい魔法のようだった。
ああ、夢みたいだなって、時々思う。
こんなにも満たされた日々が、本当に僕の現実なのだと、信じられない気持ちになる。
あの真っ暗な日々を生き延びて、こんなふうに
陽の当たる場所に辿り着けたなんて。
かつては、明日が来るのが怖くて、ただ息をしているだけの毎日だったのに。
〝敦と付き合ってから、僕は変われた〟
初めての安心。初めての肯定。
そして、誰かを信じるという行為。
それは、僕にとってあまりにも尊く、かけがえのないものだった。
高校時代の僕が見たら、信じられないって言うと思う。
あんなにも人を恐れ、心を閉ざしていた自分が
こんなにも誰かに心を開いているなんて。
驚くだろうな。
そんな僕は、大学の卒業制作もどうにかやりきった。
徹夜続きで心身ともに疲弊しながらも
敦の励ましがあったからこそ、最後まで走り切ることができた。
大手企業からの内定も、奇跡みたいに手に入った。
それは、僕がようやく社会の一員として認められた証のようで、胸がいっぱいになった。
(将来が見えるって、こんなに心が軽くなるんだ…)
漠然とした不安に苛まれる日々は終わり
目の前には明るい道が続いている。
そんな確かな未来が、僕の心を解き放ってくれた。
ようやく〝普通〟の未来に手が届きかけていた。
何もかも、順調だった。
しかし、そんな幸せはそう長くは続いてくれなかった。
まるで、幸福の絶頂から
ゆっくりと暗闇に引きずり込まれるような感覚だった。
……最初は小さな違和感だった。
夜、ベッドに入ってもなかなか寝付けず
天井を見つめる時間が長くなった。
ふとした瞬間に、自分の意思とは関係なく指先が震えたり
マグカップを持つ手が微かに揺れたりする。
夢の中で、《《浜崎くん》》の怒鳴り声が聞こえるようになったのは───
敦と同棲を始めて、1ヶ月経った頃からだった。
それは、まるで耳元で直接叫ばれているかのような生々しさで、僕の眠りを容赦なく引き裂いた。
「ひろ、大丈夫?だいぶ魘されてたみたいだけど…」
僕が夜中にうなされていると、敦は毎回
そう言って背中をさすってくれた。
その大きな手のひらが僕の背中を優しく撫でるたび、少しだけ現実に戻ってこられた。
敦は僕を心配してなのか、僕が眠るまで隣にいてくれて、その温かい体温が僕を包んでくれた。
それでもし、敦の仕事に支障が出たら…と考えると申し訳なくて、胸が締め付けられた。
だから、良い夢の味方とかを調べて、藁にもすがる思いで試してみた。
何らかのストレスから来ている可能性もあるからと、ネットで調べた瞑想をしてみたり
心を落ち着かせるための音楽を聴いてみたり。
アイマスクをつけて寝たりもした。
少しでも外部からの刺激を遮断して、安らかな眠りを得ようと必死だった。
意識すると、そこから3日ぐらいは悪夢を見ることもなかった。
一時的な効果に、僕は安堵した。
でもあるとき、敦とのデート中にすれ違う男の顔が浜崎くんと瓜二つに見えたことがあった。
それは一瞬の幻覚だとわかっていても、心臓が跳ね上がった。
ひとりじゃない、2人も、3人も。
街行く人々の中に、彼の影を見つけるたびに
僕の心はざわめき、息が詰まるような錯覚に陥った。
反射的にしゅんの服の裾を掴めば
「ひ、ひろ?どうしたの…?震えてるけど…」
なんて心配しながら俺の顔を覗き込んで来るから、首を横に振って〝なんでもないんです〟
と誤魔化すことしかできなかった。
そのときから、本当に自分がおかしくなっているんじゃないかと思い始めた。
このままでは、大切な敦にまで迷惑をかけてしまうのではないかという恐怖が
僕を支配し始めた。