何よりも大切な存在の悲鳴を聞いたような気がして、今よりずっと幼いグリュエーの助けを呼ぶ声を聞いたような気がして、ベルニージュは深い眠りの底から急速に浮上し、意識が現れる。薄ぼんやりした緑の明かりと眩い橙の点在が目に入る。
信じがたい状況だ。村の広場で磔にされている。大した怪我はないが、身動きが取れず、指一本動かせない。縄で猿轡を噛まされ、呪文も唱えられない。直立する丸太に縛り付けられ、足元には担ぎ上げるべき火の到来を待ち侘びる薪が山と積まれていた。視界の端でグリュエーもまた同じ目に遭っていることが分かった。魔導書の変身は解けている。
見知らぬ魔法使いの出した食事には気を付けた方が良いよ、とグリュエーに言ったことを思い出す。昨日の今日だ。何て間の抜けた始末だろう。既に見知らぬ魔法使いではなかった、と言い訳したかったが猿轡がそれを許さない。
広場に集まる村人たちは松明を掲げ、狂った獣のような残忍な表情で叫ぶ。魔女、悪鬼、開拓者、誇り、それに加えて血だとか生贄だとか死だとか物騒な言葉が飛び交う。二人の少女を村の祖である開拓者たちに生贄として捧げるつもりなのだ。キーグッドやその配下が殺された理由と同じだろうか、とベルニージュは思案する。キーグッドを刺し貫いていた像は丁度背後にあり、村人たちはそちらにも熱視線を向けている。
その群衆の中にソヴォラがいた。ベルニージュと目が合う。
「悪く思わないで」ソヴォラの声は震えている。「あたしには他に選択肢が無いのよ」
帰郷のためだけに余所者を身代わりにしたというのだろうか。あるいは精神に作用する呪いだろうか、とベルニージュは推測する。同士討ちを狙う呪いということなら筋は通る。しかしなぜソヴォラにばかり働かせるのだろう。村人同士はなぜ争いにならないのだろうか。
あるいは生家の家族が人質に取られているのだろうか。もう既に亡くなっているのだろう、とベルニージュは予想していたが、可能性はある。もしかしたら生きており、人質として、ソヴォラを利用しているのかもしれない。呪いが無くても起こりうることだが。あるいは……。
その時、群衆の外側に動きがあった。チェスタ率いる加護官たちだ。グリュエー、もとい彼らの尊い護女エーミを救いにきたのだ。しかし何の争いも起こらない。群衆は加護官たちの歩みを僅かばかりも滞らせることなく道を開ける。加護官たちが脅したり、諭したりしたわけでもない。今少女を生贄に捧げんとしていた群衆が、まるでチェスタの部下であるかのように粛々と従い、生贄が救出される様を当たり前のことのように見つめている。それでいて熱狂が収まる気配もない。
すぐに加護官たちはグリュエーのもとまで駆け付け、彼らの大切な護女様を拘束から解き放った。
猿轡をされたままグリュエーは暴れ、ベルニージュも救うように訴えるが、加護官は耳を貸さずに担いで連れ去ろうとする。
チェスタは揶揄うように笑みを浮かべてベルニージュに話しかけた。
「貴女ほどの方がそれくらいの拘束を脱せないとは。買い被りでしたね。魔導書はどこですか? 教えてくれたら助けてあげても良いですよ」
荷物はおそらくソヴォラの隠れ家にあるかソヴォラ自身が持っているのだろう。だがどちらにしても教えるつもりなどない。そもそもチェスタの方にもベルニージュの轡を外してまで教えを乞うつもりはないようだった。ベルニージュはこれが返事だとばかりに睨みつける。
「まあ良いでしょう。ゆっくりと探すことにしましょう」
チェスタは背を向け、加護官を引き連れてグリュエーを連れ去る。殿を務めるらしい大男、聖女アルメノンの弟子はしばらく頭巾の陰からベルニージュを見つめた後、背を向けた。
村人たちの信心を得ることで装身具の魔導書を手に入れ、未だ正体不明の呪いを解く。ベルニージュの目的は何一つ上手くいっていないのにグリュエーと魔導書を取り戻す新たな課題が積み重なった。
反抗しない割にチェスタたちを忌々しげに見送った群衆は残った生贄こそは確かに捧げようと意気込んでいるようだった。
村人たちに松明を押しつけられたソヴォラがゆっくりとベルニージュの方へとやってくる。その手は震えており、見下ろすベルニージュと目を合わせることは出来ないようだった。躊躇いを見せると村人に押しやられる。松明の火がベルニージュの足元へと近づいていく。
「轡を外すね」と風のグリュエーが囁いた。
縄が解け、ベルニージュの唇と舌、喉、そして何より魔法が自由になる。しかしベルニージュは呪文ではなく言葉をかける。
「ソヴォラさん。子供は無事でしたか? まだ会えてないんじゃないですか?」
絶望的な表情のソヴォラが顔をあげる。
「どうして轡が……。なぜ、それを?」
石女だとは言っていたが、隠れ家には子供の玩具のような木彫りの人形があった。
「会わせてもらえてないんでしょう? なぜならもういないから」
「違う! 貴女が死ねば会わせてもらえるのよ! 余所者を! 魔女を! 悪鬼の末裔を殺せば!」
「本当にそんな言葉を信じているわけじゃないですよね?」
「黙りなさい」
ちりちりと囁く松明の火が薪へと近づく。
「そんなことのためにワタシを殺すんですか?」
「黙って!」
ソヴォラは乗り出して怒鳴り、勢い余って松明を取り落とした。油でも撒かれていたのか火は瞬く間に薪を走り抜け、盛んに燃え上がる。
ソヴォラは悲鳴をあげ、群衆は歓声をあげ、ベルニージュは冷静に呪文を唱えていた。姉妹神が密かに交わした稲妻の囁き、大地の底に埋葬された秘密の碑に刻まれた言葉、太陽を称えるジャングヴァンの信徒の祈り、それらを組み替え、暖炉の前でぐずる子供に聞かせるような歌に仕立てる。それは火を掌にする原初の強力な魔法の一端だ。ただし今は熱に手綱を付けるだけだ。相変わらず火は燃え盛り、狂喜する群衆と絶望するソヴォラを眩く照らしていた。
しかしベルニージュの涼しい顔に群衆は徐々に困惑の表情へと移り変わっていく。
ベルニージュは微笑みさえ浮かべて周囲を観察する。特に何の変化もない。これだけのことをすれば村人たちから信仰を得られるのではないか、と踏んだのだが何も変わらない。
ベルニージュは火に包まれながら拘束を焼き尽くし、自らを解放すると怒りと恐れを露わにした群衆を眺め、背後に聳える開拓者の銅像を仰ぎ見る。相変わらず合掌茸に覆われた銅像は剣を掲げるばかりだ。
念のためにベルニージュは強力な呪文で銅像に劫火を放つ。合掌茸は焼き焦げて散り、銅像は氷のように溶けて崩れた。群衆の怒りもまたますます燃え上がり、怯えている者もいるが、それだけだ。
ベルニージュは訝しむ。何か思い違いをしているのだろうか。村人たちは開拓者を信仰し、合掌茸の魔導書は青銅像に力を与えていたのだと思っていたが、やけにあっさりしている。それに、信仰というものがそう易々と移るものではないのだろうが、合掌茸の菌糸は伸びず、新たにどこかに生えるわけでもない。一体今までと何が違うのだろう。
ベルニージュは目の前の光景に何も違和感を覚えない。そのことに違和感を覚えた。ベルニージュに怯えて逃げ出す者。銅像を焼かれて怒りを露わにする者。かといって襲い掛かるほどには勇気を持てない者。様々な者たちが様々な反応を示している。それはとても普通だ。極限状態における平常な反応だ。
しかしチェスタたちを素通りさせ、グリュエーをみすみす逃したことが説明つかない。もしも実は初めからチェスタたちの部下なのだとしたら、この茶番に何の意味があるというのだろう。つまり彼らはチェスタたちの味方ではないにもかかわらず、チェスタたちに敵対しない存在だということだ。
「ようやく分かった」とベルニージュは呟くと、群衆の中の一人の男に向けて火を放った。
男は地の底まで轟くような悲痛な叫びをあげ、皮膚を黒く焦がし、肉も骨も焼き尽くされる。
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