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涼ちゃんは、それ以上何も言わなかった。
キーボードの電源を落とし、ケーブルを丁寧にまとめる。
いつもより、動きが機械的だった。
「……先、帰る」
元貴の方を見ないまま言って、ケースを持ち上げる。
返事を待たずに、背を向けた。
ドアノブに手をかけた、その瞬間。
「……涼ちゃん」
同時にドアが開き、目の前に立っていたのは若井だった。
ほんの数十センチ。
避ける間もなく、視線がぶつかる。
一瞬、時間が止まった。
若井は、全部聞いていた。
それが、言葉にしなくても分かってしまう間。
「あ……」
どちらからともなく、声が漏れる。
涼ちゃんは視線を逸らし、体を少し横にずらそうとする。
「ごめん、今……」
若井が言いかけて、言葉を切る。
「いや、大丈夫」
涼ちゃんの声は、驚くほど淡々としていた。
「通るね」
肩が、軽く触れた。
それだけなのに、胸がざわつく。
若井は思わず振り返る。
「涼ちゃん……」
呼ばれて、足が止まる。
でも、振り返らない。
「聞いてたでしょ」
責めるでもなく、ただ事実を確認するような声。
若井は、否定できなかった。
「……聞いてた」
短く答える。
沈黙。
元貴が、スタジオの奥から二人を見ていた。
何か言おうとして、でも言葉が出てこない。
「別にいいよ」
涼ちゃんが言った。
「どうせ、俺の話だし」
その一言が、若井の胸を刺す。
「違う、そういう意味じゃ……」
「わかってる」
遮るように、涼ちゃんは言う。
「心配してくれてるんでしょ。
ありがと」
丁寧すぎる言葉。
それが、逆に距離を作る。
涼ちゃんはドアを開け、廊下へ出る。
「お疲れさま」
それだけ残して、歩き出した。
足音が遠ざかる。
スタジオに残った空気は、重かった。
若井はドアを見つめたまま、ぽつりと呟く。
「……完全に、閉じちゃったな」
元貴は拳を握る。
「閉じさせたままにする気はない」
でも、その声には迷いが混じっていた。
一方、エレベーターを待つ涼ちゃんは、壁にもたれて立っていた。
(気まずいな)
それだけ思ったはずなのに、
胸の奥では、別の感情が広がっていた。
(もう、何も期待しなければ楽なのに)
扉が開く。
涼ちゃんは一歩踏み出す。
闇は、静かに深くなっていった。