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結葉はもう自分の手が決して届かないところに行ってしまったんだと実感した偉央は、結葉の意識が戻ったのを確認した後、ふらふらとした足取りでマンションを出て。
気が付いたら『みしょう動物病院』にたどり着いていた。
(僕には結局ここしかないのか――)
でも、そこがあるだけマシなのかも?とも思った偉央だ。
ふと視線を転じれば、駐車場には車が数台しかおらず、入口前に『午前の診察は終了しました。午後は十六時から診察いたします』という立て看板が出されていて、中が見えないようロールカーテンが下ろされていた。
偉央はぼんやりと(ああ、午前の診察が終わって、昼休憩に入った辺りか)と思う。
みしょう動物病院では、午後は十六時までオペや往診などで、外来の診察はない。
スタッフたちは皆、今頃昼休憩などでのんびりしている頃だろう。
偉央は裏口に回ると、ロックを解除して建物内に入った。
「あれ?……御庄先生?」
そこで、たまたまトイレに行っていたらしい加屋美春に見咎められてしまった。
「今日は体調が悪くてお休みされたんじゃ……?」
言って、偉央の様子が明らかにおかしいことに気付いたらしい美春が、駆け寄って来て偉央をそっと支えてくれる。
「まだフラついていらっしゃいますよ? 無理しちゃダメじゃないですか。すぐに帰って家でゆっくり寝ていて下さい」
言って、偉央を見上げてから、ハッとしたように「……もしかして、ご自宅で何かありましたか?」と眉根を寄せた。
美春は小柄な結葉と違って身長が一六〇センチちょっとある。
一七五センチの偉央よりは十数センチ低いけれど、結葉に感じるような身長差は感じない。
それでだろうか。
別に間近というわけではないのに、自分を見上げてくる顔の距離が近いなと思ってしまった偉央だ。
ここにいるどのスタッフよりも――いや、言ってしまえば結葉よりも長い付き合いだからだろうか。
つい彼女には気を許して本音をポロリ、ポロリと断片的にではあるけれどこぼしてしまっていた偉央だ。
結葉が出て行ってしまったことも、美春にだけはかいつまんで話していたから、彼女はすぐにその辺りを思い浮かべたらしい。
「……ひょっとして……奥様、戻っていらしたんですか?」
低められた声でポソポソと問いかけられて、偉央は小さく吐息を落とした。
「ここで話すのはさすがに憚られる……かな。第一診察室に移動して話したんでもいいだろうか?」
いつもなら誰にも話さないようなことだったけど、今日は――。
いや、今だけは……。
無性に誰かに聞いてもらいたいと思ってしまった。
最愛の結葉が、もう二度と戻ってこないことを自分の中でしっかりと整理をつけるためにも、誰かに話すことが必要に思えた偉央だ。
「もちろん、私は構いませんが……御庄先生は本当に体調、大丈夫なんですか?」
気遣うように自分を見つめてくる美春に、
「少し疲れているけれどさっき久しぶりに食事もちゃんと摂れたし、大丈夫だよ。……それに――今すごく誰かに話を聞いてもらいたい気分なんだ」
小さく吐息を落としながら言ったら、
「お話をお聞きするぐらいお安い御用です」
言って、美春がふらつく偉央の身体を再度ギュッと支えてくれた。
途端ふわりとフローラルブーケの香りが漂って、偉央はトイレに置いていた手洗い用のハンドソープが、そんな匂いの製品になっていたな、と取り止めのないことを思う。
院内の備品一切の在庫を管理・補充してくれているのは美春だったから、きっとそれも彼女が選んだんだろうな、と思った。
***
第一診察室に入るなり、偉央が覚束ない足取りのくせ、片隅に置かれた椅子を移動しようとするから。
美春はそれを押し留めて「どこにお運びすれば?」と尋ねた。
みしょう動物病院の診察室は、人間の診察室とは違って、部屋の真ん中に患畜を載せる昇降式の診察台が置かれている。
基本的に獣医師も飼い主側も立ったまま患畜の診察が行なわれるので、飼い主が座れる椅子も用意されてはいるけれど、殆ど使われることはない。
大抵の飼い主は自分が連れてきた動物の様子を、診察台付近に立ったまま心配そうに眺めるからだ。
そのため、椅子自体が邪魔にならないよう部屋の片隅に追いやられていた。
「すまない」
女性にものを運ばせることを潔しと思わなかったのか、謝ってくる偉央に、「元気になったらこの借り、ちゃんと返して下さいね?」と言って、彼に指示された通りパソコン付近までその椅子を運んだ美春だ。
「……とりあえずそこに掛けて?」
椅子を運ぶときに下を向いたからだろうか。
ショートボブにしている横髪が顔に掛かってきて鬱陶しかったから耳に掛けて。
偉央に促されるまま今自分が運んできたばかりの椅子に座ったら、彼はパソコン前に置かれたキャスター付の椅子を引き出して美春に対面するように腰掛けた。
そうして開口一番。
「僕は……物凄く病んだ愛し方しか出来ない人間なんだ」
偉央が何の前置きもなくいきなりそんなことを言うから、驚いて何も言えなかった美春だ。
「あ、あの……御庄先生? お話がよく見えないのですが」
ややして、やっとの思いでそう告げたら、偉央が美春に悲しそうな淡い笑みを向けてきた。
その、どこか影がある笑顔は、偉央が結婚してから時折見せるようになったもので、独身時代にはなかった。
それを目にするたび、美春の胸はギュッと締め付けられるように痛むのだ。
偉央自身に面と向かって言ったことはないけれど、美春は偉央のことがずっと好きだったから。
(だから御庄先生が独立して開業なさるって聞いた時、ついてきたんですもの)
そんな美春だったので、偉央が見合い相手との結婚を決めたときにはすごくショックだったけれど、彼が幸せになれるならばとグッと恋心を飲み込んで祝福したのだ。
なのに――。
偉央にこんな切ない表情をさせる奥さんのことを、美春は心底憎らしく思っている。
美春は、奥さんが家を出て行ってしまったことを、以前偉央からそれとなく聞かされていた。
「実はさっきね、結葉が……妻が帰ってきてくれて、寝込んでいた僕のために手料理を振舞ってくれたんだ」
偉央は美春の質問に答える気はないのか、そう言って小さく吐息を落とすと……。
「僕は……そのまま僕のそばにいて欲しいってお願いしたんだけどね。彼女は――結葉は別に〝帰りたい場所〟があるって言って僕を拒絶して……。結葉を行かせたくなかった僕は、激情に駆られて妻の首を絞めたんだ」
その言葉を聞いた瞬間、美春の中で、時が止まった。
***
「あ、あの……先生?」
(御庄先生はいま、何て言ったの?)
美春は偉央の言葉が信じられなくて、固まってしまう。
「急にこんなことを言われても戸惑うよね。ごめん……」
謝る偉央に、美春はハッとして問わずにはいられなかった。