テラーノベル
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風呂から出た頃には、家の空気が微妙に変わっていた。音が、少しだけ少なくなる。
それは──父が帰ってきた証だった。
玄関の鍵が開く音も、靴の音も、なかった。
ただ、リビングの誰かの笑いが、ピタリと止んだことでわかる。
遥は濡れた髪を拭ききれないまま、部屋の前に立った。
開けるつもりはなかった。
目も合わせるつもりはない。
が──リビングのドアが、内側から開いた。
「帰ってきたなら、顔くらい見せろよ」
声。
低く、掠れた声。
それは父ではなかった。
晃司だった。
上着だけ脱いで、ソファにふんぞり返っている。
胸元にはネックレス。指には細いリング。
煙草の匂いが染みついていた。
「……顔、ひどいな。今日は学校で? 家で? ……もしかして、両方?」
遥は答えない。
答えられるわけがなかった。
「言わなくてもわかるけどさ。殴られ慣れてる顔してるもんな」
遥は口を閉じた。
口角が、かすかに震える。
晃司の視線が、その動きすら拾っていた。
「……ま、どっちでもいいけどな」
ふいに晃司が立ち上がる。
ゆっくりと、遥に近づく。
そして、指でそっと顎を上げた。
触れていないのに、全身が凍るような感覚。
風呂上がりの肌が、まるで冷水を浴びたかのようにざわつく。
「なあ、泣かされるより、泣かせる側に立ってみろよ」
「そうすりゃ、オレがいろいろ教えてやるって言ってんだろ」
言葉の意味は、遥にはもう理解できている。
昔から、晃司の「教育」は、選択肢のない命令だった。
階段の上から玲央菜の笑い声がした。
「教え方、乱暴じゃないといいけどねー」
沙耶香が台所から、ガラスのコップを振る音を立てる。
中身は何かの酒。
誰も止めないし、誰も気にしない。
リビングに、父がようやく現れた。
ネクタイを緩めながら、目線はテレビのまま。
遥には一度も目を向けない。
「……帰ってきたなら、ちゃんと飯の片づけくらいやらせろ」
それだけを言って、再び椅子に沈んだ。
(見てないわけじゃない。ただ、“興味がない”だけ)
遥は知っていた。
父は、自分に手をあげるときでさえ、目を見てこなかった。
ただ「そうすることになっている」かのように、手を上げ、蹴り、言葉を投げつけた。
感情ではない。
それは「制度」だった。
「オレんとこ、来るか?」
晃司が囁く。
声は小さい。
だが、命令より強かった。
「今日のぶん、まだ受け取ってないんだよな」
遥は目を逸らした。
この家には、逃げ場がない。
唯一の鍵付きの空間──風呂もトイレも、すでに安全ではない。
下手に拒めば、明日はもっと酷くなる。
受け入れても、同じだ。
痛みの種類が変わるだけ。
「……明日、早い」
それが限界だった。
それ以上の言葉は、もう出てこなかった。
晃司は肩をすくめて、またソファに戻る。
だが、その目はまだ、遥を追っていた。
物みたいに。
「使う」前の、確認のように。
遥は階段を上がる。
自室のドアを閉めてから、鍵がないことを思い出す。
誰でも入ってこられる部屋。
壁の薄さ。床の軋み。
布団の中に丸まっても、どこもあたたかくなかった。
──明日もある。
明日も、学校がある。
そして家も、ある。
毎日、途切れることなく続いていく。
遥は、喉の奥に言葉を押し込めたまま、目を閉じた。