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朝の教室は、世界でいちばん序列がはっきりしている場所だと思う。
窓際のいちばん明るい席には、たいてい笑い声が集まっている。廊下側の後ろ、エアコンの真下で空調が直に当たって、いちばん寒い席には、たいてい俺みたいな人間が座っている。
藤宮陽人(ふじみや はると)。高校二年、五月。
クラスメイトの名前は、半分くらいしか覚えていない。覚える必要を感じたことがないからだ。話しかけられない。だから話しかけない。話しかけないから、覚えなくていい。とても効率のいいループだ。
俺は机に肘をつき、イヤホンの片方だけを耳に差し込んだまま、窓の外を眺めるふりをしてスマホを見ていた。表示されているのは、見慣れた青い鳥の通知欄。
────
「ヨル」さんの新曲、聴きました。今日も生きていける気がします。
ヨル先生、待ってました。これ、卒業式で泣くやつ。
課金じゃなくて感謝で殴りたい。
────
通知の数は、見るたび桁が増えていく。
昨日寝る前に投稿した新曲のリンクには、再生回数の隣に「48万」という、現実感のない数字が並んでいた。
ヨル。
それが、もう一人の俺の名前だ。
ボカロPとしてネット上で活動を始めたのは中学三年の冬。最初の一年は、月に一桁しか再生されなかった。次の一年は、平均三千回。そして高校に入った春の終わりに投稿した一曲が、深夜のうちに伸びて、朝起きたら世界が変わっていた。
今、フォロワーは十二万人を超えている。
——けれど、それを知っているのは、画面の向こうの人たちと、俺と、幼馴染の黒澤凛だけ。
「藤宮、おはよ」
不意に肩のあたりで声がして、俺は反射的にスマホを伏せた。
振り向くと、見慣れた仏頂面が目の前にあった。黒澤凛。短めのボーイッシュな黒髪に、表情筋に厳しい幼馴染。
「またその目してる」と、凛は呆れたように言った。
「通知を見てニヤつくのを我慢してる目」
「……してない」
「してる。眉毛が二ミリ上がってた」
「観察するな」
凛は俺の前の席に逆向きに座って、頬杖をついた。
彼女は俺の正体——「藤宮陽人=ヨル」を知っている、地球上で唯一の人間だ。家が隣で、母親同士が仲がよくて、保育園からのつき合い。秘密はとっくにバレていたというより、彼女の前では隠す気力がなかった、というのが正しい。
「新曲、伸びてんね」
「……まあ」
「『48万』とかいう数字、現実味なさすぎてもう数字に見えないんだけど」
「俺もそう思ってる」
「で、藤宮陽人くんはあいかわらず、教室では空気と一体化してるわけだ」
「うるさい」
凛はにやりと笑って、ちらりと教室の前方に目をやった。
——その瞬間、教室の温度が、一段階上がった気がした。
「おはよ~! みんな、今日も生きてる?」
声が、教室全体に色を塗り替えるみたいに広がる。
入り口に立っているのは、栗色のセミロングを軽く揺らした女子生徒だった。制服のリボンの結び方さえ、なぜか他の女子と少し違って見える。
七瀬ひかり。
うちのクラスの、というより、たぶんうちの学校全体の——「いちばん明るい場所」に立っている人。
成績上位。運動は県大会出場レベル。性格、まごうことなき陽キャ。さらに顔は——、まあ、語彙力を消費するだけだから割愛する。とにかく、教室の空気が彼女を中心に再編成される程度には、彼女は完璧だった。
ひかりが手を振ると、女子の集団がそれに応えて手を振り返す。男子は明らかに姿勢を正した。担任が来る前のだらけきった教室が、彼女の登場ひとつで「青春の教室」のフォーマットに整えられる。そういう人間が、世の中には一定数存在する。
俺は、その光景をスマホの画面越しに眺めるくらいの距離感が、ちょうどいいと思っていた。
——本来、なら。
「ね、ね、藤宮くん」
聞き間違いだと思った。
「藤宮くん、おはよ」
聞き間違いではなかった。
恐る恐る顔を上げると、目の前に七瀬ひかりが立っていた。
ふわりと甘い匂いがする。シャンプーかなにかの。あと、近い。物理的に近い。机に手をついて、軽く前傾している。
「えっ、と」
「これ、昨日借りた本。ありがとね、すっごい面白かった」
差し出されたのは、図書委員のカウンターで先週貸し出し処理をした文庫本だった。
ああ、なるほど。一瞬で状況を理解する。俺は今学期、図書委員。彼女は単に貸出記録上の手続きとして俺に話しかけているだけだ。あぶない、心臓が一瞬リアル機能停止するところだった。
「……あ、はい。返却、カウンター置いといてくれれば」
「うん、置いてきた。でね、藤宮くん」
ひかりは、なぜかその場を離れなかった。
それどころか、ほんの少しだけ身を屈めて、声を落とした。
「藤宮くんって、音楽聴くの好きだよね」
——心臓が、変なリズムを打った。
「……まあ、人並みには」
「ボカロとか、聴く?」
教室の喧騒が、一瞬遠くなった。
俺の机の上には、伏せたスマホ。その下では、たぶん今この瞬間も、「ヨル」宛ての通知が静かに積み上がっている。
偶然だ。話題のひとつだ。何の意味もない。何の意味もない、はずだ。
俺は、できるだけ平坦な声で答えた。
「……たまに」
「そっか」
ひかりは、それだけ言って、にこっと笑った。
教室中の照明より、なぜかその笑顔のほうが眩しいような気がした。
「じゃ、また図書委員のときよろしくね」
そう言って、彼女はあっさりと自分の席へ戻っていった。栗色の髪が、振り向きざまにふわりと揺れる。
教室はまた、彼女を中心にもとの賑わいに戻っていった。何ごともなかったかのように。
俺は、机の下でこっそりスマホを起こす。
通知欄のいちばん上に、見慣れたユーザーネームではない、初めて見る鍵アカウントからの「いいね」が一件、ついていた。
————
@yoru_no_hikari
————
夜の、ひかり。
——ただの偶然だ。
俺は自分にそう言い聞かせて、もう一度、教室のいちばん明るい場所に座った七瀬ひかりの後ろ姿に、ちらりと目をやった。
彼女はちょうど友達と笑い合っているところで、こちらをまったく見ていなかった。
ただ、机の下で、彼女の指が、自分のスマホの画面をそっと撫でているのが見えた。とても、とても大事なものに触れるみたいに。
——たぶんこの日が、俺の「いちばん暗い席」と、彼女の「いちばん明るい席」の、最初の境界線が、ほんのすこし歪んだ日だった。
そのことを、このときの俺はまだ、知らない。