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サングラスをかけた観光客、家族連れ、商店、パームトゥリーが太陽の下を流れていく。フェスティバは交差点に差しかかった。ルームミラーを見ると、後部座席のツヨシと目合った。「右だよ」とツヨシは言った。健太はハンドルをその方向に廻した。同じく後部座席のミンが、ダイジョーブ、ダイジョーブネ、と日本語を繰り返す。助手席のマチコが「それ、ヘン」と言ったきり、声を殺して笑っている。「もう少し左に寄っといた方がいいよ」とツヨシは言った。しばらくして歩道から老人が急に飛び出してきたとき、小さなハンドルさばきで軽々とよけきれた。健太はありがと、と言葉に出してはみたが、ツヨシの耳に届く前に風に混じって消えた。
ガソリンスタンドの向こうで、道が二つに分かれている。健太は狭い方へウインカーを出した。「そっちは地下鉄の工事やってるよ」とミンが言った。そんなことよく知ってるなあと健太が言うと、「だって、おじさんと買い物行くときここよく通るもん。おじさんは、何でも知ってるんだから」とミンは言った。
前を走るシボレーの後部座席に、姉弟らしきブロンド髪の子供達が見える。少女の横顔が何か言いながら、隣の少年に野球帽を被せた。少しぶかぶかの帽子に並ぶバッチの中に、地元の野球チームが入っている。「もう少し間隔取らない? ちょっと窮屈かも」とマチコが言った。 健太はアクセル加減を緩めると、シボレーのマフラーが見えた。タイヤが見えた。道路が見えた。少年と少女の表情が見えなくなった。
あっ!前の車のテールランプがギラリと光る。ブレーキペダルを蹴り込む。道路が消え、タイヤが消え、マフラーが消えた。両手を開いた少女の、丸くした青い目と健太の黒い目が合った。車体はシボレーの手前数センチで止まった。フェスティバの車内全員の身体が、同じリズムで前後する。「びっくりしたなあもう」と、後部座席が殺気立った声があがった。健太はわりぃと言ったが、ルームミラーに映るツヨシとミンの顔は少し赤みがかっている。マチコだけは平気な顔で「いる?」と、後部座席に板ガムを差し出した。へえこれが日本のと言いながら、ミンはガムを口に放り込んで、くちゃくちゃやりながら、昨日も交通事故見たよと言った。フェスティバは再び走り出した。パームトゥリーが左右に流れ出す。
「今日はあったかいな」後部座席からツヨシの声が聴こえた。そのとき健太は、窓がまだ半開きになったままだったことに気づいた。これまでは、窓が壊れていて寒いとしか思わなかった。これからの季節は、開いていて暖かいと言うようになる。「ところでケンタ君。荷物はもう全部、運んだの?」と、ミンが聞いた。健太が口を開けかけたとき、「信じられるか? この人の荷物はスーツケース一つと、ダンボール一個だけだぞ。他に何もない」とツヨシが言った。健太は結局、「思い出」の方はフェスティバに積み込まなかった。
気配を感じて助手席を見ると、マチコの顔が笑う準備をしている。
「引越し先探してるときのケンタ君ってホント、明日生きるか死ぬかのような顔してたよね」
「うるさいなあ」
「ねえねえ、英語で話してくれよ」
「英語の授業出てない人の言うセリフかね」
「君に言われたくないな」
ミンは健太から、授業をサボってカフェテリアに留まることを覚えた。健太は逆に、午後の中級英語だけは顔を出すようになった。