外は生憎の雨だった。
俺は府中刑務所の門をくぐった。十年ぶりの娑婆の空気が肺に痛かった。
中と外ではこんなにも空気が違うのか。俺は多分、濁りきった空気を吸っていたんだなと思い、一人ほくそ笑んだ。
粗末なビニール傘を差したまま、門前の刑務官に型通りの一礼をする。刑務所ですっかり身に着いた癖のようなものは、しばらく抜けそうにない。
荷物は微々たるもので、手提げ鞄の中には着替えと洗面具ぐらいしかなかった。さあて、この雨の中、どこへ行こうか?
「辻祐介だな?」
下を向いていたので、思わずぶつかりそうになった俺は舌打ちをして見上げた。ところで、どうして俺の名前を知っているのか?
「憶えているかな?わたしのこと?」
男はくたびれたトレンチコートを着ていた。タバコを咥えていた。人相はお世辞にもいいとは言えない。
「あんた、あん時の...」
「お勤め、ご苦労だったな。これから予定があるか、訊くのは野暮かな」
「いいえ。ちょうど暇を持て余していたところでして。刑事さん、すっかり老けたね」
赤木晴太は片頬を上げた。
「辻ももう、心を入れ替えたか?」
「ええ。僕もあの頃と比べて成長しましたよ。僕は希少な成功例です。ストーカー犯罪の再犯率は五十を越えてますからね」
確かに辻の言う通りだ。ストーカー犯罪は年々、増加傾向にある。出所しても再び、ストーカーになってしまうケースもある。決まってストーカーは自分は悪くはないと主張する。悪いのは自分の思いを受け入れない相手だと決めつける。自分勝手なわがままな面は、少なからず、人にはある。ただ、人は理性の生き物だ。これ以上、踏み込んではいけないとわかるし、それは小さい頃から現在に至るまで経験や学習を積んでいくものだ。
だが、近年、この学習を身に着けられていないものが多い。
「実は折り入って頼みたいことがある。車を用意した。こんな雨の中、歩くのは嫌だろう」
「そうだねえ。娑婆の門出くらいは晴れてほしかったけど、自然には逆らえないな」
「ところで、正義の味方の警察が俺に頼みって何かな?」
俺は後部座席に座り、訊いた。隣には赤木が座った。
「タバコ、吸いたいか?あっちじゃ吸えなかっただろう」
「いや。すっかりニコチンがなくても大丈夫な身体になったよ。それより酒が飲みたいね」
「まあ、お酒はこの案件が片付いたら、たらふく飲ませてやる。出してくれ」
覆面パトカーはゆっくりと走り出した。
辻祐介、事件当時は二十一歳の大学生だった。
名門の進学校から名門の大学に進んだ辻は成績も優秀だった。家庭も大手企業の重役の父親に小学校教師の母親と三人暮らしで、辻の近所の評判もよかった。道ですれ違えば、挨拶はするし、困っている人がいたら手を貸してやったりしていた。いわゆる犯罪とは最も縁遠い青年だった。
そう。ある女性と出会う前までは。運命のいたずらだろうか。よりによって、その女性が警察官だった。
辻祐介はアルバイトをして貯めたお金で中古車を買った。ただ、父親は辻に厳しく、欲しいものは自分で稼いで買えという教育方針だった。だから、辻は節約のため、車を駐車場に止めないで路上駐車をしていた。
いつものように図書館で調べものをした後、路上に戻ると、婦人警官が車のナンバーを控えていた。あの婦人警官だと思い、辻は駆け足で車に戻った。
時すでに遅く、婦人警官は青切符を出そうとしていた。
辻は以前にも青切符を切られ、泣く泣く反則金を収めたばかりだ。
そのような、ある意味、バカらしい出費に辻はうんざりしていた。だから、顔見知りのよしみで見逃してくれと懇願した。
一念岩をも通すという格言通り、彼女、丸山貴和子は見逃してくれた。
「貧乏な学生からお金を巻き上げるまねはしたくないしね」と貴和子は言った。
「あの、本当にいいんですか?」
「ええ。その代わり、今夜わたしにつきあってくれたらね」
貴和子と辻が運命的な出会いをした瞬間だった。
貴和子は辻よりも三歳年上で、両親が警察官ということもあって、彼女も警察官になるものだと教育されてきた。
交通課に配属されてから、新人がやる駐車違反の取り締まりをやって三年経ち、貴和子も警察には腰掛け程度にしか考えていなかった。
その頃、辻は銀行に内定が出て、後は卒業論文を書く段になった時、すでに貴和子とは身体の関係を結んでいた。
辻は今まで同い年か、年下としかつきあってこなかなったので、年上の貴和子は刺激的で大人の女性とつきあっているという誇りみたいなものを持つことができた。
それも、相手が警察官ともなれば、特別感もあった。
辻は社会に出たら窮屈な家を出て、貴和子と同棲するまでを夢想していた。ここまで女性にのめり込むことは本当に珍しく、辻は自分でも不思議な感覚だった。
辻はアルバイトを増やし、貴和子にプレゼントを買ったり、たまに高級なお店に連れて行ったりしていた。
高級料理店に行った際、貴和子は初めて仕事の愚痴をこぼした。いつも適当に肩の力を抜いて仕事をしていた彼女には珍しいなと、辻は思った。
確かに両親なんかが楽しそうに仕事をしているとは思えないし、辻も自身がやがて社会の渦に飲み込まれてしまうことは覚悟していた。
「実はさ、交通課から生活安全課に異動になってね。生活安全課って交通課に比べて忙しくて。これからはこんな風にいっしょに過ごせる時間が持てなくなるかもよ」
パスタを口に運びながら貴和子は唇を尖らせた。
「へえ。でもそれって、栄転じゃないの?」
「栄転?バカ言わないでよ。要は島流しよ。わたしが過去に見逃した交通違反に関しての内部告発があったみたい」
「え、僕だけじゃなかったの?」
「そうよ。わたしは天使なの。わたしに選ばれた人はラッキーよ。君みたいにね」
生活安全課では主につきまといの相談が多かった。この時代、ストーカーという用語はなかった。つきまといという言葉が適切だった。
貴和子は被害者女性の相談に乗ったりした。もちろん、四六時中、被害者女性の身辺などを警護するわけにもいかず、ただアドバイスしかできなかった。
警察は結局、事件が起きた後でなければ動けないことに、貴和子は落胆していた。彼女も腰掛け程度と言いながらも、仕事には真摯だった。
「そんな彼女の未来をおまえはあっさりと奪ってしまったな。まあ、彼女も署内では男の出入りが激しい女だと陰口を叩かれていたからな。確かに同情の余地はなかったけど、身内をやられたから、俺たちはショックだったよ」
赤木は雨に濡れた窓を見た。それに倣って俺も窓を見た。まるで、俺が出所したことに彼女が悔し涙を流している気がして、肩を震わせた。
「俺は本気だったんだ。弾みで彼女を押してしまって。頭の打ちどころが悪かった。不運に不運が重なった結果だって、あの時はそう思っていた。だけど、今は本当に心から申し訳ないと思ってるよ」
「本心はどうだかなあ。まあ、でも、おまえは罪を償った。つまり、おまえは真っ白になったんだな」
「赤木さんの言う通り、俺は白くなったと思います。でもね、多分、世間はそう見ないと思うな。ほら、前科者は所詮、前科者のまま忌み嫌われるんです。たわしで汚れを落とそうと一生懸命、磨いても、返って汚れが広がったっていう経験、あるでしょう。そういうものなんですよ。足掻いてもダメなんです」
俺は自嘲気味に言った。
「やり直すチャンスはある。ストーカー犯罪を防止できるのは、元ストーカーだからね。おまえのその経験を活かせる場所を提供し続けたいと思う。そこでの活躍が認められれば、おまえは本当の白を得る。悪い話ではないだろう」
「新たな就職先ですか。やっと俺も社会の一員になれるということですね」
赤木はタバコを一本、俺に差し出した。
「まずは、信頼の証として、互いに吸おうじゃないか」
赤木はタバコを咥えたまま、ライターの火を近づけた。
肺に運ばれたニコチンが鈍いままの頭に喝を入れた。
雨はいつの間にか、小止みになっていた。
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