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わたしは亜美の形見として一台の携帯電話をもらった。あの頃の時代を反映しているガラケー。デコメで盛られた携帯は、今の若者に果たしてウケがいいのかわからないが、わたしはガラケーが好きだった。まず、メールが片手でも打てる。フリック機能はなかったが、メールを打ったという感触は指に残る。
亜美はスマートフォンを触れずに亡くなった。もし生きていたら、どんな大人になっていただろう。
実を言えば、このガラケーは警察には提出していた。だが、警察はストーカー、陸奥丈雄に繋がる情報がなかったことが明らかだったので、すぐに返却された。そもそも、陸奥丈雄はガラケーを持っていなかったのだ。だから、ストーカー特有の頻繁メールや、電話はあまり見られなかった。むしろ、連絡は亜美の方がしていたという。
警察はこれに関して、亜美がストーカー被害を受けていたかどうかは疑わしいという判断もしていた。でも、つきまといなら、電話がなくてもできる。
文明の利器がなかった時代でも、ストーカーは実在したのだから。
わたしは警察の手によって汚されたガラケーをハンカチで何度も拭いた。
事件現場となったトンネルに月命日には必ず花を手向けるようにしていた。
始めの頃はストーカー被害で亡くなった亜美を偲んで花を供える人が後を絶たなかったが、時が経つにつれて、供花の数も訪れる人も減っていった。風化というやつだ。
時間というものは時に遺族の傷ついた心を癒す薬にもなるが、事件を忘却させるという副作用も起こす。もう二十年、されど二十年。
経過した時間が堆積すればするほど、事件の悲惨さが薄まっていくことに、わたしは我慢ならなかった。その証拠に、わたしは出会いも縁談も拒絶してきたのだから。だが、父親からしたら、それは単に意地を張っているだけだと見られた。
嫁入り前の適齢期の娘が妹の贖罪の意味で、幸せになる機会を逃しているのを、きっと見ていられなかったのだろう。背中を押してやるのも父親の愛情だが、やはり、父親は躊躇した。
家政婦の宮子さんもきっと、父親と同じような気持ちだっただろう。
わたしは種村と合コンで顔を合わせてから直に会ってはいない。時々、メールが届く程度で、返信するのも面倒なので、スルーしていた。
それでも、種村は二日に一度、メールをしてくる。これじゃ、まるでストーカーではないか。種村にその気がなくても、わたしには彼の行動がそれにしか見えない。
わたしは自分でも、ふつうの男女の恋愛ができなくなっているのではないかと不安になる。
亜美が大好きな百合の花を手向けにトンネルを歩く。ここは昼間でも人通りが少ない。夜になれば、さらに寂しくなる。こんな都会から孤立したような洞窟のようなトンネルを利用していた亜美の気が知れない。あまりにも警戒心がなさすぎるし、ストーカーにとっては犯行におあつらえ向きの現場だ。
一台の軽自動車がわたしの横を猛スピードで走り抜けた。車の往来も少ないので、制限速度を越えた車が散見された。事故が起きないのが不思議だ。
ふと、亜美が亡くなった場所に一人の人影を認めた。すらりと背の高い男性だった。
互いに視線が絡まり合い、わたしも相手を見つめたまま、微動だにしなかった。
「奇遇ですね。先月の合コン以来ですね」
「あ、あのう...」
「すみません。妹さんの月命日だったので、手を合わせに来ました。それにしても、このトンネル、本当に寂しいですよね」
よく喋る男だとわたしは思った。父親が寡黙な人なだけに、ベラベラと話す男は好みではない。
「あ、それ、亜美さんの好きな百合でしょう。亜美さんてきっと、百合みたいな人だったんでしょうねえ」
種村にはデリカシーがないのか。わたしの表情が不機嫌に変化したのを種村は見逃さなかった。
「ごめんなさい。勝手なことをして。でも、どうしても祥子さんの妹さんを弔いたかったんです。無礼を許してください」
すでに白い胡蝶蘭が供えられていた。
わたしは改めて種村を見た。ぼんやりとした光の輪郭の中に種村がいた。その幻想的な姿にわたしは、いつの間にか見惚れていた。
わたしは突然、眩暈を覚え、種村の胸に飛びこむように倒れかかった。種村はわたしを受け止めて、大丈夫ですか?と訊いた。
とてもいい匂いがした。我に返ったわたしは弾かれたように彼を突き放した。
「やだ。わたしったら。ごめんなさい」
「貧血ですか。ちゃんと食べてますか?」
わたしは黙ったまま、種村を見上げた。種村は零れるような微笑を浮かべた。
いつの間にか、わたしは種村について来た。
一軒のステーキハウスで相対した。
「ここは行きつけのお店でね。貧血にはやっぱりお肉でしょう。さあ、遠慮しないでください」
種村はメニュー表をテーブルに滑らせた。
「あの、亜美の事件、どの程度知ってるんですか?」
ナプキンを首元に差し入れ、種村は表情を強張らせた。
「お父さんからはだいたい聞いてるよ。峻三氏も酒が入ると、スイッチが入ったみたいに亜美さんのことを話すんだ。まるで、生き別れた恋人を偲ぶような...」
少々、喋り過ぎたと思ったのか、種村は口を噤んだ。
「種村さん、父親が最近、描いていた絵を見たことがありますか?」
「いえ。あ、それよりも注文を」
ウェイターがタイミングよく通りかかったので、種村は適当に二人分のステーキを注文した。
「わたし、実は見てしまったんです。父親の作品は幼い頃から目にしてきたので、父親の芸術に対する熱情は理解しています。でも、わたしが最近目にしたあの絵は、なんていうか、圧倒されました。なんだか不思議でした。父親は母親の絵は一枚も描かなかったのに。あの絵は妹に表現できないくらいの愛情を注ぎこんでいたタッチでした...」
わたしは話しながら、唇が乾いてきた。手元のグラスの水を喉に流し込む。
種村は真剣な目つきで、わたしの次の言葉を待っていた。
「本当にため息が出ました。宮子さんも、あ、宮子さんていうのは、うちの家政婦さんですけど、すごくてその場から動けなかったと言っています。父親は亜美の裸身を、描いていたんです」
種村はまるで、外国語でも話しかけられたような惚けた表情をしていた。
「ほう...。亜美さんの裸身を...先生が人物画を描くのは、本当に珍しいですね」
「そうですか...。亜美をとっても大切にしてました。亜美は甘えん坊だったので。それに、母親を知らないから、父親から母親の分まで愛情を得ようとしていたのかもしれません。父親もそんな妹を不憫に思って、愛情を与えていました。わたしは、それが悪いことだとは思っていません」
「水沢さん、僕は陸奥丈雄というストーカーのことは、あまり知りませんが、当時、その、亜美さんが、パパ活みたいなことを、していたのは知っていましたか?」
種村は言いにくそうに訊いた。
「ごめんなさい。わたし、実はあの頃、妹とはあまり交流がなくて...。わたしも大学生活やアルバイトで忙しかったもので」
もし、パパ活みたいなことをしていたら、わたしは力づくでやめさせただろう。父親だって、その事実を知ったら仕事どころではなかったはずだ。
「あの、実は、どうしても、祥子さんの耳に入れたいことがあります」
蒸気を上げたステーキが鉄板に乗せられて、ジュージュー音を立てながら、わたしたちのもとに運ばれてきた。肉はとても柔らかそうで食欲をそそりそうだった。
わたしはステーキに目もくれず、種村の目を真っすぐに見た。
「何でしょう?」
「陸奥丈雄が、出所したようです...」