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「危ない!」
突然鳴り響いた大きな音と、ビルや飲食店のガラスを揺らした衝撃が、駅へと向う人々を振り返えらせた。目に映り込んできた光景は、大きな顔を半分失ったトラックと、正面から押し潰されてほとんど原型を留めていない軽自動車だった。そのリアルを目の当たりにした歩行者や他のドライバー達は、想わず息を呑んでいた。
一瞬止まったかのように見えた時間が再び動き始めると、軽自動車を飲み込もうとしているトラックの口からシューシューという声が漏れ始め、同時に吐き出された白い煙が、やっと過ごし易くなり始めた秋の空気に混ざり込んだ。
トラックのフロントガラスには、凍りついた花火のような模様が刻まれている。その向こうでは、トラックの運転手がコウベを垂らし、大きな手で額を押さえている。
目の前にある小さな焼肉店から、窓越しに様子を見ていたエプロン姿の若い男と、顔は冴えないが、なかなか良い体つきをした男が前掛けを掛けたまま飛び出してきた。
「おい、大丈夫か!」
慌てた様子でトラックに駆け寄ったエプロンの男が大声で問いかけるとトラックの男は垂れていたコウベを少しだけ起こし、額に当てた手をゆっくりとあげた。
「うわぁ、軽のほうはペシャンコだよう、こっちの運転手さん大丈夫かなぁ」
ガードレールの内側で傍観者になっている前掛け男がそう言うと、エプロンの男は振り返った。エプロンの男は少し腹を立てたようだ。
「おい、デブ! ボケっとしてないで早く救急車を呼べよ!」
エプロンの男が前掛け男を怒鳴りつけた。前掛け男は「何だよ偉そうに、俺は客だぞ」とボソッと呟くとダボダボの短パンのポケットからスマホを取り出した。
しばらくすると、遠くにサイレンの音が聞こえ始めた。その音が徐々にうるさくなると、国道に詰まっている車の間から赤い光が見え始める。
「救急車が通ります、道を開けて下さい」
近づいて来る救急車が、お願いしながらも並んでいる車を強制的に波のように押しのけると、それに続いて火事ではないのに消防車のような赤い車もやってきた。車から下りて来たそれぞれの隊員達は、素早い動きで現場の状況を確認すると、それぞれのやるべき事を迅速に行っていく。
白いヘルメットを被った隊員がトラックに駆け寄ると、トラックの男はドアを開け、体を斜めにしながら降りて来た。白い隊員が地面に落ちた男の頭の一部を拾い、それを男に手渡すと、男は慌ててザビっている頭に乗せた。
「大丈夫ですか?」
白い隊員が尋ねると、動揺した様子の男は「俺は大丈夫だから、あっちの車の人を早く助けてやってくれよ」と擦れた声で答えた。
軽自動車の周りでは「聞こえますか? 大丈夫ですか?」と、潰れた窓の隙間からオレンジの隊員らが、はっきりとした声で何度も中のドライバーに呼びかけている。だが全く返事はない。
「前はダメだな、後ろから救出しよう」
オレンジの隊員らは、比較的損傷の少ない左後部のドアをこじ開けた。そして特殊な工具を用い、座席の背もたれを外すと、中にいたスーツ姿の男を狭い隙間から引っぱり出した。男はなかなかセンスのいいスーツを着ている。
助け出された男は、砂浜に打ち上げられたクラゲのようにぐったりとして動かない。血に染まったその顔は、日が落ちたせいか赤というよりは黒に近い色に見える。
「しっかりして下さい。聞こえますか?」
オレンジの隊員から男の身を渡された白い隊員は懸命に声をかけるが、やはり男は返事をしない。白い隊員の服が、男から滴る黒い血で、赤く染まっていく。
「かなりの出血だな」
白い隊員は胸のポケットからペンライトを取り出すと、痛々しく傷ついた男の瞼を開き、白い目玉に光りを当てた。それが終わるとペンライトをアスファルトの上に置き、濃厚な血液がタップリと付いた首筋を指で押さえる。
「脈はあるな」
さらに男の口元に耳を寄せ何かを確認すると、燈を灯したまま置いたペンライトを拾い、口の中を調べ始めた。
「吐物もよし」
そう言うと白い隊員は、男の痛々しく傷ついた顔を包帯で覆っていった。
「状況観察はいいか?」
「はい」
「よし、車に乗せよう」
白い隊員らは立ち上がり、一人は男の脇に手を入れ、もう一人が足首を掴むと「せーの」とタイミングを合わせ一気に持ち上げタイヤの付いた担架に乗せた。そして担架を持ち上げると、担架の下に隠れていた足がぎこちなく伸びた。隊員らは担架ロボを押すと、ずっと口を開けて待っていた救急車の口の奥へと押し込んだ。
「あなたも乗って下さい」
白い隊員は、ずれた頭から血を流す、トラックの男にそう促がした。トラックの男は「俺は大丈夫」と拒み、遅れてやってきた警察官のほうへと、おぼつかない足取りで歩いて行く。白い隊員は少し間を置き、小さく二、三度頷くと、近づいてきた警察官と言葉を交わし始めた。
すぐ傍で様子を見ていた前掛け男は、ゆっくりと振り返ると、箸を片手に哀愁を漂わせながらエプロンの男と焼肉モーモーへと戻っていった。自分の席に戻った前掛け男はエプロンの男に何か話しかけると、エプロンの男は黒い塊の乗った汚れた網をきれいな網に交換した。前掛け男は皿に残っていた厚く切られた肉を見つめると、何故か新たに割った箸を置き、飲みかけのビールを一気に喉へと流し込んだ。そして、フゥーと息を吐き伝票を手にすると、テーブルと椅子の狭い間からゆっくりと体を引き抜いた。前掛け男はトボトボとレジへ行き、デカイ尻から財布を取出し、勘定を済ませた。
「ありがとうございました」
ニヤけた顔で、ガムを手渡すエプロンの男を前掛け男は冷たく睨んだ。店を出た前掛け男は、まだ騒然としている事故現場に背を向けると、街燈の無い細く暗い路地の中へと、前掛けを掛けたまま消えていった。
すっかり暗くなった空には一番星が輝いている。あの星にも見知らぬ誰かが住んでいて、そこでも色々な出来事が起こっているのだろうか・・・。
警察官との話を終えた白い隊員は救急車に乗り込むと、重そうなドアを引き閉めた。救急車が再びサイレンを鳴らすと、集まっていた人の海が切り開かれ、救急車は赤い光りが灯った交差点をゆっくりと通過して行く。
救急車の中では白い隊員が、横たわる男に色々な処置を施している。白い隊員が男の肘のあたりにバンドを巻きつけ、バンドが膨らみ始めると、男は包帯の隙間から見えていた瞼をぼんやりと開いた。男が目を開けた事に気付いた隊員は顔の険をほぐした。
「大丈夫ですか、自分の名前が分かりますか?」
男は数回瞬きをすると、思うように動かない唇の隙間から押し出すように言葉を吐き出した。
「ナベ・・・、チ」
「はい? なんですか?」
「ハッ、タナベ」
「え?渡辺さんですか?田辺さんですよね?下のお名前は何ですか?」
「ユ、イチ」
「分かりました、渡辺ユウイチさんですね。渡辺さん、今自分がどこにいるか分かりますか?」
男はゆっくりと視線を揺らすと小刻みに瞬きをし、ほんの少しの息を呑んで、再び暗い海の底へと堕ちていった。
「渡辺さん、渡辺さん!」
男を乗せた救急車が、夜の彼方まで響き渡る音と自己主張の強い光を使い、車の波を押しのけながら目的地へと渡って行く。
国道の流れから逸れ、だいぶ入ると、河沿いにある薄汚れた白い建物が見えてきた。救急車のサイレンが止まると、不意に寂しくなった空気の中に、ポツポツと光る音色が観え始めた。救急車の扉が開くと、優しくなった空気がまた慌ただしく動き始めた。
救急車から降ろされた男は、自動ドアの先で病院の担架ロボに乗せ換えられた。看護師や医師が男の体を真面目な顔で弄繰り回す。物々しい機器のコードを差し込まれた男は、そのままエレベーターに丸呑みにされていった。
しばらくすると、白い隊員は担架ロボをしまい、ドアを閉めた。権力を失った救急車は普通の車になり、静かに走り去っていった。
また空気が優しくなった。虫達は涼しさを喜ぶように静かに歌う。光る音色を耳で観ながら、秋を祝う花火のように揺れるススキと、秋の訪れを手招きしているエノコロ草達の声を目で聴いている。月の明かりに包まれたその風景は、まるで静かなお祭りだ。
緩やかに流れる時間を楽しんでいるのも束の間、見覚えのある二人がまた空気を揺らし始めた。晶子と由美だ。二人は病院のドアを慌ただしく潜ると、受付へと向かって行く。
受付の前まで来た晶子は、乱れた髪を指でとかしながら息を整えている。体裁を整えた晶子は、カウンターの向こうに座っていたポニーテールの女性に声をかけた。
「すみません、田辺祐一の家族の者ですが」
「あ、はい。えーと・・・」
女性は目の前に置かれた黒いケースに手を伸ばし、中に入った紙をめくった。ホチキスで止められた一組の書類を引き抜ぬいた女性は、書類を見ながら立ち上がった。
「救急でこちらに搬送されて来た、渡辺さんですね」
「違います。田辺です」
「あ、すみません・・・。只今手術中ですので、そちらのエレベーターから二階のほうへお上がり下さい。エレベーターを降りて右手の廊下を進みますと、右手に手術室がございますので、手術室の向かいにございます家族待合室のほうで、お待ちになってください」
「それでどんな状態なんですか、大丈夫なんですか?」
事務的に喋る女性とは温度差のある晶子が詰め寄った。
「そういった事はちょっとこちらでは・・・。こちらのほうからご家族の方がお見えになった事を手術室のほうに連絡いたしますので、看護師又は研修医の先生のほうから説明があると思います。それまで待合室のほうで、お待ちになって下さい」
晶子は肩の力を抜き「行こう」と由美に声をかけると振り向いた。晶子はエレベーターに近づくと、手にしていたイタリアで買ったカバンを肩に掛け、エレベーターのボタンを押した。ボタンの横にある表示板では、三台のエレベーターが上へと向かって競い合っている。落ち着かない様子の晶子に「階段で行こうよ」と由美が声をかけた。由美の言葉でエレベーターの脇にある階段に気付いた晶子は由美を追い、所々タイルが欠けている階段を上って行く。
二階に上がると、静まり返った薄暗い廊下が奥へと続いていた。二人は消毒液の香りを身に染み込ませながら、気味の悪い廊下を歩いて行く。
二人が待合室を見つけ、建てつけの悪い扉を開け部屋に入ると、晶子よりも少し年上に見える夫婦と、今にも砂をかけてきそうな白髪の老婆が、手前に置かれた一組のソファーに座っていた。晶子と由美はその家族と軽く会釈を交わすと、窓の傍に置かれた長椅子に腰を下ろした。部屋に置かれた一台のテレビは、小さな声で喋ったり笑ったりしているが、誰も見ていない。周りの事など気にもせずに喋り続けるテレビの横で、由美が制服の上着を脱ぎ額の汗を手で拭うと、部屋の扉が鈍い音を出した。開いた扉から若い看護師が入って来ると、部屋に居た全ての者が看護師を見つめた。注目を浴びた看護師はソファーに近づくと、座っていた家族に声をかけた。
「政信さんの手術が終わりましたので、ICUのほうへご案内します」
政信さんの家族は、ソファーに置かれた荷物を手に持ち立ち上がった。神妙な面持ちをした旦那さんは、ゆっくりと立ち上がる老婆に優しく手を添えた。政信さんの家族は、看護師の後を追い、見つめる二人を残したまま部屋の外へと出ていった。部屋の扉が閉まると、由美が立ち上がり、外の世界を遮断していた窓を開けた。また光る音色が観え始める。
入り込んで来た透き通った空気が、止まっていた部屋の空気を動かすと、二人は大きく息をした。
「お母さん、お父さん大丈夫だよね・・・」
由美は今にも泣き出しそうな顔で晶子の腕を揺すった。
「だ、大丈夫に決まってるでしょ。お父さん、学生の頃にもトラックに撥ねられた事があったけど、その時だってかすり傷一つ負わなかったんだから。あの人は、昔から運だけは強い人なのよ」
晶子は自分の感情を必死に押さえ平静を装っているようだ。
「その話、私もお父さんから聞いた事ある。トラックとぶつかる瞬間、曾お祖母ちゃんの声が聞こえて、気が付いたら道路に倒れてて怪我一つ無かったって『俺はお祖母ちゃんに守られてるから無敵だ』て、いつも言ってるもんね」
「そうよ、きっと今度も曾お祖母ちゃんが守ってくれるわよ」
二人は互いを気遣うように苦笑いにも似た引きつった笑みを浮かべると、そのまま静かにうつむいた。喋っていたテレビがニュースを読み始めると、部屋の扉がまた鈍い音を立てた。
「渡辺祐一さんのご家族の方ですか?」
部屋に入って来た青い服を着た男が尋ねると、晶子は「田辺です」と答えて立ち上がった。青い服の男は何やら長い説明を始めた。晶子と由美は、時折眉を顰めたり首を傾げながら男の話を聞いている。
窓の外では、丸く大きな月が輝いている。じっと見つめていると、優しい光に吸い込まれそうだ。部屋のテレビはニュースを読み終え、明日の天気を予報する。明日もいい天気になりそうだ。
青い服の男が説明を終え、部屋から出て行くと、由美はテーブルの上に置かれていたリモコンに手を伸ばしテレビを消した。
青い服の男が部屋を出てから長い時間が過ぎていた。由美に喋る事を止められてしまったテレビは沈黙を保っている。窓の外の月が西の空へと傾くと、扉から出る鈍い音が、うたた寝し始めていた二人を起こした。
部屋に入って来た看護師が、目を腫らした二人を部屋の外へと連れ出して行く。二人は看護師の後を追い「ICU」と書かれた部屋へと入っていった。部屋の中には物々しい機器を着けられた人達が、ベッドに横たわっている。
「そんな・・・」
晶子は深刻な面落ちで、白髪交じりのメガネの男と何やら話し始める。由美は泣きながら機器に繋がれたミイラの手を握った。話を終えた晶子が、ミイラのもう片方の手を握り締めると、ミイラに繋がれていた機器から何かの終わりを告げるような音が鳴り響いた。
耳の奥に鳴り響く音が遠ざかって行くような感覚と共に、見えていた世界が闇に侵食されて行くように、全ての感覚が失われていく。
五感で感じていた全ての流れがピタリと止まり『無』となったその瞬間。炭酸水のように細かくはじける何かが、一気に全てを洗い流した。暗い海の底で押さえつけられていた体が、水圧から解放され気泡と共に海面へと浮かび上がるような感覚だ。
ハッと目覚めた祐一は、スゥ~と浮かぶように起き上った。
『あれ、何だ今の感覚は・・・』
ぼんやりとした視界が徐々に鮮明さを取り戻すと、祐一は眉をひそめた。目の前には今まで見ていた夢と同じ光景が広がっている。不思議に思った祐一は、尋常ではない泣き方をしている二人に声をかけた。
『おい晶子、由美。お前たち何でそんなに泣いてるんだ?』
祐一の呼びかけに、晶子と由美は返事をしない。
『おい、聞いてるのか?』
祐一は少し強い口調で再び呼びかけたが、二人は返事をするどころか顔を上げようともしない。
『何かおかしいなぁ、まだ夢を見ているのかなぁ』
夢にしてはやけにリアルな世界に、祐一は頭を悩ませた。
『夢なんかじゃ、ありゃせんよ』
突然祐一の目の前に、小柄なお爺さんがお化けのように現れた。
『うお! なんだ! びっくりしたぁ!』
驚いた祐一は目を広げ、お爺さんの顔をまじまじと見つめた。お爺さんのオデコには薄っすらと白く光る碁石ほどの大きさのものが付いている。祐一は、見た目はギリギリ人間に見えるお爺さんに、恐る恐る尋ねた。
『あなたいったい、何ですか?』
『わしは、たった今あんたの隣のベッドで息を引き取った、吉田政信という者じゃ。ほれ、隣をよく見てみろ』
『政信? 息を引き取った?』
祐一は、どこか聞き覚えのある名前に首を傾げながら、薄いカーテンに仕切られていた隣のベッドを覗き込んだ。
『え、これは・・・』
祐一は目をこすった。ベッドの上には、お爺さんと全く同じ顔をした人物が眠っている。その横では見覚えのある白髪の老婆が一筋の涙を流していた。
『あ、砂かけババアだ』
『わしの連れ合いに、何てことを言うんじゃ』
『え、あ、すみません』
祐一は軽く頭を下げた。
『まぁ、似てない事もないが・・・。そんな事より、どうじゃ、これで分かったじゃろ』
祐一は眉をひそめた。
『分かったって、何がです?』
『あんたも、わしと一緒で、死んだんじゃよ』
祐一は眉をひそめたまま首を傾げた。
『死んだって誰が? 僕が?』
『そうじゃ』
『またまたぁ。あんた、なにを言ってるんですか。そんなわけないじゃないですか。だいたい僕が死んだって言うんなら原因はなんですか、原因は?』
訳の分からない事を言う得体の知れないお爺さんに、少し腹を立てた祐一は、バカにした口調で問いかけた。
『そんな事、わしが知るわけないじゃろ! お前はアホか!』
強い口調でアホと言われた祐一は、一瞬怯みそうになった。だが、アホという言葉に、じわじわと怒りが込み上げて来た祐一は、負けじと強い口調で言い返す。
『だって、死んだ原因が無いのに死ぬ訳がないじゃないですか! あんたこそアホか! これは夢だ! 夢! 夢!』
興奮して出した祐一の言葉に、お爺さんは少しムッとした様子を見せた。お爺さんは、毛がとび出している二つの穴から、フンッと息を出すと、祐一の顔を呆れた顔で見つめた。
『やれやれ、まったく面倒くさい男じゃのう。それならば、ここへ来るまでに見ていた夢の中の出来事をよく思い出して、わしに聞かせてみい』
『え? 今まで見てた夢の事?』
祐一は少し戸惑ったが、腕を組むと目を閉じ、これまでの事を思い返し始めた。
『えーとまず、待合室でテレビを見てて、その前は、外で虫の声を聞きながら、風に揺れるススキを見てたでしょ・・・』
『ふむふむ、それで?』
『何か、救急車みたいな船に乗ってて、白レンジャーに名前を聞かれました。何かこの辺り、リアルに憶えてるな・・・』
『なるほどなるほど。で、その前は?』
『その前は、冴えない男が、前掛けをしたまま暗闇に去って行って、その前は、ザビエルがいて、それでその前は、潰れた車から、カッコいいスーツを来た男が、血まみれで出てきて、あれ、逆だったかな・・・』
祐一は、首をひねった。
『それから、その前は?』
『それからその前は、確かトラックが僕の車に・・・、あ!』
『どうした?』
『トラックが僕の車に突っ込んで来ました』
『それが原因じゃな』
サバサバと答えた祐一だったが、徐々にどうすることも出来ない現実を理解し始めると、医師が蘇生処置を行っているミイラの姿を見つめ、肩を落とした。
『そんな、バカな・・・』
『まあ、信じられないという気持ちもわからんでもないが、無常の風は時を選ばずというからのう』
祐一は、電気を入れられても、ピクリとも動こうとしないミイラの姿を見つめながら臍を噬んだ。そんな祐一の心を最初に襲ってきたのは、じわじわと蘇る今日の行動への深い後悔だった。
「いつも通り、裏道から帰っていれば・・・」
祐一は普段から渋滞を嫌い、あまり大通りを通らなかった。今日は昼から床材の搬入があり、ケチなお客に奉仕する為、普段はあまりしない現場の荷揚げを手伝った。ゼネコンの若い監督に「ヘルメットのアゴヒモが緩い」と下らない事で上から物を言われ、意味のない安全帯に体を縛られ、重たい床材を階段で運び、更に威張った職人に間配りまでやらされた。心身ともに疲れ切った祐一には、すれ違い困難な裏道を運転する気力がなかった。裏道を使えば早いのはわかっていたが、運転に集中できない状態では事故を起こし兼ねない。祐一は早く帰る事よりも、無事に帰る事を優先した。祐一のその行動は、逆に徒となった。
そして追い打ちをかけるように、祐一の心に悲しみが湧き上がって来る。
「あと数年すれば・・・」
大切に育ててきた由美が、目の前で泣きじゃくっている。由美は高校生になっても祐一の事を嫌わなかった。月に一度は三人で外食し、カラオケに行った。
あと一年半で由美は高校を卒業する。進学する気は無いらしいが、祐一はそれでもいいと思っていた。働きに出ればやがて結婚する。そうすれば孫の姿も思い浮かんで来る。祐一は、由美には教えられなかった釣りの楽しさをまだ見ぬ孫に教えたいと考えていた。由美が家を出たら、晶子と二人きりで温泉に行き、まったりとしたかった。さんざん喧嘩もしたが、晶子はこの二十年しっかり家を守ってくれた。安月給で苦労ばかり掛けてしまった晶子に、もう少しで恩返しが出来ると思っていた。そんな祐一の晶子への想いは、もう伝える事すら出来ない。
さらに、思い浮かんでくるこの世への未練が、祐一の心を畳み掛けてくる。
「夢のクチグロが・・・」
祐一は、川でも海でも、とにかく釣りが好きだった。子供の頃は父親の竿を持ち出し、毎日のように日が暮れるまで近所の川で釣りをした。免許を取ると、海岸線をバイクで飛ばし、砂浜や堤防へキスやアジを釣りにいった。一昨年までは黒鯛にハマり、自分でリールを作ったりもしていたが、最近は磯釣りにハマっていた。同僚や上司は、しきりにゴルフを勧めてきたが、祐一には興味が無かった。秋から春にかけて、暇さえあれば磯に上った。財布の事情もあり、狙いは専らグレだったが、いつかは磯の王者石鯛に挑戦したいと思っていた。歳を取ったら雄大な景色を眺めながら、静かにヘラブナ釣りもしたいと思っていた。そんな祐一の夢は、叶う事なく潰えた。
ミイラが混ざった家族を見つめていた祐一は、耐えられなくなり目を逸らした。今までにも思いもよらない出来事や、自分の力ではどうにもならない壁にぶち当たるという事は何度か経験してきた。だが、これは・・・。進むべき道を失い、心の自由を奪われた祐一は地団駄を踏むこともできず、隣にいるお爺さんの顔を見つめた。お爺さんは黙ったまま、じっと祐一のことを見ていた。
『まぁ、それならそれで、仕方ないか・・・』
祐一は、強がって出した自分の言葉を自分の心に言い聞かせた。生きていた時には正直、死後の世界があるという事に半信半疑だった。だが、今のこの状況は、それを信じさせるには充分なものがある。熱心な仏教徒であった母の言葉は本当だったのだと思い、祐一は自分の死を認め受け入れようとしていた。
『よしよし。それにしても、わしは75歳まで生きられたから大往生だったが、お前さんはまだ若いのになぁ。今、幾つじゃ?』
『42です』
『そうか、奥さんと娘さん、あんなに涙を流して、お気の毒に・・・』
祐一は必死に自分の死を受け入れようとしていたが、お爺さんの同情する言葉を聞くと、うなだれるように下を向いた。すると、何か違和感を感じた祐一は、お爺さんの足元と自分の足元をキョロキョロと見比べ始めた。
『あれ? 下半身が無い! どうして・・・』
『そりゃそうじゃろ。昔から、お化けには足が付いて無いと言うからな』
『へえ、なるほど。あのう、僕達これからいったいどうなるんですかね? 死神みたいなのが現れて、天国とか地獄とかに連れて行かれちゃうんですかね?』気持ちを切り替えたかった祐一は、進むべき道を探した。
『んん~? さぁなぁ。おそらくだが、これから葬式で坊さんにお経を上げて供養してもらったら、極楽浄土へと旅立つんじゃないのかねぇ。わしも死んだのは初めてだから、よくは分からんが』
『そ、そうですよね』祐一は、先の見えない未来に大きなため息をついた。
『それよりもあんた、もしもの時の備えは、ちゃんとしておいたのかね?』
祐一は小さくうなずいた。
『ええ、まあ。家のローンは僕が死ねばチャラになるし、蓄えはあまり無いですけど、生命保険にはちゃんと入っていますから』
『そうか、それならば安心じゃな。備えあれば憂いなしじゃな』
『晶子、由美、俺がいなくなっても、二人で力を合わせて一生懸命生きていくんだぞ。お父さんは天国から、二人の事をいつも見守っているからな』
祐一は、胸の奥から込み上げて来る熱い物を感じ、涙を零しながら力強くうなずいた。
『やれやれ、まだ天国に行けるとは決まっておらんのに、気の早い男じゃのう』
『今、何か言いました?』
『ん? いやいや』
祐一は晶子の顔を見つめると、何か思い残した事は無いかと、自分の心に問いかけた。すると祐一の頭の中に、屋根裏にある釣り道具が思い浮かんだ。
『あーっ! まずいっ!』
『な、なんじゃ突然。どうした?』
『いや、あー』祐一は額に手を当てた。
『どうしたんじゃ? 何か心配事か? この世に未練が残ると、あの世へ行けんかもしれんぞ』
『いや、未練て程のもんじゃないんですけど・・・。家の屋根裏にある釣り道具が・・・』
『なんじゃ、そんなに想い入れのある物なのか?』
『いや、釣り道具自体は他に誰も使わないし、大して高価な物もないから、売られても捨てられてもべつにいいんですけど』
『じゃあ、なんじゃ?』
祐一は少し躊躇い、お爺さんの顔を見つめると、渋々と口を開いた。
『いや実は、古いクーラーボックスの中に秘蔵のDVDが隠してあるんですよ。あれ、絶対に見つかっちゃうよなぁ、まずいよなぁ』
『なんじゃ、そんな事か。まぁ、あんたの場合、わしみたいにある程度歳を取ってから死んだのとは違うからな。自分が死ぬなんて考えもしなかったじゃろ』
『ええ、まあ』
『わしくらいの歳まで生きれば、自分がいつ死んでもいいように、ちゃんと考えておくもんじゃ。わしは婆さんに見つかったら困る物は、生きとるうちに、ちゃんと処分しといたから安心じゃ』
『さすがですね、うらやましい』祐一は心からそう思った。
『昔、近所の爺さんが死んで、その葬式の時、浮気相手との恋文が見つかってしまってのう。それを見つけた爺さんの連れ合いが大激怒した事があったんじゃ。そりゃまぁ、物凄い怒り様でのう。死んだ爺さんの遺影を破り捨てて、爺さんの遺体のあれを鋏で切ろうとして、大騒ぎになっとったからな』
『僕も子供の頃に近所で似たような事がありましたね。いや、あれは夢で見たんだったかなぁ・・・』曖昧な記憶に祐一は首を傾げた。
『まぁ、あの様を見たから、わしはちゃーんと処分しといたわい。これで安心して、あの世へ行けるわい。わっはっはっはっは』
勝ち誇ったように笑うお爺さんの横で、ぼんやりと考えていた祐一は、更に重大な事を思い出した。
『ま、まずい・・・』祐一は目の前にいる晶子の姿を苦しそうな表情で見つめた。
『なぁに、Hなビデオくらい、どうって事ないじゃろ』
『いや、そうじゃなくてですね』
『何じゃ?』
『スマホに、キャバクラの女の子とのやりとりが・・・。さすがにあれは見られたらまずい。あれを見られたら、僕もあれを晶子に切り取られちゃうかもしれない。どうしよう、どうしよう』
祐一は頭を抱えながら、晶子の激昂する様を思い浮かべると、恐怖にかられ慌てふためいた。
『大丈夫じゃよ。もう死んどるんだから、あれを切られたって痛みはないじゃろ。どっちにしたって燃やしてしまうんじゃしの。わっはっはっは』
『人事だと思いやがって、このクソジジイ』
祐一は、能天気に大笑いするお爺さんを横目で見ると、うらめしそうにボソッと呟いた。
『ん? 今、何か言ったか?』
『別に、何も・・・』
この後、祐一の遺体は葬儀場へと運ばれ、翌日の晩に通夜、その翌日に告別式が執り行われる事となった。
葬儀・告別式会場
会場には沢山の椅子が並べられ、祭壇には黄色や白の供花が並び、供花に囲まれた棺が置かれている。そして、左腕に喪章を着けた葬儀社の者達が慌しく準備を進め、挨拶のリハーサルなどを終えた晶子らが参列者を迎えようとしていた。
自分の棺の上に浮かんでいた祐一は、一晩中声を上げながら、懸命に自分の体から離れようとしていた。
『えいっ! とお! しゅわっち! はあ、はあ、何で自分の体の傍から離れられないんだ。おかげでDVDもスマホも、その後どうなったのか分からないんだよなぁ。とりあえずまだチョン切られてはいないみたいだから、バレてないのかなぁ・・・』
そんな心配をしながら、自分の体を覗き込む祐一の前に、薄黒い色の袈裟を身に着けた偉そうな住職がおもむろに現れる。住職は用意されていた椅子に偉そうにドッシリと座り込むと、偉そうにポクポクと木魚を叩き、偉そうにお経を唱え始めた。
「南無妙法蓮華経・・・」
『偉そうに、いい金取りやがって・・・』
そして葬儀が始まると、知った顔が次々と訪れ、焼香をあげ始める。
「この度は、ご愁傷様です」
『あ、沙耶ちゃんのお父さん。それに、沙耶ちゃんも・・・』
「由美・・・」
目を腫らし疲れ切った顔で一点を見つめる由美に対し、沙耶は何と声を掛けたらいいのか言葉を見つけられずにいる様だった。そんな沙耶の姿に気づいた由美は、親友を心配させまいと思ったのか、気丈に振る舞った。
「沙耶、来てくれてありがとう。大丈夫だよ。少し時間は掛かるかもかもしれないけど、また元気になるから」
「うん。あ、そういえば翔太君の事聞いた?」
「うん。昨日メールが来た」
「そっか・・・」
「沙耶、行こか」
『沙耶ちゃん、ありがとね。これからも由美と仲良くしてやってね』
祐一は、自分の気持ちを抑え友達を気遣う由美の姿を誇らしげに見つめた。
次々と訪れる生前世話になった人達に混じり、通夜には顔を見せなかった同僚達がやって来た。
『休みなのに来てくれてありがとな。俺の担当してる客は、変なヤツが多くて大変だろうけど、引継ぎ宜しく頼むな』
祐一の心の中は、もう働かなくてもいいのだという安堵感と、今まで縛られていた「金」という物からの解放感で満たされていた。祐一は、席に座る可哀想な同僚達の姿を棺の上に浮かびながら見つめていた。すると何故か祐一の耳に、静かに座っているはずの同僚達の声が聴こえてくる。
『まいったなぁ、田辺のお客さん大した売上もないくせに厄介なヤツが多いんだよな。なんで、俺が引き継がなきゃならないんだよ。まぁ正直、田辺自身昔から変わり者、というより変態だったからな。だからお客も変な人が多いんだろうけど。昔から迷惑ばりかけやがって。まぁ、お前とは腐れ縁だから仕方ないか。勝手にくたばりやがって、バカたれが』
『あれ、田中の声が聞こえる。何でだ?』
祐一は不思議に思い、田中のことをじっと見つめるが、田中は椅子に座り、眠たそうにあくびをしているだけだった。
『田辺さんて、後輩思いで仕事はまじめな人だったけど、ちょっと変な所もあったよなぁ。田辺さんにDVD何本か貰ったけど、全部俺の好みじゃない女優ばかりだったもんなぁ。奥さんは、普通に綺麗な人なのになぁ』
『今度は高橋の声だ。あいつも黙って座ってるよな。もしかして、心の声が聞こえてきたのか? だとしたら・・・』
何故、同僚達の心の声が聴こえてくるのか、祐一の頭の中に確かにその疑問はあった。しかし同僚達の本音を聴いてしまった祐一は、疑問への思考を頭の奥へと追いやると、焼香台へ近づいてくる同僚達に激昂した。
『お前らなぁ・・・。俺が死んでると思って、言いたい放題言いやがって、ちゃんと聴こえてるんだぞ!』
近づいてきた高橋が、焼香台の前に立ち一礼する。
『田辺さん、色々とお世話になりました。安らかに眠って下さい』
『うるさい! おい高橋! そんな文句言うなら、DVD返せ! キャバクラにも連れて行ってやったのに!』
田中は、高橋のする様を横目で見ながら、ぎこちない動きで真似るように焼香する。
『高橋、お前凄ぇな、次はどうすりゃいいんだ?』
『そんな事知るか! それより田中! 俺のお客さんは、みんな個性が強いけど、本当はいい人ばかりなんだよ! だいたい誰が変態だ! お前なんかSMクラブの会員じゃねえか! 変態はお前のほうだろうが! このドテチンが!』
焼香を終えた二人は、タイミングを合わせたように一礼した。
『今さらあやまったって遅いんだよ。お前ら二人とも呪ってやるからな! 幽霊なめんなよ! おい! 聞いてんのか! もっとこっちに来い!』
祐一は顔を上げた二人に向かい、蹴りやパンチを繰り出そうとしたが、足が無いので蹴りは出せず、パンチも目の前で経を上げている住職の頭をすり抜けるだけだった。
「南無妙法・・・、ん?」
何かを感じたのか、住職は自分の頭を撫でた。住職は一つ咳払いをすると、再び木魚を叩き経を上げ続ける。
「うぉっほんっ! 蓮華経・・・」
振り返り席へと戻る二人の背中を睨んでいると、祐一の耳にまた声が聴こえてきた。
『おいおい、これってまずくねえか?』
『うわぁ、来ちゃったのかぁ』
『え、何が?』
思わず聞き返した祐一は、同僚達の視線の先へと視点をずらした。するとそこには見覚えのある二人の女が座っている。二人の女は同僚達に向かい小さく手を振っていた。
『ん? あれは美好寿ちゃんと優莉亜ちゃん。わざわざ来てくれたんだ、ありがとう。ていうか、これってまずくないですか?』
祐一は最前列に座る晶子のほうを見たが、晶子は二人の姿にまだ気づいていない。祐一の心配を他所に、二人の女は自分達の順番が来ると、椅子から体を持ち上げ、焼香台へと近づいて来る。
「おい、なんであの二人が来てるんだよ」
席に戻った同僚達が周りを気遣うように、ひそひそと話し始めた。二人の話が気になった祐一は耳を澄ました。遠くに座る二人の声がはっきりと聞こえてくる。
「いや、実は昨日、田辺さんと『GROS』に行く予定だったんですよ。でもこんな事になっちゃって行けなかったから、優莉亜ちゃんから電話がきちゃって。来ないほうがいいと思うよって、言ったんですけどね」
『高橋ぃ、お前が呼んだのくぁぁ』
同僚達の会話を聞いた祐一は、うらめしそうに高橋を睨んだ。
晶子の様子が気になった祐一は、ヒョイと体を横に倒し、二人の後ろにいる晶子の顔を覗いた。すると晶子は案の定こっちを睨んでいる。ヤバいと思った祐一はすぐに姿勢を正した。緊張する祐一が、焼香する二人の顔を見ていると、また心の声が聴こえ始めた。
『あーあ、ちょっとしか寝てないから超眠い。でも、ナベちゃんの指名無くなるとキツイからなぁ。ただでさえ不景気でお茶挽いちゃってるのに。なんとかして高橋を店に引っ張らなきゃ』
『ああ、その為に来たんですか。お仕事大変ですね』
『なんかまた太っちゃったかな。礼服超キツイんですけど。それにしてもお腹空いたなぁ。帰りに来々軒でラーメン食べて帰ろっと』
『来々軒のラーメン美味しいよね。でも俺は肉野菜炒めが好きだけどね。タレをタップリとからませて、熱々のごはんに乗せて一気にかき込むと最高に美味いんだよなぁ・・・』
祐一が、二度と食べる事の出来ない定食の味をしみじみと思い出していると、焼香を終えた二人は振り向き、晶子に向かって浅く一礼した。すると二人の体が少し後ろに下がった。
『恐っ!』
『何? 何で睨んでるの?』
二人は心の中でそう言うと、そそくさと席へと戻っていった。隠れる場所を失い、晶子の足元を見つめていた祐一は、恐る恐る視線を上げた。するとそこには、祐一を睨む晶子の恐ろしい顔があった。
『何? 何で睨んでるの?』
ギョッとした祐一は晶子から目を逸らし、キョロキョロと周りを見回した。
『あ、なんだ、俺の遺影を睨んでるのか。それにしても、やっぱりスマホ見ちゃったんだね。まいったなぁ、これは相当お冠だなぁ』
晶子の顔は怒りに満ち溢れ、まるで大魔神(怒り)そのもの。非常にヤバい時の顔になった晶子が小刻みに体を揺らし始めると、晶子の座っていた椅子からカタカタという音がし始めた。
「ん? なんだ? 地震か? それにすても、なんだ今の姉ちゃんらは、ずいぶんと肥えた姉ちゃんらだな。アキちゃん、ありゃ祐一の知り合いかい?」
晶子の隣に座っていた酒好きな田舎の伯父さんはそう言うと、うつむく晶子の顔を鼻を赤らめたのん気な顔で覗き込んだ。すると晶子の顔を見たとたん、赤みを帯びていた伯父さんの顔が、いつもとは違う青い色へと変化した。伯父さんは喉を鳴らしながら唾を飲み込むと、我関せずといった様子で静かに姿勢を正し、祐一のほうを見つめた。
『まずいぞ祐一、このバカたれが!』
伯父さんは心の中でそう言うと、青になったにも関わらずピクリとも動かなくなってしまった。伯父さんの言葉が火に油を注いだのか、晶子の力強く握り締めた手から異様な音が発せられ、祐一の母から貰った数珠の玉が四方に弾け飛んだ。祐一は、口をポッカリと開け、その場に浮き尽した。
『た、祟りじゃ』
田舎の伯父さんの心の声が、祐一の頭の中にこだました。
晶子は大きく深呼吸をすると、何事も無かったかの様に表情を元に戻した。
「南無妙法『先程から只ならぬ怨念の様なものを背中に感じるが・・・、ま、よいか』蓮華経」
お経を上げる住職の心の声が聴こえた気がしたが、普段の顔に戻った晶子を見た祐一は、ホッと胸を撫で下ろした。
『あー、よかった。ごめんな晶子。でもさ、営業やってると接待とか色々あってさ、まあ俺も色々と大変だったんだよ。今更言うのもなんだけどさ、俺が愛してるのは晶子だけだから。死んだ今でも愛してるよ』
祐一は、うるうると晶子の姿を見つめた。そんな祐一を他所に、葬儀は順調に進み終盤に差し掛かる。出棺の時刻が近づいたのか、係りの男がマイクの前に立ちアナウンスを始める。アナウンスを聞いた由美達は棺に近づくと、魂の抜けた抜け殻に別れを告げながら、花と共に、持ち寄った品々を棺の中へと入れていった。
『祐ちゃん、あんたの好きだったお酒だよ。ビンは入れてはダメだって言うから、味は落ちるだろうけどパックのにしといたから。あの世に行っても、あんまり飲み過ぎちゃダメよ』
『あ、この酒美味いんだよなぁ。おばさん、ありがとう』
「おじちゃん、これあげるね」
隣のアパートに住むレミちゃんは、お母さんに体を持ち上げられると、包帯に包まれた抜け殻の顔の周りに、小さな手で三羽の鶴をならべてくれた。
『レミちゃん。一生懸命折ってくれたんだね。どうもありがとう』祐一はニッコリと笑うと、涙を零した。
『祐一、これさやっから、こっそり持ってけ』田舎の伯父さんは、上着の懐から何やら細長い物を取り出した。
『あの世さ行ったら、女じゃなくて、魚さ釣れな。さっきのアキちゃん、やばかったぞ』田舎の伯父さんは周りの目を気にしながら、それを棺の底のほうへと入れていく。
『すみません。て、え? おじさんそれって、おじさんが大事にしてた釣竿でしょ。確かに、俺ずっとその竿欲しがってたけど、いくらなんでもそれは貰えないよ・・・』
『したっけ、陽二のやつは来ねえのか。まったく、何やってんだ、お前ら兄弟は』
田舎の伯父さんの顰めた顔を見た祐一は、肩をすぼめた。
『え、あ、すみません・・・』
祐一が、姿を現さない弟の事を考えていると、目鼻を赤く染めた由美が棺に近づいてきた。
『お父さん、これ天国で聞いてね。私もいつでも一緒に聞いてるからね』
『由美、これは、お父さんが大好きな「ガンジガラメ」の最新アルバムじゃないか、ありがとな。お父さんはいつでも、由美のことを見守っているからな』
涙と鼻水を堪える祐一の前で、皆が思い出の品を棺に入れ、棺から離れ始めると、晶子が椅子の下に置いてあった紙袋を持ち、すっと立ち上がった。晶子はゆっくりと棺へと近づくと、思い出の詰まった品々と綺麗な花々に囲まれた抜け殻の顔を疲れた顔で見つめた。
『あなた、どうして・・・』
『ごめんな晶子。短い人生だったけど、俺、お前と一緒になって、ホントに幸せだったよ』
祐一はそう言うと、顔を上げた。皆が黙ったまま棺を取り囲み、涙目になって抜け殻を見つめている。
『棺を蓋いて事定まる、か・・・』
祐一は自分の抜け殻を誇らしげに見つめた。すると、晶子の心の声が聞こえてきた。
『これ、ずっと前から、あなたが大切にしてた物。ごめんね、慌ててたから、そのまま持ってきちゃったけど・・・』
『なんだ? お前も何か入れてくれるのか。ありがとうな』
しみじみと晶子の姿を見つめる祐一だったが、晶子が隠すように手にしている物を見たとたん、再び口をぽっかりと開け、その場に浮き尽してしまった。
『ちょ、ちょっと晶子さん。それは入れたらまずいんじゃないのかな・・・。て、お前いったい何を考えてんだよ。ダメだってば! そんな物入れて、みんなに見られたらどうするんだよ。ちょっとマジで止めてってば! 晶子さーん! やめてーっ!』
祐一は必死に晶子に向かって叫んだが、晶子の耳には届かなかった。晶子は秘蔵のDVDの中でも特にお気に入りだった1枚を棺の隅の目立たぬ所に、そっと置いた。
『な、なぜそれだと分かった・・・』
更に、キャバ嬢の番号や、恥ずかしい内容のメールが入った祐一のスマホを取り出すと『これは入れちゃダメなんだって・・・』と悲しそうに抜け殻に語りかけた。
訳が分からない祐一は、DVDを隠そうと、棺の上に覆いかぶさった。
『何なんだよ、怒ってるのか? 怒ってるんだろ。ていうか、早く蓋しろよ』
棺の蓋を閉じようとした係りの男が、中に入れられた恥ずかしいDVDを見て、一瞬動きをとめた。
「いいんですか?」
目を丸くした係りの男は小さな声で晶子に尋ねたが、晶子は「はい」と答えて、そのまま棺から離れて行ってしまう。どうする事も出来ない祐一は、棺の上にかぶさりながら茫然とその様子を見ていた。棺から離れた晶子はボロボロと大粒の涙を流している。
係りの男らの手によって抜け殻が眠る棺に、ゆっくりと蓋が載せられて行く。
「では、ご親族の方々から順に、こちらの石を使って棺の釘を打ち付けて下さい。形だけで結構ですので、あまり力を入れずに、軽く叩く感じでお願い致します」
『そんな儀式どうでもいいからさ、早く二度と棺が開かないように、しっかりと釘で打ち付けちゃって下さいよ』
儀式が終わると祐一の望みが叶い、係りの者達の手によって、棺はしっかりと閉じられた。
『あーよかった。これで一安心だな』
棺に覆い被さっていた祐一が浮かび上がると、棺は親族達の手によって霊柩車へと乗せられた。霊柩車が「さようなら」とクラクションを鳴らすと、祐一は抜け殻と共に火葬場へと運ばれていった。
火葬場に着くと、棺は天井から降り注がれる柔らかい光が昇天をイメージさせる告別室へと運ばれた。祭壇の前で住職がお経を上げ始め、焼香をあげると、晶子を先頭に親族達が次々と焼香をあげて行く。
『また焼香か』
祐一は、儀式とはゆえ何度も自分に焼香をあげてくれる人々に申し訳ない気持ちを抱いていた。だが、霊体である自分に香炉から上がる煙が絡みつくと、心の奥にあった後悔や懺悔の気持ちが洗われていくような感覚になり、同時に焼香をあげてくれる人々への「ありがとう」という感謝の気持ちが溢れてきた。
皆が焼香を終え、皆に代わり送る言葉を読んでいた住職が鈴を鳴らすと、係りの男が静かに近づいて来て、皆に語りかける。
「皆様、これが本当に故人様との最後のお別れとなります。どうぞ今一度、故人様のお顔をご覧になって下さい」
係りの男はそう言うと、ゆっくりと棺から離れた。
『あとは、燃やされて終わりか・・・』
祐一はそう呟くと、開けられていた小窓から棺の中を覗き込んだ。
『ん? あれ! なんだこれ! 霊柩車が揺れたからDVDがずれちゃってるんですけど。これ、この角度からだとタイトルが・・・「THE肉塊」とか見えちゃうんですけど・・・。す、すみませーん! これなんとかして下さい! すみませーん!』
祐一は大声で係りの男に呼びかけるが、係りの男は手を前で組み、無表情でこっちを見たまま動かない。皆は次々と棺に近づき、抜け殻に最後の別れを告げ始める。
『祐一、たまには化けて出て来いよ』
田舎の伯父さんは鼻を膨らまし、涙を溜めている。
『え? 何言ってんだよおじさん。もう化けて出てるって。ちょっと、すみませーん!』
『お父さん、やっぱり嫌だよ。おとうさん』
泣き崩れながら棺に近づく由美の姿を見て、肩を震わせる晶子の目から、涙が溢れ出している。
『あなた・・・』
『おい晶子、泣いてないで由美を止めろ! 泣きたいのはこっちだって。だいたいお前がこんな物入れるから』
由美は、必死に制止しようとする祐一の体をすり抜けると、棺の小窓に涙でぐしょぐしょになった顔を近づけた。
『その角度はダメなんだって! いい子だから、あっちに行きなさい! もういいから、早くこの扉閉めろよ! 見るのはやめろー!』
必死に叫ぶ祐一が棺の扉を閉めようとしたその時、棺の扉が突然、バタンッ! と大きな音を立てて閉まった。
『あれ? 閉まった』
「え? 何で閉まったの・・・」
由美達は、驚いた様子で周りを見回しながら棺から一歩遠ざかった。
「今、誰も触ってないよね・・・」
「た、祟りじゃ」
『助かったぁ。マジでヤバかったぁ』
皆が棺から離れている様子を見た係りの男は、大きく息を吐く祐一の元へと近づいて来た。
「もう、よろしいですか?」
『ええ、よろしいですよ』
「あのう、今、勝手に棺桶の扉が閉まったんですけど・・・」
「ナンマンダブ、ナンマンダブ・・・」
由美の問いかけに首を傾げる係の男は、必死に何かに拝んでいる田舎の伯父さんを冷たい目で見ると、そのまま棺を奥へと運び始めた。係りの男に棺と共に運ばれて行く祐一は、込み上げてくる寂しさをグッと堪えながら、遠ざかっていく由美達の姿をじっと見つめた。
『これでお別れなのかな。だけど、何でさっき扉を閉めれたんだろう。物を触ろうとしても通り抜けちゃうのに・・・。まぁ、いいか。それにしても、いよいよ燃やされるのか。この体とも、ついにおさらばだな』
祐一は長年連れ添った自分の体の入った棺を見下ろした。棺はゆっくりと、口を開けた火葬炉の中へと入れられて行く。当然のように、自分の体から離れる事の出来ない祐一も一緒に火葬炉の中へ・・・。
『え? あ、あれ? なんでまだ体から離れられないんだよ! このままじゃ、俺まで焼かれちまうじゃねぇか!』
祐一は必死に自分の体から離れようとするが、どう頑張っても体から離れることができなかった。もがく祐一を他所に、火葬炉の口は「いただきます」と音を立て、閉まり始める。
『ちょ、ちょっと! まだ僕出てませんよー! ちょっとー! すみませーん! 聞こえてますかー! もしもーし!』
外に向かって叫ぶ祐一の声を遮るかのように、重い鉄の口が閉まって行く。祐一は必死に口をこじ開けようとするが、唇に触る事すら出来なかった。重い口が外の光を完全に遮断すると、消化するための炎が上がった。
『お、明るくなった。じゃない! 火点けやがった! 熱っ! 溶ける! 熱っ! て・・・、あれ? なんだ、全然熱くないじゃん』
祐一は冷静さを取り戻すと、熱さを感じさせない炎の中でメラメラと燃えていく棺を見下ろした。
『あーあ、DVDも何もかもみーんな燃えちゃうなぁ。ていうか俺、これからどうなっちゃうんだろう・・・』
これからの事が全く予測できずに頭をひねっていると、祐一は徐々に体から離れ始め、上へ上へと昇り始めた。
『お! なんだ? 体から離れていくぞ』
黄色い煙と共に、暗い窮屈なトンネルの中を鰻のようにすり抜けた祐一は、ポン! と明るい世界へと飛び出した。
『お! 外に出た! やった、やった! このまま上に昇って、あの世へ行くのかな? 晶子ぉー! 由美ぃー! みんな元気でなー! 達者でやれよー!』
後ろ髪を引かれる思いはあったが、祐一は青空の中を上昇し、大きく手を振り、この世に別れを告げた。しかし、空に浮かぶ引きちぎられた綿に手が届きそうになると、急に上昇が止まり、フワフワと浮かんだ状態なってしまった。祐一は振り上げた手を頭にやると、ポリポリと頭をかいた。
『おかしいな、なんで止まっちゃったんだ?』
祐一は、まだ見ぬ天国へ向かおうと、得意の平泳ぎで更に上へと昇ろうとしたが、見えないバリアに邪魔されているのか、そこより上へは昇れない。
『横や下には動けるけど、これ以上上へは昇れないな』
祐一はうつむき首を捻った。すると祐一は何か視線を感じ、下を見ると目を凝らした。火葬場と路を隔てた所にある車の修理工場と、小さなレストランの間にある木々に囲まれたわりと大きな公園のベンチに一人の女が座っている。女は祐一の事をじっと見ているようだった。
『何だあの人、俺の事が見えるのかな?』
不思議に思った祐一は、更に目を凝らした。女の姿をよく見ると、足が付いていない。
『あの人も幽霊だな。あの人に聞けば何か分かるかもしれないな』
祐一は空を飛ぶ事に快感を覚えながら、色づき始めた木々を飛び越え、スゥ~っと公園へと舞い降りると、時計台の傍に置かれた女の座るベンチへと近づいて行った。
『あのう、すみませーん』
舞い落ちる木の葉が女の体をすり抜けベンチに積もっていく。薄っすらとした姿の女は、話しかける祐一の姿を不思議そうに見つめていた。
『あなた、まだお迎えが来ないの?』
『え? お迎え? えーと、まあ・・・』祐一は頭を斜めに揺らした。
『おかしいわね。あそこの煙突から出て来たって事は、ちゃんと供養されたって事でしょ?』
『え、ええ。一応、葬式は挙げてもらったんですけど・・・』
『ふうん、じゃあ浮遊霊ではなさそうね』
『浮遊霊って、何ですか?』祐一は眉間にしわを寄せた。
『浮遊霊っていうのは、死んだ後誰にも供養をしてもらえないとか、自分が死んでしまった事に気付いていないとかで、あの世に行けない霊の事よ。行く宛てもなく、この世を彷徨い続けているの』
『へえ・・・』
『自由に動けるみたいだから、私みたいに地縛霊って訳でもなさそうだし・・・』
『地縛霊? あなた、地縛霊なんですか?』驚いた祐一は女の手が届かない位置へと身を引いた。
『見れば分かるでしょ、ここから動けないんだから』
『いや、分からないから聞いたんですけど』祐一は口を尖らせた。
『私はね、妻子を持つ年上の彼と、この公園で待ち合わせをしていたの。許されない愛を実らす為に、私達は駆け落ちする事を決意したわ。けれど、私は公園に来る途中で急な病に倒れ、死んでしまったの』
お立ち台に乗せ、羽の付いた扇子を持たせたらよく似合いそうな女は、聞いてもいない身の上話を語り始めた。
『あの日、私が死んでしまった事も知らずに、彼は何時間もこの公園で私の事を待ち続けてくれていたわ。私は、そんな彼との約束を果たせないまま死んでしまったけれど、この約束の公園で、再び彼と結ばれると信じているの。だから、死んだ後もこうして、このベンチに座って、彼が来るのを待ち続けているの。一緒に海へ行くって、いっぱい映画を観るって、約束してたのに・・・』
『なんか、どこかで聞いた事があるセリフだな』祐一は首を傾げた。
『彼への思いが強すぎて、私はこの公園から離れる事が出来ないの。彼が私の事を迎えに来てくれる事を信じて、ずっとここで彼を待っているの』
祐一は、まるでドラマの主人公にでもなったかのように話す女の姿を傍観していた。
『なんだか古臭いメロドラマみたいな話だな・・・』
『今、何か言った?』
凄い形相で睨まれた祐一は、慌てて女から目を逸らし、地面に転がっていたどんぐりを見つめた。
『い、いえ何も。は、早く、彼が来てくれるといいですね。ドジョウさん早く迎えに来て』
女はじっと祐一の事を睨んでいた。身の危険を感じた祐一が首をすくめていると、ドジョウではなく、コンビニの袋を持った薄汚れた作業服姿の男が近づいて来た。冴えない顔のわりに、なかなかいい体つきをした男は、ベンチに積もった落ち葉を手で払うと、女の隣に腰を下ろした。
『ん? こいつどこかで・・・、デジャブか?』
男はコンビニの袋に二つ入った弁当の一つを取り出すと、膝の上に置いた。そして優しく微笑むと、太い指を器用に動かし、弁当のラップをはがしてフタを開けた。
『何よこのデブ! 私のベンチで弁当なんて食うんじゃないわよ! 呪われたいの! ちょっとあんた、あんたのこの肉しか入ってないデブ弁とっととどかしなさいよ!』
女が鬼のような顔で男を威嚇すると、男は何かを感じたのか、女のほうに顔を向けた。男は横に置いたコンビニの袋を覗き込むと、なぜかその表情を曇らせた。
「箸が入ってない」
男は消え入るような声でそう言うと、油で汚れたゴツイ手を見つめ、何か考えているような様子を見せた。男は少し間を置き手を脇に下ろすと、置いてあったフタを取り、寂しげに弁当の上へと乗せた。そして弁当を袋に入れると、傍にあった時計台を見上げ、一つため息をついた。男は重そうな腰を上げると、哀愁を漂わせながら公園の外へと去って行った。
『何なの、あのデブ』
『何かあいつ、どこかで見たような気がするんだけどなぁ。どこで見たんだっけなぁ。ねぇ、どこで見たか知ってる?』祐一は、女に尋ねてみた。
『そんな事、私が知るわけないでしょ。あんたバカじゃないの、バカなの?』
女の言葉に怯んだ祐一が、口を尖らせ浮き尽くしていると、空から何やら呼びかける声が聞こえてきた。
『あー! いたいたー! おーい! 遅くなって、悪い悪いー!』
二人して空を見上げると、一羽の大きなカラスが祐一のほうへと舞い降りてきた。祐一が近づいて来る不気味なカラスをよく見ると、それはカラスではなく、ドス黒い色のボロ布をまとった男だった。男はその格好には似合わない、切れ味の鋭そうな大きな鎌を持っている。
『いやー、ゴメンな。ちょっと野暮用でさ。火葬場にいないから捜しちゃったよ。こんな所で何やってんだよ?』
薄汚い格好で、初対面なのにやけになれなれしく話しかけてくる黒いネズミ男のような男に、祐一は胡散臭さを感じていた。
『あんた誰? そんな変な格好して恥ずかしくないの? 何で鎌なんか持ってるの? あんたバカじゃないの、バカなの?』
『な、何だお前いきなり、ケンカ売ってんのか? 俺の格好のどこが変なんだよ。この鎌は俺様のトレードマークだろうが』男は自慢げに鎌をかざした。
『鎌がトレードマーク・・・あれ? もしかしてあんた、死神さん?』
『あ! あんた!』
男はベンチに座る女に目をやると、問い掛ける祐一を無視し、女のほうへと近づいて行った。
『あんた、まだここに居るのか。もういい加減この世への未練は捨てて、俺と一緒にあの世へ行こう』
女は肩にそっと置かれた男の手を嫌そうに振り払った。
『嫌よ! 触らないで! 毎回毎回しつこいわね! 私の事は放っといてって言ったでしょ! あんたに私の何がわかるのよ! 私は絶対に、ここから動かないから! それ以上変な顔で私に近づいたら、セクハラで訴えるからね!』
女の言葉に怯んだ様子の男は、少し身を引き、両手で鎌を握り締めた。
『へ、変な顔って、だいたい訴えるって、どこに訴える気だよ! まったく、相変わらず頑固だなぁ・・・あ、もうこんな時間か! 俺、これからもう一人迎えに行かなきゃいけないんだよな。とにかくまた来るから、その時までによく考えておいてよ。こんな所にいたって、何の徳にもならないんだからさ。やば! 時間が無い! おいお前、もう行くぞ!』
男は、そわそわした様子で時計台を見ながら放置されていた祐一にそう言うと、慌てて空へと飛んで行ってしまった。
『行くぞって、どこに? ちょっと待ってよ! まったく、せっかちなやつだな。あの人って本当に死神なのかな?何をあんなに急いでいるんだろう?』
『さあ・・・』
空を見る祐一の横で冷たく答えた女は、木の葉の積もるベンチに一人寂しげに座り、遠くを見つめていた。
『本当に、早く彼が迎えに来てくれるといいね』
祐一が優しく声をかけると、女は二ッコリと笑った。
『うん。ありがとう。あの世に行っても大変だろうけど、頑張ってね』
『大変て、何が?』
祐一が女に尋ねると、空から叫び声が降って来た。
『おーい! 何やってんだよ! ちゃんと付いて来いよ!』
『あ、はいはーい。今行きまーす』
祐一は女の言った言葉が少し気に掛かったが、急かす男の後を追い、空高くへと舞い上がった。
祐一が空中の散歩を楽しみながら男の後を追って行くと、一羽のトンビが祐一達を追い越して行った。
『早いな、あいつ』
しばらくすると隣町の火葬場の上空に着いた。するとそこには一人のお爺さんが雲と共にフワフワと浮かんでいた。さっきのトンビが、お爺さんの周りを旋回している。
『爺さん、お待たせ』
『遅いじゃないですか、死神さん』
『あ、やっぱ死神なんだ。それにしても、あの爺さん。どこかで見た事があるような』
『いやぁ、ごめんごめん。ところで爺さん。あんた結構長生きしたみたいだね、だいぶ徳が貯まったんじゃないの?』
『ええまぁ、おかげさんで』
祐一は、死神と楽しそうに話している見覚えのあるお爺さんの顔を食い入るように見ていた。
『ん? 誰じゃあんた? 何、ガン飛ばしとるんじゃ。ケンカ売っておるのか? やるならやるぞ』
しかめっ面をしたお爺さんが祐一のほうへ飛んで来ると、ぶれていた頭の中のピントが合う。祐一は眉間に入れていた力を緩め、ポンッ! と手を鳴らした。
『思い出した! 病院で隣にいた爺さんだ!』
祐一がそう言うと、お爺さんは目を丸くした。
『おお! なんだ、あんたじゃったか。やっぱり、あんたも一緒だったんじゃな。同じ日に死んだから、そうじゃないかと思っとったんじゃよ。ところで、あんたはどうじゃ、ちゃんと徳は貯められたか?』
祐一は、お爺さんの言っている意味がよく分からず、再び眉間に力を入れた。
『「徳」って、何ですか? ていうか、僕が病院で死神の事とか聞いた時、どうして何も知らないって言ったんですか? 知ってたなら教えてくれてもいいじゃないですか』
『あの時は本当に知らなかったんだから、仕方ないじゃろが。前世の記憶が戻るのは、ちゃんと供養されてからなんじゃから。あんただって、そうじゃろうが』
『前世の記憶?』
祐一が更に眉間に力を入れ、そう聞き返すと、隣にいた死神が驚いた顔をして祐一に問いかけてくる。
『おい、お前もしかして、記憶が戻ってないのか?』
『だから、記憶って何の記憶ですか?』
『前世の記憶に決まってるだろ。おかしいな、何で記憶が戻らないんだ? 何かのギャグか? 笑えないぞ』
死神は手に持っていた鎌の柄で、祐一の頭をポコポコと叩いた。
『ちょっと、やめて下さいよ! 何で痛いんだよ? そんな事したって、前世の事なんて思い出しませんよ。あんた達いったい何を言ってるんだよ。まったく』
祐一は鎌の柄を振り払い、頭をさすった。
『どうやら、本当みたいじゃのう』
『マジかよ~! 面倒くさいヤツに当たっちゃったなぁ。まったく、ついてねぇなぁ。これじゃ、あの世に行ってから、役所に連れて行って調べてもらわないとダメじゃねえか。俺、もう次の仕事が入っちゃってんじゃねえかな?』
あからさまに嫌そうな顔をする死神は、懐から黒いノートを取り出すと、それを開いた。
『ほら、もう次のお迎えの指示が出てるよ。まいったなぁ』
祐一は、死神が見ているノートに興味を引かれ、横から覗き込んだ。
『なんですか? そのノート』
『あ? 死神専用のノートだよ』
『もしかして、「デスノート」てやつですか?』
『そうだよ』
『うわ! すげ! 本物だ。俺これ映画で見ましたよ! これって、名前を書くと、書かれた人間は死ぬってやつですよね?』
祐一は鼻の穴を膨らませながら死神にすり寄った。死神は呆れた顔をして体を逸らすと、鎌の柄で、再び祐一の頭をポコポコと叩き始めた。
『ちょ、ちょっと、何するんですか』
祐一は慌てて死神から離れた。死神は逆さにした鎌を元に戻し姿勢を正した。
『アホかお前は。そんな事出来るわけねえだろ。お前、映画の観過ぎだよ』
『え、そうなんですか? じゃあ、そのノートには、どんな力があるんですか?』
『力なんてある訳ねえだろ。これは、あの世からの指令を受ける為のノートなんだから。誰かが死んで、ちゃんと供養される事が決まると、このノートに名前と時間と場所が自動的に記されるんだよ。これを見て、俺ら死神が魂を迎えに行き、あの世まで連れて行くんだよ。何もない時には、さっき公園で会ったお姉ちゃんいたろ』
『え? ええ』
『ああいう地縛霊なんかを説得しろって指令が、このノートに記されるんだよ。分かったか? 死神っていうのは忙しいんだぞ。ちゃんと尊敬しろよ』死神は顎を上げ、偉そうに言った。
『何言ってんだよ、ただの使いパシリじゃねぇか。人の頭をポコポコ叩きやがって』
『ん? 何か言ったか?』
『いいえ、何も』祐一は口を尖らせ、そっぽを向いた。
『そうこう言ってる間にも・・・ほら、こんなに仕事が入って来た。まいったなこりゃ』
ノートを持ったまま困った様子を見せる死神に、お爺さんはゆっくりと近づくと、何やらそっと話しかける。
『死神さん。よかったら、わしがこの人役所まで連れて行ってあげましょうか?』
『ホントか爺さん! いやぁ、それは助かるよ。悪いな』
『同じ日に、あの世に行くのも何かの縁ですしねぇ』
お爺さんはそう言うと、死神の前に手を差し出した。
『なんだよ、この手は?』死神は眉をひそめた。
『1000徳で、いいですよ』お爺さんは、ニヤリと笑った。
『あ? なんで俺が、そんな徳払わなきゃいけないんだよ』
『いいんですか? 役所は時間が掛かりますよ。時間がないんでしょ?』
『うわ! こわっ! がめついジジイだな。人の足許を見やがってまったく、しょうがねぇなぁ。ほら、これでいいんだろ』
死神が渋々とした様子でお爺さんの手のひらの上に手を置くと、二人の手は一瞬光を放った。
『はいはい、どうもどうも』
『死神にタカるなんて、まったくいい度胸してるよ。公園の姉ちゃんには訴えられそうになるし、今日はホントについてねーな。それじゃさっさと、あの世へ行くぞ!』
死神はそう言うと、持っていた鎌を空に振り上げ、上空にあった雲を切り裂いた。すると、切り裂かれた雲の隙間から、あ然と見上げた祐一の前に一筋の光が差し込んで来る。周りを旋回していたトンビは、逃げるように飛び去って行った。
『ほら、早く乗れよ!』
『乗るって、何に?』祐一は死神に尋ねた。
『光の中に、入ればいいんじゃよ』
お爺さんは、そう言いながら何の躊躇いも無く、光の中へと入って行った。
『お前も早く乗れ』
祐一は死神に背中を押され、死神と共に光の中へ。すると祐一達は、もの凄いスピードで光の差す方へと吸い上げられて行く。
『速っ! なんだこりゃ!』
『これは、あの世へと続く光のエレベーターじゃよ』
『へえー、凄いなぁ。もう地面があんなに遠くになっちゃったよ』
祐一は薄い光の向こうに広がる景色を眺めた。地面が遠のき、雲をすり抜け、すり抜けた雲が遠ざかっていくと、昼間だった世界が徐々に夜の世界へと変わっていく。
『わぁ、あれが地球かぁ、ホントに青いんだなぁ・・・て、あれ? ちょ、ちょっと、メーテル、じゃなくて死神さん!』
外を見ていた祐一は異変を感じ、慌てて死神に声をかけた。
『なんだよ、うるせぇな』ノートを見ていた死神は、指で耳をほじりながら言った。
『だってこれ、宇宙に飛び出しちゃってないですか?』
『だったら、なんだよ』死神はノートを見つめ、こっちを見ようとはしない。
『だったら、なんだよって。いったいあの世って、どこにあるんですか?』
祐一が尋ねると、死神はノートを下ろし、面倒くさそうな顔をして祐一の事を見つめた。
『お前、そんな事も知らねぇのか、あそこだよ。あ・そ・こ!』
死神が指差す方向を見た祐一は、目を丸くした。
『え? あれって、まさか、嘘だろ・・・』
祐一が目にした物は、宇宙空間に浮かぶ、黄金色に輝く月だった。