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#シリアス
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「……紬、覚悟はできているかな?」
父の沈んだ声が、古びた畳に吸い込まれていく。
明治三十年、春。
帝都から届いた一通の手紙が、没落しかけた我が家の運命を変えた。
送り主は、泣く子も黙る名門・九条家。
その次男坊である伊織様のもとへ、私が嫁ぐことになったのだ。
「はい、父様。私のような者でお役に立てるのなら」
手荷物は、母の形見の着物と数冊の本だけ。
汽車に揺られ、初めて足を踏み入れた帝都・東京は、まるでお祭りの最中のような騒がしさだった。
石造りの建物、空を横切る電信柱、そして鼻をつく石炭の匂い。
案内された九条家の屋敷は、まるでお城のようだった。
磨き上げられた廊下を歩き、通された奥の間。そこで私を待っていたのは───
「……ふうん。君が、田舎から届いた『贈り物』かな?」
低く、とろけるような甘い声。
顔を上げると、そこには軍服を崩して着崩した、信じられないほど綺麗な男性が座っていた。
切れ長の瞳は薄暗い室内でも爛々と輝き、吸い込まれそうなほど深い色をしている。
この方が、私の旦那様になる九条伊織様……。
「九条紬と申します。不束者ですが、精一杯お仕えいたします」
畳に手をつき、精一杯の礼を尽くした。
すると、衣の擦れる音がして、伊織様が私の目の前まで移動してきたのが分かる。
不意に、顎を指先でクイと持ち上げられた。
「案外可愛い顔をしているけど。そんなに震えて、俺が怖いのかい?」
顔が、近い。
鼻先が触れそうな距離で、伊織様が不敵に微笑む。
その瞳には、獲物を狙う肉食獣のような余裕と
女の人を惑わすことに慣れきった色香が混じっていた。
私は反射的に、伊織様の肩をぐいと押し返した。
「あ、あの……! 伊織様、そんなに顔を近づけては危ないです!」
「……は?」
伊織様が、呆然とした顔で固まった。
「お、お怪我をなさいます!私、汽車に長く揺られていたので、着物に埃がついているかもしれませんし……!」
私は必死だった。
こんなに近づいて、綺麗な顔に傷でもついたら、九条家に申し訳が立たない。
対する伊織様は、口を半開きにしたまま、差し出した指先を空中で止めている。
「……君、今、俺を拒絶したのか?この俺を?」
「拒絶だなんて、とんでもございません! 旦那様のお体が心配なだけで……。あの、からかうのはおやめください。私のような地味な女には、そのようなお戯れはもったいのうございますから」
私は精一杯の笑顔で付け加えた。
父からは「帝都の殿方は冗談がお上手だから、真に受けてはいけないよ」と教わっていたのだ。
「冗談……?戯れ……?」
伊織様の整った眉が、ぴくりと跳ね上がった。
彼は立ち上がり、信じられないものを見るような目で私を見下ろす。
「……ふっ、面白い女だ。帝都の女で、俺の誘いに頬を染めない奴はいなかったんだが。君、本当に……本気で言っているのか?」
「はい! 伊織様のようなお美しい方が、私などに本気になるはずがございませんもの。お気遣い、痛み入ります!」
「…………」
伊織様は、何事か呟きながら額を押さえ、フラフラと部屋を出ていこうとした。
「旦那様? どちらへ?」
「……風に当たってくる。少し、自信というものが崩壊した音がした気がしてね」
バタン、と景気良く閉まった襖の向こうで何やら
「……ありえない」「計算違いだ」「なんだあの女」という呟きが聞こえてくる。
私は首を傾げた。
帝都の旦那様というのは、不思議な方だ。
でも、あんなに綺麗な方が私の夫だなんて。
(一生懸命、お支えしなくては!)
握りしめた拳に力を込めながら、私はこれからの生活に胸を躍らせた。