テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#シリアス
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「……ふわぁ。よく眠れた」
帝都での初めての朝。
九条家の客間でお借りしたお布団は、羽根のように軽くて、まるでお日様に包まれているようだった。
「いけない、お寝坊してしまったわ!」
大慌てで身なりを整え、台所へと急ぐ。
使用人の方々に「若奥様、おやめください!」と止められかけたけれど
「実家ではいつも私が作っていたのです」と押し切り、なんとか朝食の準備を整えた。
お味噌汁の出汁の香りが漂う中、伊織様が姿を現す。
「……おはよう。朝から騒がしいと思ったら、君が立っていたのか」
昨夜の軍服姿とは打って変わって、ゆったりとした和装に羽織を引っ掛けた伊織様。
寝癖ひとつない完璧な美貌に、一瞬だけ息を呑んでしまう。
朝からこんなに眩しいなんて、やっぱり帝都の殿方は凄い。
「おはようございます、伊織様!お口に合うか分かりませんが、朝食をお作りしました」
「わざわざ? ……使用人に任せればいいものを」
伊織様は少し面倒そうに、でもどこか落ち着かない様子で食卓についた。
私は期待を込めて、彼が箸を動かすのを見守る。
「……っ。……あぁ、悪くない。いや、むしろ美味いな…」
「本当ですか!? 良かった……。お口に合わなかったら、どうしようかと思っていました」
私が胸をなでおろすと、伊織様が不意に箸を置き、じっと私の顔を見つめてきた。
昨夜の「獲物を狙う目」とは少し違う、どこか品定めをするような、それでいて熱を帯びた瞳。
「紬」
「は、はい!」
「昨夜のことは、忘れてくれ。俺もどうかしていた。……改めて言っておくが、俺は君に『妻』としての役割を期待していない」
伊織様は、わざとらしく冷ややかな笑みを浮かべた。
「この結婚は、家同士の都合だ。君はここで好きに過ごせばいい。俺は夜、帰らないことも多い」
「……それと、忠告しておいてあげるけど、俺に恋などしないことだよ?傷つくのは君の方だからね」
それは、女の人の扱いに長けた方特有の、残酷で甘い警告。
思わず私は感動してしまった。
「……伊織様」
「なんだい? さすがの君も俺に恋をしないなんて無理な話だ───」
「いえ……! なんてお優しい方なんだろうと思いまして!」
「……は?」
伊織様が、持ち上げたお茶を吹き出しそうになった。
「身の程を知らない私に、そんなに気を使ってくださるなんて。……『恋をして傷つかないように』と、わざわざ悪役を演じて、私を突き放してくださっているのですね。そのお心遣い、感謝致しますわ!」
私は深く、深く頭を下げた。
そう、父が言っていた。
「本当に高貴な方は、無知な者を傷つけぬよう、あえて冷たく接して守ってくださることもある」と。
「……ちっ、違う!俺は別に、君を守ろうとしてるわけでは」
「わかっております! 伊織様のような立派な方が、私なんかに構うお時間はございませんもの」
「どうぞ、夜の街でもお仕事でも、存分に励んでくださいませ。私はこの家を守り、伊織様がいつ帰ってきてもいいように、温かいお食事とお風呂を用意して待っておりますから!」
「…………」
伊織様は、何かを言いかけて口をパクパクとさせたけれど、最後にはがっくりと肩を落とした。
「……君は、本気で…本気で言っているのか?」
「もちろんです! 私、嘘は苦手ですから」
満面の笑みで答えると、伊織様は顔を真っ赤にして、逃げるように立ち上がった。
「……もういい。出かけてくる」
「はいっ、行ってらっしゃいませ!」
背中を向けて座り直した伊織様の耳が、林檎のように真っ赤になっていることに、私はまだ気づいていなかった。
ただ、「たくさん食べてくださるなんて、なんて健康的な旦那様かしら」と、嬉しくなるばかりだったのだ。