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「お疲れ様でした……」
日勤の仕事を終え、白衣から私服に着替えた穂乃果は、どっと押し寄せてきた疲労感とともに病院を後にした。
加藤さんからのセクハラ(?)に始まり、直樹と里奈のクズコンビへの完全な決別宣言。激動すぎた一日の終わりに、心が求めたのは、あの歓楽街の路地裏にある隠れ家だった。
重厚な扉を開け、カウベルの涼やかな音色とともに『BLACK CAT』へと一歩足を踏み入れる。
昼間の醜悪な現実を遮断してくれるような、薄暗く、心地よいジャズが流れる空間。そしてカウンターの奥には――。
「あらっ? 穂乃果じゃない。今日手伝いはお願いしたつもりないわよ?」
ふわりと振り返ったナオミの姿に、穂乃果の心臓がドクンと大きく跳ね上がった。
仕立ての良い黒のカクテルドレスに、艶やかにセットされた黒髪。昨夜、自分の身体をあれほど乱暴に、激しく貪った『雄の獣』の気配は微塵もなく、そこにはいつも通り、完璧に美しく凛とした『バーのママ・ナオミ』が立っていた。
「あ、いえ……。その、今日は飲みたい気分だったから」
「あら、そう。じゃぁ、空いてるところに座って頂戴」
いたって普通のやり取りに、なんだか毒気を抜かれてしまう。
(……そっか。ドキドキしてるの、私だけなんだ)
ナオミの涼しげな、いつもと変わらない美しい微笑みを見ていると、なんだか急に胸の奥がチリリと疼いた。
こちらは一日中、歩くたびに太ももの付け根が微かに痛み、ナース服の下のキスマークが今もドクドクと脈打っていたというのに。あの熱情を、昨夜の痴態を、これっぽっちも意識していないかのような彼女の態度に、穂乃果の心には行き場のないモヤモヤとした感情が広がっていく。
あまり考えたくないが、やはりナオミにとっては、昨夜の出来事は数多くの中の一人との行為だったりするのだろうか? あの随分手慣れていた腰使いや指の動きを考えると、自分はただ「流されて抱いた女の一人」に過ぎないのかもしれない。
そう思うと、急に自分がひどく惨めで、恥ずかしい存在に思えてきて、穂乃果はカクテルグラスを両手で握りしめたまま俯いた。
「あ、穂乃果ちゃん! いらっしゃい!」
そこへ、奥からグラスを運んできた湊が、穂乃果の姿を見つけてパッと顔を輝かせた。
「あ、湊くん、こんばんは……」
「あのさぁ、聞いてよ穂乃果ちゃん」
湊は周囲を窺うようにひょこっと身を乗り出すと、カウンターの端でボトルを拭いているナオミをチラリと見て、声を潜めた。
「ナオミさんさ、今日お店に来た時から、なんか『超ご機嫌』なんだよね。いつもなら僕がちょっとミスしただけで鋭いツッコミが入るのに、今日は『あら、次から気をつけてね?』なーんて優しく微笑まれちゃって、逆に怖いくらいでさ。ねぇ、何があったと思う?」
「へっっ!?!?」
湊の素朴な疑問に、穂乃果の思考は一瞬でフリーズした。
ご機嫌、な理由。
(まさか、昨夜のことが原因……? いやいやいや、そんなわけないっ!)
「な、何も! 何もないよ!? 私が知るわけないじゃないっ!」
穂乃果は顔を真っ赤に染め上げながら、まるで壊れたおもちゃのようにぶんぶんと激しく首を振った。その尋常じゃない狼狽ぶりに、湊は目を細めて怪訝そうな顔をする。
「なんで穂乃果ちゃんが慌てるのさ。え? もしかして……?」
「……っ」
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#NL
瀬名 紫陽花
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「こら。女の子に余計な詮索しないの」
カウンターの奥から、低く滑らかな、けれど有無を言わせない迫力を持ったナオミの声が降ってきた。