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「あー⋯⋯
Maison du Sommeil Élyséen
(メゾン・デュ・ソメイユ・エリゼアン)か。
ここだな」
ソーレンが立ち止まり
携帯から顔を上げ、低く呟く。
大通りの喧騒を背に、二人の視線の先には
白亜の外壁に黒鉄の蔦飾りが絡む
瀟洒な寝具専門店があった。
通りの石畳には、落ちた街路樹の葉が散り
硝子のファサード越しに見える店内は
夜明けの霧のように
柔らかい灯りで満たされている。
扉を押すと、微かに甘い羽毛の香りと
新しいリネンの清潔な匂いが混じり合い
穏やかな温度の空気が肌を包んだ。
店内の床は艶やかな黒の大理石
展示台の上には金糸の刺繍をあしらった
真白のシーツが幾重にも折り重ねられている
静謐と贅沢が
呼吸を整えるように漂っていた。
「櫻塚様、お待ちしておりました」
カウンター奥から現れたスタッフが
完璧な姿勢で頭を下げる。
声はやわらかく
よく訓練された調べのように整っていた。
「アライン様よりご用件を承っております。
どうぞ、こちらへ──」
誘われるまま、奥の展示室へ進むと
静かに立ち並ぶスタッフの数名が
時也の前に回り込んだ。
彼らは一礼した後
まるで儀式のように滑らかな手つきで
巻尺を取り出す。
瞬く間に、首周り、肩幅
腕の長さ、脚の長さ──
そのすべてを正確に測り始めた。
「⋯⋯あの、なぜ僕の採寸を?」
時也がやや困惑気味に問うと
先頭のスタッフが穏やかに微笑んだ。
「アライン様から、 ご使用者様は
櫻塚様より少し大きめの方だと
伺っております。
しっかりお身体に合わせて
お作りするように、と──」
「ふふ。アラインさんらしいですね」
時也は肩を小さく竦め、やがて淡く微笑んだ
「そうですね⋯⋯
身長は確かに僕より僅かに高いので
百八十センチくらいかと。
体型は⋯⋯今は痩せ型ですが
しばらくすれば
僕よりも逞しい体型になるかもしれませんね」
「お前ってさ──」
ソーレンが
火のついていない煙草を咥えたまま苦笑した
「マジで筋肉つかねぇよな?
さっきも俺らと並んでたせいで
弱そうに見られてたしよ」
「⋯⋯僕の故郷での
あの時代の成人男性平均は160センチ前後です
これでも僕は
立派な男として認められていました」
「はっ。お前の故郷は小人の国かよ?」
「貴方はこの国でも大きすぎるんですよ。
頭蓋の中身まで筋肉にしないでくださいね?」
「──あ?」
その軽口の応酬に
スタッフのひとりが抑えきれずに
微笑を漏らした。
高級店に似つかわしくないほど
柔らかい空気が、二人の間に流れる。
しかしその空気すら
どこか品のある調和の中で満たされていた。
「ふふ。仲がお宜しいのですね」
先頭のスタッフが微笑み、手帳を閉じた。
「では、採寸も
ご使用者様の情報もいただきましたので
商品のご案内に移りますね。
こちらへ──」
通された奥の展示室は
まるで白夜の宮殿のようだった。
壁一面にはリネンの見本が並び
絹のような光沢を帯びたシーツや
深海を思わせる群青色のカバーが整然と並ぶ
天蓋の布は淡く透け
天井から落ちる光が
羽毛の粒ひとつひとつに微細な影を刻む。
時也はその景色を見渡しながら
ほんの一瞬、息を止めた。
(⋯⋯アラインさん。
貴方は、こういう場所の選び方まで
計算しているみたいですね⋯⋯)
彼の心の奥に、微かな苦笑が浮かぶ。
その優雅さと、さりげない支配の手口。
すべてが周到に整えられている──
まるで、アラインの掌の上で
踊らされているように。
ソーレンはと言えば
展示台に肘をつきながら
値札を見て小さく唸る。
「⋯⋯おいおい。
マットレス一つで車が買える値段じゃねぇか
あいつ、ほんと趣味わりぃな」
時也は目を細めて、柔らかく答えた。
「でも、ここの商品なら──
眠る人の痛みを、少しでも癒せる気がします」
その一言に
ソーレンは煙を吐き出して黙る。
天井の光が二人の頬を照らし
夜の静けさを先取りしたような温度が落ちる。
そこに残るのは
わずかな呼吸と、布が擦れる音だけ。
まるで
断罪の夜を前にした
束の間の安らぎのように──⋯
白磁の照明が落とす光が
柔らかに布の海を撫でていた。
空気は羽毛の粉のように静かで
店内に響くのは
革靴が絨毯を踏む微かな音のみ。
時也は
並べられた寝具の列の前で立ち止まり
ひとつのマットレスに手を添えた。
掌が沈む。
沈黙もまた沈み
彼の鳶色の瞳にゆらりと灯りが宿る。
「⋯⋯見ていたら
僕の寝室の分も欲しくなりましたね⋯⋯
アリアさんの安眠のためにも⋯⋯これは──」
独り言のように、言葉が零れる。
彼の声は
まるで祈りを詠むように静謐だった。
掌が布地を撫でる度に、光が流れ
指先で夜の温度が変わっていく。
「おい。何をぶつぶつ言ってやがる」
ソーレンの声が割り込む。
低く、少し呆れた調子だった。
その大きな影が傍らに落ちると
途端に時也の雰囲気がわずかに揺らいだ。
「ソーレンさん。
貴方も新しいマットレスが欲しいですよね?
その巨躯に圧し潰されているから
きっと限界が近いはずです。
きっと、その筈です」
「お前⋯⋯
自分が欲しいんだと、言いたくねぇんだろ?
はいはい。俺も新しいの、欲しいですー」
ソーレンは投げやりに言いながらも
肩で笑う。
その声には
どこか諦めにも似た温かさがあった。
「仕方ないですね、ソーレンさんは。
では──すみません。
シングルサイズを十個
クイーンサイズを一つお願いいたします。
全て最高品質のもので」
その瞬間、静寂にさざ波が立った。
スタッフたちが顔を見合わせ
控えめなざわめきが室内を渡る。
豪奢な白壁がその声を反響させ
金の額縁が一瞬だけきらめいた。
「⋯⋯家の部屋の
全部のマットレス交換すんのかよ?
お前が欲しいだけで⋯⋯」
ソーレンは眉をひそめ、肩を落とす。
だが時也の表情は変わらなかった。
「ソーレンさんだけ特別
という訳には参りませんから」
柔らかな声の奥に、どこか誇りすら混じる。
その響きは
誰かの幸福を計算し尽くした者のように
静謐で確固としていた。
「お!青龍なんか
このベビーベッドで充分なんじゃねぇか?」
ソーレンが片隅に展示された
小ぶりのベッドを指差す。
白木の枠に淡い桜色の布がかけられ
まるで春の雫のように可憐だ。
「はは。可愛らしいですね?
ですが、青龍にも
しっかり休んでもらいたいので
買うとしたら、こちらにしますよ」
時也が指したのは
最奥に並ぶ深藍色のベッド。
木目の艶に静かな威厳があり
まるで主を護る神獣の眠り床のようだった。
「⋯⋯あの、櫻塚様」
スタッフの一人が、躊躇いがちに声を上げた。
「商品の発送はいかがなさいますか?
この量ですと
積載できる車を
手配しなければなりませんので、今日中は──」
「えぇ、お心遣いありがとうございます」
時也は振り返り、微笑を湛えたまま告げた。
「梱包して、裏口に置いておいてくだされば
うちのスタッフが運びますので」
言葉は穏やかだった。
だがその瞬間──
ソーレンの眉間に深い皺が刻まれる。
(⋯⋯俺の異能は
便利屋じゃねぇって言ってんだろが)
その悪態が、思考の奥で煙のように立ち昇る。
けれども、時也はそれを聞いていながら
まるで風の音でも聞き流すように沈黙を保つ。
彼の微笑は、揺らぎ一つ見せなかった。
柔らかな照明の下
二人の背に、微かな光の陰が差す。
それはまるで、現実と非現実の境を
曖昧に溶かす薄暮のようだった。
時也は手帳に軽く指を添え、目を細める。
──守るために買う。
──癒すために整える。
そして、いつかその寝床が
再び戦場の前の一夜を
包むことになるとしても。
店内の香りは、変わらず穏やかだった。
羽毛が擦れる音が、まるで祈りのように
静かに宙へと溶けていった。
⸻
夜の帳が静かに降り
窓外には街の灯が淡く瞬いていた。
喫茶桜の居住スペースのリビングには
照明の柔らかな光が満ち
磨かれた木の床がその光を淡く返している。
一日の労働と騒動を終えた喫茶桜の面々が
ようやく肩の力を抜ける時間だった。
「あーーー⋯⋯!クッソ疲れたわ」
ソーレンが大きく伸びをしながら
ソファの背に身体を預けた。
その巨躯が沈み込むと
革張りの座面が低く軋む。
額には汗の光がまだ薄く残り
息を吐く度に
咥えた煙草の火が一瞬赤く揺れた。
「ふふ!本当にお疲れ様、ソーレン!」
レイチェルが、 グラスを手に笑う。
「マットレスの運搬も
帰ってからの設置も大変だったわね。
あなた、一体いくつ運んだの?」
「最初に見たときは⋯⋯」
アビゲイルが両手を胸に合わせ、目を細めた。
「まるで神話の巨人アトラスが
天球を肩に担いでいるのかと思いましたわ」
「⋯⋯誰が巨人だ。
罰を受けて、マットレス全部一纏めに
持ってきた訳じゃねぇわ」
ソーレンはぼやきながらも
どこか諦めたように肩を竦める。
レイチェルは笑みを深め
彼の前に注いだワインを置いた。
「重力の異能使ってるから
多少は楽だったとはいえ⋯⋯
全部の部屋の交換は、そりゃ疲れるわよね」
テーブルの上には
時也の手で拵えられた料理が並んでいた。
白皿に盛られた鴨のコンフィ
香草の香りを立てるポテトグラタン
そして湯気をたてるスープ。
香ばしく焦がしたバターの匂いと
焼きたてのパンの甘い香りが
夜の空気に満ちている。
「今夜は、功労者のソーレンさんの好物を
主にしました」
時也が微笑むと
湯気の奥で鳶色の瞳がほのかに光を宿した。
「⋯⋯あぁ。
俺のせいにして、良い買い物したもんなぁ?」
ソーレンは呆れたように笑う。
「何のことでしょうか?」
とぼけたように言う時也の唇の端が
わずかに緩む。
「青龍
食事を運ぶのを手伝っていただけますか?」
「──御意」
幼い声と共に、青龍が静かに立ち上がる。
「アリアさん。
手が塞がりお手を取ることができず
申し訳ございません。
では──参りましょうか?」
柔らかく言葉を掛けた時也に
アリアは小さく頷いた。
無言のまま
それでも深紅の瞳が語っている。
「時也さんたち、どこに行くの?」
レイチェルが問うと
時也はトレイを持ち上げながら振り向いた。
「エルネストさんのお部屋でいただきます。
あの方たちはまだ──
大人数に慣れていませんから⋯⋯」
「そうですわね⋯⋯」
アビゲイルは穏やかに頷く。
「早く皆で一緒に食事ができるのを
楽しみにしていますわ」
「ふふ。
では、ごゆっくりお召し上がりください」
時也の声が
蝋燭の灯のように柔らかくリビングを包む。
「ソーレンさん
後ほど──二日後のお話をしましょう。
では、失礼いたします」
トレイを二つ手にした時也の背が
白い扉の向こうへと消える。
その後を、アリア、青龍が静かに続いた。
扉が閉まると、夜のリビングには
残された三人の気配だけが漂う。
食器の触れる微かな音。
窓の外から流れ込む、遠くの街灯の光。
レイチェルが頬杖をつきながら
ふぅと息をついた。
「皆が揃わないと
なんだか怖い程に静かねぇ。
⋯⋯ね、アビィ?」
その時だった。
アビゲイルがフォークを置き
ポケットから携帯を取り出した。
画面が淡い光を放つ。
「⋯⋯あら?」
レイチェルが顔を上げる。
アビゲイルの指先が震え、瞳が見開かれた。
「アライン様から、メッセージですわ⋯⋯」
読み進めるうちに、彼女の顔色が変わった。
白磁の皿の上でスープの蒸気が消え
空気が一瞬で凍ようだった。
「こ、これは⋯⋯っ!!!」
「なぁに、アビィ?
アラインからの嫌がらせ?」
レイチェルが笑い混じりに問うが
アビゲイルの反応はそれどころではなかった。
「お姉様!!」
椅子を押し退ける音が響く。
その声には
歓喜とも戦慄ともつかぬ熱が宿っていた。
「私たちも食後に
お部屋で会議いたしましょう!!
これは──まさに〝天命〟ですわ!!!」
画面の光が
彼女のアズールグレーの瞳に映り込む。
そこには、まだ誰も知らぬ言葉。
誰にも語れぬ〝予兆〟が、秘められていた。