一
パッラチエラの塔は暗闇を突き破るように、天へと聳え立っている。奥の道へと続く傾斜は一歩踏み出せば滑ってしまいそうだ。そんな静寂の街に甲高い女の声が響き渡る。エヴァンは気になって、周囲を注意深く見回した。途端に、隣の摩天楼から物を投げるような音がした。悲痛な女の叫び声と、子供の泣き声が聞こえる。耳を澄ましてみると、彼女らは猫の家族だろうと勘づいた。クルルが「酷いですよね。本当に……」と顔を歪めた。エヴァンは気にせずに高性能携帯電話《スマートフォン》を取り出すと、位置を確認してメールを送信した。時間は刻々と過ぎてゆく。もう空には紫雲が垂れ込めている。
辛抱強く喧嘩の声を聞きながら待っていると、傾斜から一台の車が来た。運転手の顔は見えない。二頭の前で急に止まり、右後部座席の扉が開いた。そして、抵抗もせずに乗る。クルルは物珍しそうに操舵輪を見ていた。加工されているのか、硝子は墨のように黒く塗り潰されているらしい。退屈だと座席で欠伸していると、運転手が言った。
「噂に聞いた通り、極光の様ですね。遠眼だと深緑だったのに、近づけば紅紫、此方へ歩いてくる時には臙脂と妙に変わる。羨ましい限りです……何故、貴方の様な贅沢がこんなに綺麗なのか。私は何故こんなに醜いんでしょうか?」
嗄れ声の老耄が嫉妬かい、とエヴァンは嘲笑う。明らかなその嫉妬の眼差しには妬みが込められていた。蚯蚓のような気持ち悪ささえ感じる。隣座席のクルルは苦笑で誤魔化していたが、エヴァンは顔に無理矢理な笑みを貼り付けて、口角を上げたままニコリとしている。顔面が痙攣でもするのではないかという余計な心配を与えた。
「青玉でも食べてみたら、美しい毛が生えてくるのでは?」
「竜は青玉を食っているのですか」
遂に声が掠れて、風のような声になる。座席の隙間から虎毛覗くと、クルルは「あの虎犬だ! 紅茶を飲まないから喉が老けたんですよ。可哀想に」と騒いだ。犬は苦笑を浮かべる。
「強ち間違いとも言えませんね。親切を否定したのかと叱られた挙げ句、喉を切られて叫んでいたので腫れたのでしょう」
「喉を切られた? 深さは?」
途端にエヴァンは急に向きを変えて身を乗り出す。専門は脳髄じゃないのかと呆れた。
「気管を貫く寸前、ですかね。でも心配には及びません。専門のお医者様に治療していただいたので」
ケホケホと痛々しく咳をする。その時、車内が大きく揺れた。まるで車という玩具を赤ん坊に渡したかのようだ。エヴァンは明らかに不愉快だという表情を浮かべて、犬を覗く。首に巻かれた包帯には血が滲んで赤黒く変色している。運転している最中にも痛みで顔を歪めていた。脚を組んで瞑眼してみるが落ち着かない。クルルの顔を撫で回していても数分すれば飽きてしまう。窓硝子からは何も見えない。既に圏外の高性能携帯電話は暇潰しにもならない。地獄とも思える時間に終止符を打とうと思った。
「君の名前は何だ」
「私? 彌猴桃ですよ」
果物の名前を答えられ、「彌猴桃〜?」とクルルが顔を顰める。本名だとしたら食い意地の張った親を持っているのだろう。エヴァンはへえと感心した振りをして腕を組んだ。
「二つ名を名乗らなければならないのか」
「ええ、貴方もね。果実を名乗ると良いですよ。下っ端は草、真ん中は花や果実、上層部は酒や宝石」
何だ上層部じゃないのかと落胆する。考えてみればその筈である。態々上層部のお偉いさんが我々のような医者風情の為に出向くことなど無いのだろうと納得した。そして自分は何と名乗れば良いのか、俯いて考える。瞼裏には国旗が浮かび上がった。
「なら、私は月桂樹と名乗る。どうせ覚えられない。此のエヴァンとかいう平凡な名前さえも覚えられないのだから、当然だろう」
風に翻る緑の国旗には月桂樹が描かれている。昔から多々見慣れていたからか、あっさりと決まった。それを聞いた犬は困ったように笑う。道は滑らかになったのか、上り坂を徐々に登っている。
「駄目ですよ。大抵の医者は直ぐ上層部になるし、蓋世之才を持つ貴方達なんだから明日には手の届かない所に居ます」少し恨めしそうだ。
「なら先生、金剛石と名乗っても許されるのでは?」
クルルが眼を輝かせて、嬉々として言った。牛の様な尻尾を忙しくバタバタとさせている。日々の生活が楽しそうで羨ましいと心底思う。エヴァンは眼を瞑って金剛石を思い浮かべた。幾何学的な形に削り取られ、四方八方に燦々と光を撒き散らしている。その一粒でも輝きを凝縮した様な姿をしていた。魅力を感じるかと問われたら、全く感じない。寧ろ贅沢で高級だという偏見がその美を邪魔していた。
「──金剛石はお前が名乗れ。瑪瑙にしておく」
瑪瑙の縞模様は複雑で自然の生み出した美としか言えない。思い出すだけで胸がジンと熱くなる。
「いやいや、私が名乗ったら鼻で笑われますよ。辞めます。……まあ、覚えやすいし、黄玉と名乗りましょうかね。閃亜鉛鉱も綺麗だから悩みます」
「……黄玉先生の方が呼びやすい」
「なら、そうしましょうか」
二頭で熟考して相談している内に、車内に電話の音が鳴り響いた。犬が電話を取ると、座席に乗せたまま話し始める。向こうの声も加工も無く有りの儘響き渡る。瞬く間に、エヴァンは怒りを煮詰め続けたような眼をして、凍ったのかと思うほど冷ややかな顔をした。
「此方、自動車番号二〇二二。本拠地到着」
『了解。基地裏一四駐車場へ駐車せよ』
「了解」
プツリと電話が切れる。窓を開けると、軍隊の狼に顔写真を見せて門を通り裏へと進んだ。既に軍服を纏った動物が並び待ち構えている。両手に軍用銃を抱えて真っ直ぐ前を向いている。海豚の旗が風に揺れて、車はキィと音を立てて止まった。そして扉が開き、冷たい風が二頭を包み込む。其処には視野一面を覆う基地があった。そして基地を囲い込むように塀がある。刑務所なのではないかと錯覚する程、頑丈だ。数頭の兵隊に連れられ無数の階段を上り続ける。古びて、手摺は錆びている。脚が痛いとも言えず、耐えている内に「此の階だ」と背後から言われた。死刑部屋へ案内されるような気分で廊下を歩き、部屋の前に立つと扉を二度叩く。聞き覚えのある返事が聞こえ、今まで居た筈の兵隊は消えている。二頭は顔を見合わせて、その部屋へ足を踏み入れた。青毛の豹が椅子に座り、煙草を吸っている。紫の煙を濛々とさせて、眼は金剛石の様に輝かせていた。二頭は途方に暮れる思いで立ち竦んで、じっとその様子を只管見ていた。青豹のボニファーツはニヤニヤと不敵な笑みを浮かべて近寄ると、一頭ずつに力強く握手する。引き寄せて上下に振った。
「その助教は良いね。いつも手術で第一助手をさせられていると噂を聞く。可哀想に」
同情を含んだ哀れみの眼を向けて、眉根に皺を刻んだ。鼻の髭を震わせて瞳孔を満月のように丸くした。
「可哀想じゃありません。私は先生を敬愛しています。だからこそ、医者を眼指したのです。今も変わりませんよ」
嘘一つない潔白の言葉だ。陽の光に照らされ、黄金の艶を帯びた毛を見て、ボニファーツは驚きの色を残したが、嘘のように消え失せる。そして微笑った。
「こんな子が居たらきっと、毎日が幸せなんだろうね? 会えて凄く嬉しいよ」
愛おしさと恨みを煮詰めて混ぜ込んだような顔をされて、胃から胃液が上がってきそうな感覚に至る。気色の悪いという感情だけではない。瑠璃のように美しい青毛が生気を感じさせない。俯いたままクルルは尻尾をダランと下げた。巻いた髪が視界で揺れている。エヴァンは冷然としていた。
「どうだろうな。それより俺たちは何をすれば良い」
ボニファーツが何歩か下がった。重なった無数の勲章を揺らして、後ろで手を組む。
「難しいことは言わない。授業が無くなるだけだ。君たちは訓練を受けながら研究をして、普通の医者をしてもらうよ。そういえば、専門は?」
「脳神経外科だ」
爬虫類、両生類、哺乳類、鳥類……それぞれの脳、脊髄、神経を専門として手術をしている。鳥類専門の脳神経外科医と限れば多いが、エヴァンの様に全ての脳神経を手術出来る医者は少数だ。この全てを勉強する為に、どれだけの経験と書が要るか計り知れない。
「へえ、なら全種族の全身を手術出来るようになって貰う。勉強用の部屋もあるし、参考書は大量にある。それに解剖用の遺体もあるから安心して良いよ」
正気の沙汰とは思えない言葉に息が詰まる。エヴァンは冷静に弁解することに決めた。
「私は全種族の脳神経が専門だ。全てが頭に入って技術まで磨き上げるのに何年掛かると思っている」
「下手に逆らうと、その腹にある傷がもっと深くなるよ。何年も掛かることを一年で終わらせるんだ。それに勉強している暇もない。数日掛けて此の基地を見学して説明をした後、ヨルガンの首都ラディヌマに飛んでもらう」
図星を突かれ、エヴァンは苦い顔をして腹を撫でた。滲むような痛みが胸まで達している。
「……そもそもヨルガンって何処でしたっけ」
クルルが恥ずかしげに頬を赤くして訊く。それもその筈だ。地図でも眼を凝らして探さなければ分からない。小さいわけでもないが、他国と同化しているように見えるのだ。丸く少し捻じれたような形をしている。
「北にある峡湾で有名な島国だよ。最近紛争が終わったばかりで負傷兵も多く、一般市民達も紛争に巻き込まれて重傷者多数だから現地に居る医者達の手伝いとして向かって欲しい。そこには別基地があるから」
細かく山岳まで描かれた地図を机の上に広げた。侵略されている場所や攻撃された場所は色が塗られている。範囲の広さに二頭は息を呑んだ。
「医薬品の在庫と状況はどうなっている」
「都市部には十分にある。でもヘリコフやワンブルクとかの田舎には行き届いてないらしい。それも、生存者が居るかも不明で、空には爆撃機がウロチョロしてて侵入が困難。此方から数名派遣したけど連絡が無い。丁度、今日に会議をして小型無人航空機で調べるつもり」
派遣した基地に赤い点を書き出す。数えると合計で八頭だ。そして参考にと本を渡された。そこには派遣された動物の顔写真と履歴、階級がきめ細かく綴られている。エヴァンは重要な部分だけを読み上げて、クルルが影で備忘録に書き留めた。
「……上の欠けた三日月、階級によって周囲を覆っている点の数が変わるんですね。上下に一つずつと、二つずつが多いようですけど、ボニファーツさんは幾つですか?」
「上下、合計で三〇だね」
「ええっ」
思わず驚きで青褪める。エヴァンは眼を細めて、嘲笑の声を漏らして外方を向く。パタリと本を閉じた。布が張り付けられているからか手触りが良く、繊細に花の刺繍が施されている。もう一度開き直すと、布が剥がれている部分があった。少し広げて覗くと写真が挟まっている。褪せた深緑の軍服を纏い、真っ直ぐな眸を正面に向けた狼が居る。身を覆う黒毛に、耳や頬の毛には柿色の毛が混ざっていた。それを凝視していると、手が滑り、はらりと地面に写真が落ちる。クルルが屈んで拾った。
「誰ですか?」
ボニファーツは瑠璃のような毛を青黒くして、深く溜息をつく。カツカツと革靴の音を鳴らして近寄り、サッと写真を奪った。
「組織に嘘をついて逃げた、本当の屑だ。此の世で僕が一番嫌っている狼だよ。燃やした筈なのに、何故そこにあるんだろう。縁起が悪いね」
明らかに曇った表情に、二頭は首を傾げた。真夜中の霧のような不気味さ、不可解さに疑惑の眼差しを向けずには居られない。然し、問い詰めるのは無鉄砲だと断念した。
「じゃあ、今日はお話終わり。これから二頭の部屋を外の軍動物に案内してもらって、今日はもう休んで貰う。狭いし古いけど、寝台はあるから生活に困ることはない。小さな冷蔵庫もある」
「そうか。なら良かった。失礼する」クルルの腕を引いて部屋から出ていくと、扉を閉めた。その扉の隣に立っている軍動物に連れられ、また階段を上がった。その途中にある大きな硝子窓からは航空機や訓練をしている若い軍動物が見える。遠眼でも竜が数頭見えた。狙撃練習をしているのか銃声が絶え間なく聞こえてくる。乾いているが、眼的を必ず始末するという強い意志を感じる。下手すれば自分の命を失う為、本気だ。クルルは尻尾を振って学生を褒めていたが、エヴァンはただ寂しいような薄闇の表情で歩いている。重りでも伸し掛かっている様にも見え、また酷い悲しみを浴びせられている様にも見えた。そして、突然、廊下を歩いて手前の部屋で止まる。たった数時間前に雑巾で拭かれたような金属の扉を開き、入ると想像していたよりも広い。部屋の端に古びた寝台があり、本棚と机まで置かれている。言われた通りの冷蔵庫も大胆に置かれ、衣桁もある。部屋の隅々を見渡して、何も言わずに寝台へ横たわる。寝心地も良いと絶賛すると、布のような毛布を掛けて死んだように眠った。いつの間にか静寂に包まれた部屋で、クルルも毛布の間に入り込む。
狭いという文句は、胸の奥に仕舞うことにした。
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