「いい加減乗って行けばいいだろう」
うんざりした表情で、遥が萌夏を見ている。
「いやよ。もし誰かに見られたらなんて言うのよ」
遥と萌夏の同居を知る人は会社にはほぼいない。
知られれば大騒ぎになるのは目に見えているし、萌夏だってそんな危険を冒すつもりはない。
「兄貴だって言えばいいんじゃないか?」
「それは・・・」
会社の飲み会を断るために兄と同居していると言っていることを遥は知っている。
それをからかっているんだろうけれど、笑えない。
上場企業である平石建設の、親会社であるHIRAISIの社長の息子であり、平石財閥の御曹司である遥の素性なんて誰もが知っている。
当然姉も妹もいないことは知れ渡っているし、萌夏が「実はお兄ちゃんなの」なんて言ったって誰も信じてはくれない。
「ごめん、先に行くから。食器は置いてあればいいからね」
「自分が食べたものくらい片づけるさ」
「ええー、いいよ」
萌夏だって遥の気持ちはうれしい。家事に協力的な男性は嫌いじゃない。
でも、
「お願いそのままにしておいて」
もうすぐ迎えに来る雪丸さんに見つかればまた嫌味を言われてしまう。
気にしなければいいと遥は言うけれど、上司として会社で顔を合わせる萌夏にとってはそう簡単にはいかない。
「本当にいいから」
「気にせずに、萌夏は行けばいいだろう」
食器を持ち洗い物を始めようとする遥に、萌夏は持っていたバックを椅子へとを置いた。
***
「いいよ。私がするから」
仕方ない、電車を一本遅らせよう。
家賃も光熱費も払っていない身としては遥に洗い物をさせるわけにはいかない。
「わかった。じゃあ、終わったら一緒に行こう」
「だから、私は電車で」
「荷物は預かっておくからな」
萌夏の言葉を遮り、遥は椅子の上に置かれていたバックを手にした。
「え、いや、待って」
慌てて手を伸ばそうにも泡まみれで動けない。
「おはようございます」
そうこうしているうちに、雪丸さん登場。
泡まみれの手を振りかざす萌夏と、女性もののバックを抱えた遥を不思議そうに見ている。
「朝からにぎやかですね」
なんだか苦笑い。
会社では主任と呼ぶ雪丸さんも、家では遥の秘書。
最近では以前ほどあからさまな敵対心を見せられる事はなくなった。
それでも苦手は苦手。
「そろそろ出られますか?」
「ああ、萌夏の洗い物が終わったら出よう」
あーあ、今日は一緒に行くことになりそうだ。
***
基本的には電車通勤をしている萌夏。
それでも何度かは遥の車で出社したことがある。
そんな時には少し離れた駐車場でおろしてもらうことにしているんだけれど・・・
黙って乗っていたら会社が見えるところまで来てしまった。
「あの、その辺りで」
運転する雪丸さんに声をかけてみる。
「このまま駐車場へ入ってくれ」
「はい」
どうやら萌夏の意見は完全に無視。
車は平石建設の正面を回り地下駐車場へと入ってしまった。
「あんなところで降りる方が目立つだろ。おとなしく乗っていろ」
「そんなあ」
地下駐車場は重役専用。
当然一般社員は入ってこないけれど、誰にも会わないって保証はない。
もし知り合いにでも合えば、言い訳なんてできないのに。
「ほら、着いたぞ」
「はぁーい」
ふてくされ気味に返事をし、バックを抱えて車を降りる萌夏。
「ここのエレベーターは重役専用のものしかないから降りるときに気をつけろよ」
はあ?
重役用のエレベーターで出勤なんて、絶対に無理。
萌夏は車が入ってきた駐車場の入り口に向かって歩き出した。
「おい、バカ」
後ろから遥の声がかかるが今は無視。
とにかくここから出て正面入り口に回ろう。そうすれば普通に出社できる。
しかし、
ブブブー。
大きなクラクションの音。
同時に思い切り腕を引かれた萌夏は、遥の腕の中へと入っていた。
***
「死にたいのかっ」
初めて遥の怒鳴り声を聞いた。
「だって・・・」
ただ普通に出勤したいだけなのに。
「車道を歩けばひかれるって小学生でもわかるぞ」
「だって・・・」
萌夏だって好き好んで危険な行動をとったわけではない。
ただ普通に出社したいだけなのに、
「遥、おはよう」
背後から聞こえてきた声。
「おはようございます」
遥もきちんと頭を下げる。
この会話から、遥よりも役職の上の人だろうと思う。
身に着けているスーツはオーダーメイドで、靴も時計も高級品。
年齢は、40代後半。若々しく見えるけれど、落ち着きのあるおじさまって感じ。
それに、どこかで見たことがあるような・・・
「社長、おはようございます」
別の車から降りてきた恰幅のいい男性が駆けよって声をかける。
あ、あああ、そうだ。
この人は、平石建設の社長だ。
社内誌で写真を見たことがあるだけで、初めて実物を見た。
「こちらは?」
社長が萌夏を見る。
「営業部のアシスタントをしている小川さんです」
「ふーん、彼女が」
社長の視線が上から下に移動する。
ああ、逃げ出したい。
萌夏は俯きながらこの場から逃げ出すタイミングをはかっていた。
***
「どうですか、仕事には慣れましたか?」
優しく穏やかに、社長が声をかけた。
「はい」
下を向いていた萌夏も顔を上げる。
見るからにダンディーなオジサマ風の社長。
これだけ大企業の社長のくせにいまだ独身で、恋多き男性らしい。
確かにかっこいい。でも、遥には似ていないのかも。
「遅れるぞ」
居心地悪そうに遥が急かす。
「は、はい」
そうだった。
急がないと遅刻する。でも・・・
「重役用のエレベーターが嫌なら横に階段がある。2フロアほど上がれば正面ホール近くに出るからそこから一般用のエレベータを使えばいいだろう」
「ああ」
なるほど。
「ほら、急げ。遅刻するぞ」
「はい」
とりあえず社長に「失礼します」と頭を下げ、萌夏は駆け出した。
走らないと本当に遅刻してしまう。
***
「おはようございます」
「おはよう。珍しいね、萌夏ちゃんがギリギリなんて」
朝一の会議のためすでにパソコンを立ち上げて仕事を始めていた高野さんが、コーヒー片手にやってきた。
「出がけにアクシデントがあって」
「ふーん。まあいいさ、今日はまだ雪丸さんも来ていないし」
「そう、ですね」
そりゃあそうよ。
さっきまで一緒にいたし、今は遥と一緒に移動中のはず。
「おはよう」
「「おはようございます」」
いつもより少し遅めに登場した雪丸さん。
彼がオフィスに入っただけでピンと空気が張り詰める。
入社3年目で営業一課の主任兼遥の秘書。
その激務をこなせる理由はこの存在感にあるのかもしれない。
「小川、頼んであった資料はどうしたっ」
動きが止まっていた萌夏に雪丸さんの檄が飛ぶ。
「はい。今すぐ」
遅れて駆けこんだことを誰よりも知っているはずの雪丸さんに急かされ、萌夏は駆け出した。
***
朝一の会議で使う資料は、昨日のうちに大体出来上がっているから、あとは経理から資料をもらって添付するだけ。
それも依頼済だから、もらいに行けばできているはず。
さあ、急がなくちゃ。
オフィスを出てエレベーターに向かうも、この時間はなかなか捕まらない。
もちろん待てばいつかは来るんだけれど・・・
「いいや、階段で行こう」
経理は2フロア上。
階段で行けない距離ではない。
萌夏は廊下の突き当りにある階段へと向かった。
ハアハアハア。
たった2階分でも、全速で走れば息が切れる。
「これが、頼まれていた資料です」
「ぁ、ありがとうございます」
息を切らせながら、対応してくれた女子社員にお礼を言い萌夏はまた駆けだした。
会議まで30分。急がないと雪丸さんに怒られる。
こんな時はエレベーターを待っているよりも階段の方が早いはず。それに、帰りは下りだから登りより楽だし。
萌夏は迷うことなく階段へと向かった。
***
営業部へと戻る下りの階段。
ちょうど人影はなく、駆け降りるのに何の問題もない。
でも、
「ちょっと待って」
ハアハアハア。
一気に駆け上がって休むことなく駆けだしてきたから、さすがに苦しい。
階段を降りる前に一旦足を止めて息を整える。
よし、行こう。
数度深呼吸をして、もう一度営業部へと向かおうとした。
その時、
ドンッ。
背中に受けた衝撃。
「ワァー」
とっさに出た声。
こんな時くらい女の子らしいかわいい声が出ればいいのに、色気もかわいげもなく叫ぶ自分に萌夏自身が驚いた。
ドタドタドタ、ドンッ。
階段を転がり、落ちる音。
痛い、痛い痛い。
手も、足も体も痛くて動かない。
背中を強く打ったせいか息まで苦しい。
「だれか、た・・すけ・・て・・」
言葉に出したいのに、声が続かない。
どうしよう。
戻らないと。会議が始まる。
資料を、雪丸さんが待っているのに。
「おい、萌夏ちゃん。どうした?大丈夫か?」
聞こえてきたのは高野さんの声だった。
***
「どうした?大丈夫?」
倒れている萌夏を助け起こしてくれる高野さん。
「私は大丈夫です。あの、資料を」
急がないと会議が始まる。
「うん、でも、本当に大丈夫なの?」
「ええ」
落ちた時は全身が痛かったけれど、高野さんに手を貸してもらい立ち上がってみると、とりあえず手も足も動くしじっとしている分には痛みもない。
「結構な高さから落ちただろう?」
「ええ、まあ。でも、本当に平気です」
何とか高野さんを納得させようと笑顔を作った。
「すみませんが、これが会議の資料です。持って行ってください」
さすがにすぐには動けない。
幸い骨には異常なさそうだけれど、少し気持ちを落ち着けたい。
「わかった。でも、おかしかったら医務室に行くんだよ」
「はい」
「その前に連絡して。萌夏ちゃんに何かあったら次長に殺されるよ」
「そんな大げさな」
遥はきっと、「何で階段から落ちるんだよ」って怒りだすと思う。
そして、「慌てて駆け出すから転ぶんだ」と説教されるだろう。だから言わない。
「このことは秘密にしてください。ね?」
「う、うん」
ブーブーブー。
高野さんの携帯が鳴った。
きっと会議の呼び出しだ。
「ほんとに大丈夫ですから、行ってください」
「うん、じゃあ」
何度も振り返りながら、高野さんは階段を下りて行った。
***
あの後、高野さんにはしつこいくらいに口止めをした。
遥や雪丸さんの耳に入ればきっと面倒なことになるだろうし、階段から落ちたなんて誰にも知られたくない。
「萌夏ちゃんお昼はどうする?」
いつものように礼さんが聞いてくれる。
平石建設に務めるようになってから、お昼は礼さんと一緒に社員食堂へ行くことが多い。だから誘ってくれたんだろうけれど、
「今日は・・・コンビニで何か買って済ませます」
「どうしたの?」
礼さんの心配そうな顔。
「朝、少し食べ過ぎたみたいで」
こんな言い訳でごまかせたかどうかわからないけれど、礼さんは「わかったわ」と言ってオフィスを出て行った。
あーぁ。
お腹が空いていないわけではない。ただ、あまり歩きまわりたくない。
階段を落ちた時に足をひねったらしく、歩くと痛みがある。
礼さんと食堂へ向かえばきっとばれてしまいそうでためらわれた。
仕方ない今日のお昼は引き出しに入れていたお菓子でも食べよう。
***
その日の午後は、できるだけデスクで仕事。
そうしているうちに足の痛みも少しは和らぎ、短い距離なら普通に歩けるようになった。
うん、これなら気づかれないかも。
お昼まではジンジンとしびれるような痛みがあって、家まで歩いて帰れるのだろうかと心配したけれど、この調子ならなんとかなりそう。
会社から駅までと駅からマンションまでの数百メートルずつなら歩けると思う。
「萌夏ちゃん、帰らないの?」
「え、ここを片付けたら帰ります」
「そう、じゃあお先」
「お疲れさまでした」
さすがに礼さんと一緒に帰れば怪しまれそうで、一人で帰ることにした。
ロッカーで着替え、靴もパンプスに履き替えた。
こんなことならフラットな靴で来ればよかったと後悔したけれど、今更どうしようもない。
さあ、帰ろう。
とりあえず階段を避け、平行移動での最短距離を狙う。
当然人混みの多い大通りを通ることになるんだけれど、仕方ない。
ドンッ。
痛っ。
人の波よりゆっくり歩く萌夏は浮いた存在。
嫌でも行きかう人と肩や腕がぶつかってしまう。
はあぁー。
やっと駅が見えるところまで来て、萌夏は息をついた。
やっぱり足が痛い。
できることなら今すぐにでも座りたい。
その時、
「おい」
突然声がかけられた。
***
え、えええ。
いきなり現れたのは我が家の主。
萌夏の前方数メートル先で腕を組みこちらを睨んでいる。
「ど、どうしたの?」
できるだけ自然に歩み寄り、遥の前に立った。
「一緒に帰ろう」
「え?」
遥の言葉に深い意味があるのかはわからないけれど、後ろめたい思いのある萌夏にしてみるとつい身構えてしまう。
「さあ、行こう」
遥に腕をとられ、萌夏も歩き出す。
ほんの数メートル離れた路上に、遥の車は止まっていた。
当然のように運転席に座る雪丸さん。
居心地が悪いなあと思う萌夏にはお構いなしで、遥は萌夏を後部座席へと押し込んだ。
「出してくれ」
「はい」
走り出す車。
無言の車内。
遥はまっすぐに前を見ている。
雪丸さんも何も言わない。
萌夏は足の痛みから解放されほっとした気持ち半分、遥が何を考えているのかわからず不安な気持ち半分。やはり口を開く気にはなれず、車内は静かなままだった。
***
「着いたぞ」
声がかかったのは走り出して10分後。
さすがに萌夏も、いつもと違う道を行く車に目的地が自宅でないとは気づいていた。
きっと、どこかより道でもするんだろうくらいに思っていたのに・・・
「ここは?」
クスッ。
真顔で聞いた萌夏に、遥は笑って見せた。
萌夏だってここがどこかわかっている。
これだけ大きく、『三鷹整形外科』と書かれていれば何をするところかは誰にでもわかる。
でも、知りたいのは「なぜ?」ここに連れてこられたのか。
「行くぞ」
「いや、待って」
差し出された腕には手を出さず、少しだけ抵抗してみる。
「歩けないなら車いすを持ってくるか?それとも俺に抱えられたいか?」
「いや、だから、そうじゃなくて」
ただこの状況を説明してほしい。
遥がどこまで知っているのかわからないことには何もできない。
「ああー、もう・・・時間切れ」
身を乗り出して萌夏の腕をつかんだ遥は、グイッと引くとその手を肩に回し、もう片方の手を膝裏に通して萌夏を抱え上げた。
「ちょ、ちょっと、待って」
「うるさい、黙っていろ」
静かだけれど怒りのこもった遥の声に、萌夏は黙るしかなかった。
***
「おや、遥君。珍しいね」
病院に入るとすぐに表れた白衣の男性。
「こんにちは、先生」
遥も親し気に挨拶を交わしている。
首から下げた名札には、『病院長 三鷹信吾』と書いてある。
どうやらここは知り合いの病院らしい。
「ところで、こちらのお嬢さんが患者さんかな?」
三鷹先生が萌夏を見る。
「ええ、今朝階段から落ちたらしくて」
嘘、バレている。
「それはいけないねえ。お嬢さん、どこを打ったか覚えていますか?」
病院の廊下で遥に抱えられたまま、時々行き交う人の視線を感じながら、そんなことを聞かれてもすぐには答えられない。
「10段ほどの階段を転がり落ちたらしいので、一通り調べてください」
「はあぁ?」
思わず萌夏が反応してしまった。
「わかった。レントゲンを撮って診察してみようか」
萌夏にはお構いなしで、話を進める三鷹先生。
「待ってください、私はどこも」
やっと声を上げた萌夏。
しかし、
「そうかなあ」
優しそうな顔をした三鷹先生が萌夏の右足首をつかんだ。
その瞬間、
「痛いっ」
萌夏は声を上げてしまった。
「お嬢さん、嘘はいけないね」
ニコニコと笑いながら、それでも手を放そうとしない三鷹先生。
「あの、痛い。痛いんです、手を放して」
あまりの激痛に遥の腕の中で暴れた。
「じゃあ、診察をしようか」
三鷹先生は笑顔のまま病院の中へと歩き出した。
今更抵抗のできない萌夏は、遥に抱えられたままついていくしかない。
***
「うーん、腕も背中も打撲痕はあるけれど、治療が必要なのは右足首だけだね」
レントゲンを見ながら三鷹先生が遥に説明している。
「そうですか。骨は?」
「うん。骨に異常はなさそうだ。打撲と捻挫だね」
ほー、よかった。
骨折なんて言われたら笑えない。
「お嬢さん、捻挫をなめたらいけないよ。油断すると長引くし、用心しないと癖になるからね」
「はい」
よかったと胸をなでおろしてしまったのを見透かされたらしい。
それからしばらく三鷹先生の説明が続き、『できるだけ歩き回らないこと』『かかとのある靴は禁止』『一週間後に診察に来ること』など約束させられた。
「ありがとうございました」
「はい、お大事に」
結局、待ち時間もなく診察は終了。
会計もいつの間にか済んでいて遥が呼んでくれたタクシーで病院を出た。
***
「雪丸さんは?」
「帰したよ。どれだけかかるかわからないし、あいつにも仕事があるからね」
そうだよね。雪丸さんが抱えてる仕事はすごい量だもの。
「ごめんなさい」
自分でも意識することなく口を出た。
「何が?」
「えっと、遥も仕事が忙しいのに、私のために時間をとってごめんなさい」
雪丸さん以上に遥は忙しい。
抱えている案件も多いし、一つ一つが大きくて重たい。
はじめのうちはわからなかったけれど、今同じ会社に働くようになって遥がどれだけ凄いかがわかった。
「はあぁー」
遥から聞こえてきた大きなため息。
あれ、怒ってる?
萌夏の直感。
「帰ってから話そう」
「うん」
どうやらこの話、ここで終わりにはならないようです。
***
「バレなきゃいいと思ったのか?」
マンションに帰って早々ソファーに座らされた萌夏の前に遥が立った。
「そんなつもりはないけれど」
できることなら知らせたくないと思ったのも事実。怒られたくないと思ったのも少しはある。
「本当に立ち眩みがしたのか?」
「うん」
三鷹先生に階段を落ちた理由を聞かれ、急に走ったせいで立ち眩みがしたと答えた。
もともと少し貧血気味の体質もありそのせいかなと先生は納得してくれたけれど、遥はそうはいかないらしい。
だからと言って「だれかに押されて落ちたのかもしれない」なんて言えない。
何の証拠も確証もないし、気のせいだと言われればそんな気がしなくもない。
そんな曖昧な記憶で犯人探しなんてされたら、大変なことになる。
「貧血なんて聞いてないし、たとえそうだったとしても、なんで俺に言わないんだ」
「それは・・・心配かけると思ったから」
「心配させろよ」
「え?」
「同じ家に住んでいるんだ。心配くらいさせろ」
「遥」
遥の言う通り。もしこれが逆の立場なら私も怒るだろうし、隠されたことに悲しい気持ちになると思う。
「ごめんね」
自分のことに精一杯で遥の気持ちには思いが及ばなかった。
「本当は何があった?」
「え?」
すごいな、遥。
具体的に何を知っているのかはわからないけれど、階段を落ちた原因が貧血のせいでないのは気づいている。
でも、
「本当に立ち眩みがしたの。急いで階段を駆け上がったからそのせいだと思う」
「ふーん、まあいいよ」
ホッ。
納得してくれた。
遥は鋭いから突っ込まれたらどうしようとドキドキしていたのに。
「とりあえず夕食にしよう。適当に注文するけど?」
デリバリーのメニューを見ながら、遥が携帯を手にしている。
「はい、お願いします」
一緒に暮らすようになって2か月以上がたち、お互いの好みを知っている遥が注文してくれるものに間違いないだろうと任せることにした。
***
「ちょ、ちょっと待って」
届いたケータリングの料理がテーブルに並んだのを見て、萌夏は慌てた。
「どうした?」
遥が取り皿を用意しながら、振り返る。
「これ、どういうこと?」
「何で?気に入らないの?萌夏は好き嫌いないはずだろう?」
「それはそうだけれど・・・」
確かに、好き嫌いはない。
出されたものは何でもいただく。小さいころから父さんやおばあちゃんにそう育てられたから。
でも、苦手なものはある。
クタクタになるまで煮込まれた葉物野菜。特に柔らかいほうれん草はできれば食べたくない。
後は、お肉のレバー。小さく切ってあったりペーストになっていれば平気だけれど、目の前のレバニラは大きなレバーがどんと入っている。
「貧血にいいメニューを選んだらそうなったんだ。さあ、食べなさい」
「えぇー」
これは絶対に意地悪だ。
隠し事をして心配をかけた萌夏に、そして嘘をついていることに遥は怒っているんだ。
好き嫌いはありませんと宣言している手前食べないわけにもいかず、苦手な物尽くしの夕食を2人で囲むことになった。
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