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決算業務も山場を超え、私の担当分も一段落がついた。あともう少しだけ、と残業をこなす。ようやく退社できる状態になってデスク周りを片づけていたら、私を呼ぶ課長の声が飛んできた。


「岡野さん」


「はいっ」


私は席を立って課長のもとへ急いだ。


「何か不備がありましたでしょうか」


「あぁ、いや。そうじゃないんだ。もう帰るって時に悪いんだけど、ちょっと頼んでいいかな」


「はい」


「これ、資料室に戻しておいてくれない?終わったら、そのまま帰っていいから」


見ると課長のデスク脇に、ファイルを入れた段ボール箱がひとつ置かれていた。台車を使うまでもなさそうだ。


「承知しました」


私は箱をよいしょと持ち上げた。


「それでは、これを戻したら、そのまま帰らせていただきます」


「悪いね。助かるよ。お疲れ様」


「お疲れ様でした」


私は課長に挨拶すると、デスクの引き出しに鍵をかけてから倉庫に向かった。誰もいない廊下を歩きながら、数か月前に倉庫で遭遇した出来事をふと思い出す。それは、補佐への気持ちに気づき始めた頃の『事件』だった。その舞台だった倉庫は、相変わらずひっそりとしている。


段ボール箱をいったん床に下ろし、首にぶら下げた社員証を入り口のセンサーに近づけた。この先は重要書類を保管している場所でもあるから、入室管理がされている。ロックの解除音を確認して、私は箱を持って資料室の中に足を踏み入れた。


天井に届く高さのキャビネットが等間隔に並んでいる。端っこにある小さな作業台に箱をいったん置いて、数冊ずつファイルを抱えながら戻すべき場所を探す。所々に貼られたラベルを確認しながらだから、たいした手間ではない。さほど時間をかけることなくその作業は終わった。


「帰ろうかな」


空になった箱は、ひとまず隣の倉庫にでも置いておこう。そう思って箱に手をかけた時、誰かが資料室のドアを開けたのが分かった。


「あれ?電気がついていますね」


私ははっとした。宍戸の声だった。さらに、それにすぐ続いて聞こえた声にどきりとした。


「誰かいるんじゃないのか」


補佐の声だと思った途端、私はキャビネットの影に隠れた。


「誰かいるなら顔を出すんじゃないですか。消し忘れかなんかですかね」


「とりあえず、探そうか」


「はい。えぇと、俺は去年の四月から見てみます」


「あぁ。頼んだよ」


今頃になって出て行くのはためらわれる。二人のやり取りを聞きながら、私は息をひそめてその場にじっとしていた。ここはいちばん奥まった場所だから、二人には気づかれないだろう。


「ありました。これでしょうか」


しばらくして、比較的入り口に近いキャビネットの辺りで宍戸の声がした。


「ちょっと見せて。あぁ、うん、これだな。あとは……」


すぐ近くに補佐がいる……。そう思ったら胸が苦しくなった。


彼の離婚の経緯を知ったからと言って、私の補佐への気持ちは変わるものではなかった。そのことを早く伝えたいと思っていたけれど、補佐はまだ何も言ってきてはくれない。いつまで待てばいいのだろう。いっそ私の方から連絡してみようか。どんな答えであってもいいから、私を縛るこの鬱々とした気持ちから早く解放してほしい――。


補佐の気配を感じながらそんな思いを巡らせる。


「戻ろう」


補佐の声が耳に入り、我に返ると同時にほっとする。


カツンと靴音が聞こえた。


戻って行く――。


そう思った時、宍戸の声が補佐を引き止めた。


「待ってください。少し話があるんですけど」


補佐が足を止めて、いぶかし気な声で訊き返した。


「話?今?」


「はい。今、ここで」


「何かあったのか?」


「他の人には聞かれたくないんです。たぶん、補佐だって聞かれたくないと思いますけど」


「……何の話だ?」


ひと呼吸ほどの間を空けてから、宍戸が口を開いた。


「岡野のことです。こう言えば分かりますよね」


私は息を飲んだ。二人の間に緊迫した空気が流れたような気がした。


宍戸は何を言おうとしているの――。


私は息を殺しながらそろそろと移動し、キャビネットの隙間から二人の様子をうかがった。


「なんのことか分からないな。もう行くぞ」


「逃げるんですか」


補佐の動きが止まった。


宍戸は続けた。


「俺、知ってるんです」


「何を」


「岡野が補佐の答えを待ってる、ってこと」


「彼女がお前に話したのか」


補佐の声がかすれた。


私はすぐにも飛び出して行って、宍戸の口を塞ぎたいと思った。私が補佐とのすべてを宍戸に打ち明けてでもいるかのような、変な誤解をされたくなかった。今出て行くべきかと迷う私の視線の先で、宍戸は首を横に振っていた。


「あいつは自分から話したりはしてませんよ。俺がそう仕向けて聞き出しただけです」


補佐は固い声で言った。


「何が言いたいんだ?」


宍戸は顎を引いて、補佐を真正面から見つめた。


「俺が岡野をもらっても、全然かまわないですよね?」


私は動揺した。その話はもう決着がついたはずだった。それなのに宍戸はまだ私のことを諦めていないのだろうか。


補佐の低い声が聞こえる。


「もらうとかもらわないとか、岡野さんは物じゃないだろう。もう戻るぞ」


「待ってください。答えて下さい」


宍戸は、背を向けようとした補佐の腕を掴んだ。


「岡野が物じゃないなんて、そんなことは分かってます」


宍戸は補佐の腕から手を離した。


「じゃあ、言い方変えます。補佐が岡野のことを何とも思っていないのなら、俺はあいつが振り向いてくれるよう全力で行きますから。補佐はもう、岡野に近づかないで下さいね」


「だからっ」


補佐の声に苛立ちが混じった。


「どうしてわざわざ、そんなことを俺に言うんだ」


「どうして?じゃあ、いいんですね。俺があいつを抱いても」


「何を急に、訳の分からないことを」


補佐の声に動揺が走ったように思えた。


宍戸は壁に背を預けて腕を組んで立つ。


「岡野を俺のものにするのに、そういう手段もあるってことですよ」


酔っぱらって、宍戸に部屋まで送り届けてもらった夜のことを思い出して、どきりとした。理由はどうであれ、あの時私は一瞬、気持ちが揺らぎそうになった。でも、と私は誓うように両手を握りしめる。


二度と流されそうになったりはしない――。


宍戸は続ける。


「俺は、これまで何度も岡野に気持ちを伝えたんです。でもその度に、補佐のことが好きだからって振られてた。こないだなんかは、もう我慢できなくなって、あいつが弱ってるのをいいことに、いっそこのまま抱いてしまおうかとも思ったんですけどね」


「お前――」


補佐の口から低く静かな声がもれた。それは、感情を抑え込むような声だった。


「もちろんそんなことできなかった。だって、あいつ、泣くんですよ。補佐の名前を言って。だから――」


宍戸は自分の足元に視線を落とす。


「補佐が岡野の気持ちを受け入れられないっていうんなら、さっさと振ってやってくれませんか。そうすれば、あいつだって諦めがつきます。だいたい選択肢なんて、イエスかノーかのどちらかしかないんだから、答えるのなんか簡単でしょ。俺は、あいつが泣く顔なんて見たくないんです」


補佐は声を絞り出した。


「彼女のことをなんとも思ってないわけじゃないし、俺だって本当はそんな顔をさせたいわけじゃない」


「俺だったら、岡野を泣かせたりしませんよ。だから、最初の話に戻りますけど――」


宍戸は補佐の顔を見据えた。


「岡野は俺がもらいます」


「もうやめて」


私は隠れていたキャビネットの影から飛び出した。それ以上、二人の様子を静観し続けることができなかった。


「岡野さん、君……」


「お前、いたのか……」


二人はほぼ同時に動揺する声を発した。


私は両手を握りしめながら宍戸の前につかつかと歩み寄り、感情を抑えた低い声で言った。


「やめて。補佐を責めるようなことを言わないで」


宍戸は眉を微かに寄せて微笑んだ。


「責めていたわけじゃない。ただ、はっきりさせたかったんだよ」


宍戸の微妙な表情に気づかなかった私は、強い口調で続けた。


「宍戸にはもう答えたはずでしょ。だからもう、宍戸には関係ないことよ」


そう言った次の瞬間、私の唇は宍戸に塞がれた。


「っ……」


私が宍戸の胸を押しのけると同時に、補佐の腕が私の体を包み込んだ。


「やめろ」


怒りをにじませた補佐の声を聞きながら、記憶に残っている彼の腕の感触と彼の匂いに私は体を強張らせた。


「補佐、岡野のことがそんなに大事なら、しっかりと捕まえておかなきゃだめですよ。岡野は隙だらけな上に、呆れるほど自覚ってもんがないんですから。油断してると、俺みたいなやつがまた現れる可能性だってあるんですから」


宍戸は手の甲で自分の唇を拭いながら補佐を見た。


「仕方ないし不本意ですけど、岡野のことは補佐に任せますよ。だけどまた泣かせるようなことがあったら、その時はしっかりと邪魔させてもらいますんで、そのつもりでいてくださいね」


それから宍戸は私に優しい目を向けた。


「今度こそしっかり捕まえるんだぞ」


「宍戸……」


「それじゃ、俺は先に戻りますので。ほどほどにごゆっくり。岡野、キス、ごめんな」


宍戸は詫びるようなひと言を私に投げかけると、資料のファイルを抱えて私たちの前から立ち去った。


宍戸の気配が遠ざかっていく。資料室の扉を閉める音が聞こえた後の資料室には、静けさが戻った。


「今のはわざと……?」


まるで狐につままれたような思いでつぶやいたが、すぐさまはっとする。自分が今、補佐の腕の中にいることを思い出したのだ。私はうつむき、補佐から離れようとした。


私の体は補佐の腕に引き留められた。そのままキャビネットとキャビネットの間に引きずり込まれる。


補佐は何も言わずに、静かに私を抱きしめた。


彼の胸の中で私の鼓動は大きく跳ねあがり、息が苦しくなる。


「補佐、腕を、離して下さい……」


絞り出した私のその言葉を遮って、補佐は小声で言った。


「慎也から話を聞いたんだよね」


「はい」


私は小さな声で返事をした後に、ためらいがちに続けた。


「……どうして離婚されたのか、話して下さいました」


補佐の親友の口から聞いた離婚の理由。それを聞いた時、私は嫌悪感を抱いた。親友を傷つけられたことを許せないと思う、築山さんの気持ちが理解できた。


当時結婚して間もない頃の補佐は仕事が忙しく、結婚と同時に家庭に入った元妻は、一緒の時間を過ごせなかったことが寂しかったらしい。あるいは。自分は大事にされていないと思ったのか……。それを理由に不倫をした上に、いつか二人の家を建てたいと彼が貯めていたお金を勝手に持って出ていった。挙げ句、不倫相手とだめになったからといって、悪びれもせず補佐の元に戻ってこようとしたという。築山さんの話を聞いた時、補佐の方がむしろ被害者みたいなものじゃないかと、少なくとも私にはそう思えた。


「ごめんね。岡野さんが思っていたようなやつじゃなくて……」


そう言って、補佐は目を逸らした。


「幻滅させたんじゃないかな」


「幻滅だなんて……」


その話のどこが、補佐に幻滅するような内容だというのだろう。私はそれを否定したくて補佐を見上げたが、彼は私から表情を隠すように顔を背けた。私はその横顔に向かって、ずっと伝えたいと思っていた言葉を投げかけた。


「私の気持ちは変わっていませんから」


補佐の腕がぴくりと動き、私の言葉に反応したのが分かった。


「こんなに好きになって、一緒にいたいと思った人は、補佐が初めてなんです」


彼はおそるおそるといった様子で顔を戻し、まぶしそうな目をして私を見返した。


「……本当に?」


「どうすれば信じてもらえますか?どう言えば伝わりますか?」


私は言葉を選びながらゆっくりと話す。


「はじめは手の届かない人だと思っていました。補佐はいつだって完璧で、冷静で、ミスのない仕事ぶりで、社長からも一目置かれている、いつかは経営陣に加わるはずの、そんな存在ですから。だけど」


私は自分の顔を隠すように補佐の胸に頬を寄せた。


「私が惹かれたのは、そういう部分だけじゃない。仕事を離れた時に見せてくれた普段着の姿、時には悪戯っぽく笑う表情、他にも色々です。そして、完璧じゃない補佐のことも全部まとめて好きなんです」


「……ありがとう」


補佐は私の髪に顎を埋めた。


「岡野さんの気持ちを信じられないわけじゃないんだ。離婚歴があって、不甲斐ない自分に、俺自身が自信を持てないだけ。でも、さっき宍戸の話を聞いた時に」


私を抱く補佐の腕に力が入った。


「君をとられたくないと思った。宍戸だけじゃない、他の誰からもだ」


頭の上で響く彼の低い声に鼓動がどきどきと打ち出す。私は顔を上げて彼の視線を捕らえ、その目をじっと見つめた。


補佐もまた私を見つめ返す。少しだけ照れたような目をして、ゆっくりと、しかしはっきりと言った。


「岡野さんが、好きだよ」


「本当、ですか…?」


私は補佐の瞳を覗き込んだ。


今度は彼も目を逸らさなかった。


彼の瞳の真ん中には、私の姿が確かに映っていた。胸の内に、喜びがじわじわと広がり出す。


「本当だよ。俺の傍にいてほしいと思っている。だけど、その言葉はまだ言えない」


「どうして?」


不安な気持ちを顔に出す私に、補佐は苦さを含んだ笑みを向けた。


「まずは、けじめをつけさせてほしいんだ」


「けじめ?」


訊き返す私に補佐は頷く。


「自分からも、当時のことを話しておきたい」


「それはもう……」


「慎也から聞いたよね。でもやっぱり、好きになった人にはきちんと自分で話すべきだったと、今さらだけど後悔しているんだ。こんな話をまた聞かされたくはないとは思う。だけど、俺の禊だと思って付き合ってもらえないだろうか」


私はもう十分だと思っていたけれど、補佐にとっては前進するために必要なことなのかもしれない。そう思い、こくりと頷く。


「分かりました」


補佐はほっとした様子を見せた。


「今夜、予定はある?」


「いえ、特にありません」


「じゃあ、慎也の店で待っていてほしい。俺は少し遅れると思うけど、慎也には連絡を入れておくから」


「はい」


「ごめんね。岡野さんの優しさに甘えている自覚はあるんだ」


そう言って補佐は、私の体に回していた腕を解いた。


「後で、会おう」


「はい」





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