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みなみは息をひそめて二人の会話を聞いていた。しかしそれ以上静観し続けることは難しく、隠れていたキャビネットの影からついに飛び出した。張り詰めた空気の中、二人の間に割って入る。
「お願いだからもうやめて」
二人はそれぞれに驚愕の目をみなみに向ける。
「岡野さん、君……」
「お前、いたのか……」
みなみは宍戸の前につかつかと歩み寄り、きっとした目で彼を見上げた。
「補佐を責めるようなことを言わないで」
宍戸は眉根を寄せて悲しそうに微笑む。
「責めていたわけじゃないよ。ただ、はっきりさせたかっただけだ」
「宍戸には関係ないことでしょ」
「関係なくはないんだよ」
ぼそりと言ったかと思うと、宍戸はいきなりみなみの唇を塞いだ。
「っ……!」
みなみは宍戸の胸を押しのけた。
それと同時に、宍戸から引き離すように山中の腕がみなみの体を背後から包み込んだ。
背中に感じる温もりと覚えのある匂いにみなみの鼓動は高鳴り、全身が強張る。
怒りを滲ませた山中の声が聞こえる。
「やめろ」
しかし宍戸は全く動じていない。ふっと鼻で嗤い、肩をすくめる。
「そんなに岡野が大事なら、目を離しちゃだめですよ。岡野は隙だらけで自覚ってものが全くないんだ。俺みたいなやつが、いつまた現れるか分かりませんよ」
宍戸は山中に忌々し気な目を向ける。
「まったくもって不本意ですけど、岡野のことは補佐に任せますよ。だけど、また泣かせるようなことがあったら、その時はしっかりと邪魔させてもらいますから、そのつもりでいてくださいね」
宍戸はみなみに優しい目を向ける。それは今までの中で、おそらく一番だと感じられる眼差しだった。
「岡野。今度こそしっかり捕まえておけよ。……それじゃ、俺は先に戻ります。二人はほどほどにごゆっくり」
宍戸は資料を抱え直し、みなみと山中の傍を通り抜けていく。ドアの手前でふと足を止めて振り返る。
「岡野、キスしてごめんな」
宍戸は詫びの言葉をみなみに告げ、足を速めて資料室を出て行った。
静けさが戻ってきた中、みなみははっとする。まだ山中の腕が体に回されている。
「あ、あの、腕を……」
「ご、ごめん」
山中は気まずそうにみなみから離れた。
二人きりの今が彼に改めて答えを求めるチャンスだと思い、みなみはおずおずと彼の方に向き直る。顔を上げたそこに自分を見下ろす山中の目があって、どきりとする。どう切り出そうか考える前にみなみの口が動く。
「答えは……」
「出ましたか」と続けようとしたみなみの手を、山中の手がつかんだ。そのまま彼はみなみをキャビネットの奥へと引っ張って行く。
彼の後に着いて行きながら、みなみは戸惑っていた。
「補佐?」
壁際で足を止めた彼は体の向きを変えて、迷うようなゆっくりとした動きでみなみを抱き締めた。
みなみの鼓動が大きく跳ね上がった。
彼の声が頭の上で響く。
「慎也から話を聞いたんだよね」
「は、はい……」
そのことと今のこの状況との間にいったい何の関係があるのかと、みなみは困惑しながら小声で答える。
「離婚の理由を教えていただきました」
当時結婚して間もない頃の山中は、仕事が忙しかった。結婚と同時に家庭に入った元妻は、そんな夫と一緒の時間を過ごせなかったことが寂しかったらしく、次第に自分は大切にされていないとまで思うようになったらしい。彼女はそれを理由に不倫をした。その上、いつか二人の家を建てたいと彼が貯めていたお金を勝手に引き出し、家を出ていった。挙げ句、不倫相手とだめになったからといって、山中の元へ再び戻ってこようとしたという。
築山の話を聞いた時のみなみは、自分勝手な元妻に嫌悪感を抱いた。むしろ山中の方が被害者だったのではないかと思った。だからこそ、元妻に店で出くわした時の彼の態度に納得がいった。
「ごめんね。岡野さんが思っていたようなやつじゃなくて。幻滅したでしょ」
「幻滅だなんて……」
その話のどこに、彼に幻滅する部分があったというのか。そんなことは思っていないこと、そしてずっと伝えたいと思っていた言葉を告げるために、みなみは顔を上げて彼の目を覗き込んだ。
「話を聞いた後も、私の気持ちは全く変わりません」
みなみの言葉に反応して、山中の腕がぴくりと動く。
「こんなに好きで、一緒にいたいと思った人は、補佐が初めてなんです」
「……本当に?」
彼は眩し気に目を細めてみなみの目を見返した。
「本当です。信じてもらえませんか?」
みなみは言葉を選びながらゆっくりと話す。
「最初は私なんかには手の届かない人だと思っていました。だって、補佐はいつだって完璧で、冷静で、社長からも一目置かれている、いつかきっと経営陣に加わることになるはずの人から。だけど私が惹かれたのは、そういう部分じゃありません。あ、いえ、そういう所ももちろん素敵なんですけど、普段の素の姿、悪戯っぽい目をして笑う顔、優しい声、他にも色々です。補佐という人全部まとめて好きなんです」
「ありがとう」
山中はみなみの髪に顎を埋める。
「岡野さんの気持ちを信じられないわけじゃないんだ。離婚歴があって、不甲斐ない自分に、俺自身が自信を持てないだけ。だけどさっき宍戸の話を聞いた時」
みなみの背に回した山中の腕に力が入る。
「君をとられたくないと思った。宍戸だけじゃない、他の誰からもだ」
みなみは彼をじっと見つめた。その先にある言葉を聞き漏らすまいと、呼吸にさえ気を使う。
山中はみなみを見つめ返し、照れたように微笑んだ。ゆっくりと、しかしはっきりとその言葉を口にする。
「俺も、岡野さんが好きだよ」
「本当に……?」
そこに嘘や迷いが隠れてはいないか確かめるように、みなみは山中の双眸を覗き込んだ。
みなみの姿を映す彼の瞳は揺るぎなかった。
みなみの胸の中に、じわじわと喜びが大きく広がり出す。
「君に、俺の傍にいてほしいと思っている。だけどその言葉を言う前に、まずはけじめをつけさせてほしいんだ」
「けじめ、ですか?」
怪訝な顔をするみなみに山中は頷く。
「自分からも、当時のことを話しておきたい」
「それはもう聞きましたし……」
「だけど、慎也の口からだよね。やっぱり好きな人には自分の言葉で話すべきだったと、今さらだけど後悔しているんだ。こんな話、何度も聞きたくなんかないと思うけど、俺の禊だと思って付き合ってもらえないだろうか」
そうすることで彼が前に進むことができるのならと、みなみは頷く。
「分かりました」
山中はほっとした顔をして訊ねる。
「今夜の予定は何か入ってる?」
「いえ、特には何も」
「それじゃあ、仕事が終わったら慎也の店で待っていてほしい。俺は少し遅れると思うけど、慎也には連絡を入れておくから」
「はい」
「ごめんね。岡野さんの優しさに甘えている自覚はあるんだ」
山中はすまなさそうに言い、名残惜しそうにみなみの体から腕を解いた。