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五年前、2020年のことだ。ジョグジャの大学で林学を学んでいた ナズリル は、卒業を控えたその年に大きな決断をした。学問の道を終えた直後、彼は 大学の講義室でもよく見かけた ハルナ と結婚した。ハルナ はオオサカ出身で、穏やかで芯のある性格だった。二人は文化も宗教観も違っていた。ナズリル はケジャワン的な価値観を大切にする人間で、自然や祖先への儀礼を重んじる。一方、ハルナ は神道の家で育ち、祭礼や清めの習慣を生活のなかに自然と取り入れている。しかし、互いの違いを尊重し、信頼でつなぐことができると決めていた。そうやって二人は、学問と出会いと愛を経て新しい家庭を築いた。
最初の三年はジョグジャで落ち着いた生活を送った。だが時間は流れ、やがて長男 レザ が生まれる。レザ の誕生は二人にとって祝福以外の何物でもなかったが、育児の現実は優しくも厳しかった。ハルナ はいつもレザ のそばにいて、夜中も歌を歌ってあやしていた。ナズリル は外での仕事や地元コミュニティとの付き合いに追われ、家庭での時間は思ったより少なかった。しかし二人は互いを支え、少しずつ父親と母親としての役割を見つけていった。
月日は過ぎ、2025年――家族はジョグジャを離れ、オオサカへ移住する決断を下す。ナズリル の仕事に転機が訪れたのだ。日本の林業関係の省庁での昇進が決まり、赴任先は地方の村だった。具体的な場所は、〒620-0201 キョウト フクチヤマシ アマザ 1区1814、という山間の集落だと告げられた。呼吸が変わるような、静かで少し閉ざされた土地らしい。ナズリル は家族にその話をしたとき、交渉ではなく決定だと言い放った。「これは交渉じゃない。命令だ」と。その言い回しは厳しく、レザ にとっては冷たく響いた。
レザ は当時小学校一年生で、日本語がまだ完全ではなかった。新しい環境で友達を作る自信がなく、クラスでの存在感も薄かった。旅立ちを告げられたとき、心の中には不安と孤独が募っていた。ハルナ はそんな息子を守ろうと必死だった。彼女は夜、レザ の前で笑顔を作り、積極的に地域の親子サークルや学校のボランティアに参加する計画を立てた。レザ に友達を作らせたい――それが彼女の毎日の目標になった。だが、ナズリル が仕事に追われる日々は変わらなかった。会話の時間、読み聞かせの時間、ただ一緒にいる時間がどんどん減っていくのを、ハルナ は静かに心配していた。
週が流れるごとに、レザ の孤独は深まった。学校での小さな失敗や言葉の壁は、彼の内向を強めていく。ハルナ はある日、台所でため息をつくレザ を見つけて抱きしめた。レザ は母親にすら疑念を抱く瞬間があった――母は本当に自分の味方なのか、と。だがハルナ は諦めない。彼女はレザ を励まし続け、毎晩新しい遊びや歌、地元の昔話を教えて、少しでも心を軽くしようと努力した。小さな成功体験を積ませるために、彼女は近所の子どもたちを家に招いたり、公園で遊ぶ時間を作ったりした。レザ は少しずつ表情を取り戻していく場面もあったが、心の底に残る不安は消えなかった。
その一方で、ナズリル の昇進と転勤は家族にとって現実的な好機でもあった。彼は家族のためにより良い生活を約束し、努力する意志を示した。ハルナ はその約束を信じたかったし、レザ にも安心感を与えたかった。議論の末、ナズリル は「もっと優しくする」と口にした。その言葉は短いが、重みがあった。家族三人は引っ越しの準備を始めた。荷造りの合間、夕飯を囲む時間、古い写真を見返す時間――ちょっとした瞬間が、引越し前の静かな儀式のように感じられた。
パート1の終わりは、家族が新しい生活に向けて家を整える場面で幕を閉じる。荷物をまとめ、家具を拭き、思い出の品を箱に詰める。まだホラーは顔を出さない。ただ、心の奥に残る不安と期待、そして互いに寄せる信頼のようなものが、静かに混ざり合っている――それが彼らの現在だった。
オオサカを出発したのは昼前だった。澄んだ青空の下、ナズリル、ハルナ、そしてレザの三人は、荷物を積み込んだレンタルの小さなピックアップトラックに乗り込んだ。長い準備と別れの挨拶を終え、ようやく家族そろって同じ座席に並ぶことができた。レザは助手席で揺れながら、小さく笑っていた。最近の彼には珍しく、頬は明るく紅潮している。ナズリルはハンドルを握りながら、珍しく軽口をたたき、ハルナはそれに柔らかく笑って応じていた。
高速道路に入ると、景色は都会のビル群から、遠くに薄く霞む山々や田畑へと変わっていった。レザは窓に顔を近づけて、「あれ、雲が山にくっついてるみたいだね」と無邪気に言う。ナズリルは「本当だな、まるで山が空を吸っているみたいだ」と笑い、ハルナはおにぎりの包みを渡しながら「食べないとすぐお腹すくよ」と声をかけた。ピックアップの車内には、ふだん忘れかけていた家族の温かさが満ちていた。四時間の旅路は、彼らにとって短く感じられるほど穏やかで幸せな時間だった。
午後が深まり、太陽が傾き始める頃、フクチヤマの市街地が見えてきた。山と川に囲まれたその土地は、どこか懐かしくも、知らない匂いを含んでいる。だが、目的地のアマザまではまだ少し距離があった。そのとき――ピックアップが突然、鈍い音とともに揺れ、道路脇に停車せざるを得なくなった。タイヤがパンクしていた。ナズリルはすぐに携帯電話でロードサービスに連絡を取り、修理の手配をした。夕陽は赤みを帯び、影を長く伸ばし始めていた。
ハルナとレザは車外に出て、少し離れた草むらのそばに立っていた。涼しい風が吹き、虫の声が耳に染みる。レザは「もうすぐ着くよね?」と不安そうに尋ね、ハルナは「大丈夫、すぐ直るよ」と微笑み返した。しばらくして、白い作業車が砂利道を鳴らして近づいてきた。トリヤマとキシモト、と名乗る二人の整備士が降りてきて、ナズリルと短い挨拶を交わす。どちらも無口で、表情は読みにくかったが、手際よくタイヤの状態を確認し始めた。
太陽は地平線に沈む直前だった。空は薄紫に染まり、山の輪郭だけが黒く浮かび上がっていた。レザはふと、視線を道路の先へ向けた。アマザの方向と思われる山道は、夕闇と霧のような霞に包まれており、まるでゆっくりと口を開ける獣のように見えた。「あそこ…なんだか暗いね」と呟くと、ハルナは一瞬だけ返事を迷い、それでも笑顔を作って「きっと森だからよ」と肩を抱いた。
その瞬間、空気がひやりと冷えたような気がした。風は止まり、虫の声もふっと途切れた。遠くでカラスの声が一度だけ鳴り、すぐに静寂が戻る。トリヤマとキシモトは黙ったまま作業を続けていたが、ハルナは彼らの背中越しに、どこか視線を感じて振り返った。しかし、そこには誰もいない。ただ、薄暗くなった道と、沈みゆく太陽の光だけがあった。
――何かが始まろうとしている。そう感じたのは、その時が最初だった。
ナズリルは、トリヤマとキシモトと共に車の故障を直す作業に集中していた。空はすでに薄暗くなり、森の影が地面に伸びていく。風が吹くたびに木々がざわめき、どこからともなく湿った土と枯れ葉の匂いが漂ってくる。人の気配などまったくないはずなのに、まるで誰かに見られているような感覚だけが、じわりと背中を冷やしていった。
「……なあ、ここ、本当にただの山道なんだよな?」とナズリルが冗談めかして聞く。
トリヤマはスパナを握ったまま、苦笑しながらも目だけが笑っていない。
「そうだといいんだけどな。昔から地元の人は、夜になるとこの森を避けるらしい。」
キシモトも工具を置き、小さくため息をついた。
「ここには“何か”がいるって、よく言われてる。姿は見えなくても、音とか影とか……説明できないものばかりだ。」
ナズリルは興味深そうに眉を上げた。「じゃあ、その“何か”ってのは、どんなヤツなんだ?」
二人は一瞬だけ目を合わせ、キシモトが静かに名を呟いた。
「酒呑童子(しゅてんどうじ)」。
そこから、空気はさらに重くなった。キシモトは語り始める——酒呑童子は平安時代、大江山を根城とした最強の鬼。血と肉を好み、京の都から若い娘、とくに貴族の姫をさらい、宴のたびに酒と共に喰らったと。荒れ狂う鬼の噂は都にまで届き、帝はついに源頼光と四天王を呼び、討伐を命じた。
トリヤマが言葉を引き継ぐ。
「頼光たちは山伏に化けて鬼の屋敷に入り、神々から託された毒酒を渡した。酒呑童子はそれを飲み干し、酔いつぶれた。そこで首を落としたんだ。」
「でもな……」とキシモトは声を潜める。
「切り離されたはずの首が、まだ生きてた。頼光に噛みつこうとしたって話だ。そしてその首は呪いを恐れた人々によって、京都の寺に封じられた……。」
ナズリルはじっと話を聞いていたが、なぜか心は静かだった。「怖い話だけど、伝説だろ? 本当にいるわけじゃ——」
だが、その会話を少し離れた場所で、ハルナとレザが黙って聞いていた。ハルナの胸騒ぎは止まらなかった。ずっと前から、何かこの森は“おかしい”と感じていたのだ。
その時——
ひゅうう……ざわ……ざわ……
風の音に混じって、かすかな声が聞こえた。歌のような、呟きのような、人とも風ともつかない、不気味な音。
「ねえ、今の聞こえた?」
レザが震える声で言う。ハルナは唇をかみ、森の奥を指差した。
闇の向こう、木の枝の上。そこには——
漆黒の影。真っ赤な目が二つ、ぼんやりと光っている。
それは人でも動物でもない。形は曖昧だが、確実にこちらを見ている。笑っているようにも、怒っているようにも見える。ただ、ぞっとするほど“生”を感じさせない。
「な、なにあれ……!」
ハルナとレザは叫び、全力でナズリルたちの元へ走った。
「森の中に、目が、赤い何かがいた!」
しかしナズリルが振り返っても、そこにはただ暗闇が広がるばかりだった。風が吹き抜ける音だけが残り、影も赤い目も、もう見えない。
だが、トリヤマとキシモトの顔は青ざめていた。
「見えないだけで、確かに“何か”はいる。間違いない。」
「……もう、始まってしまったんだ。」
エンジンがようやくかかり、車がゆっくりと動き出す。トリヤマとキシモトは別の道へ向かい、夜の闇へと消えていった。月も雲に隠れ、道路は街灯もなく、不気味なほど静か。
その頃、森の奥。木々の間で、あの黒い影が再び動き出していた。地面を滑るように、音もなく。
まるで獲物を狩るように、彼らの車を追いかけて——。
フクチヤマ市アマザ1区1814。ナズリルたち家族が車から降り立ったのは、天頂に近づく満月が薄い雲に覆われ、ぼんやりと光を放つ夜だった。遠くに広がる山の稜線は闇に溶け、その下に静かに佇む古びた木造の家。ここがこれからの住処——そう思うだけで、ハルナとレザの胸はざわついていた。明日は満月、しかもナズリルの信じるジャワの信仰では「ジュマ・クリウォン」の前夜。禍が訪れる夜、と祖母がよく語っていた日だ。
しかしナズリルだけは違った。不気味な空気よりも、「まさか泥棒とか野生動物が入り込んでないだろうな……」と、現実的な心配だけをしていた。彼は車の荷台から懐中電灯を取り出し、家の周囲を確認し始めた。ハルナとレザも不安げに後を追う。
「ナズリル、気をつけて……森、なんだか変な音がする」
「大丈夫さ。ただの風だよ。幽霊なんて居やしない」
家の外壁はところどころ塗装が剥がれ、木の柱は黒ずんでいる。懐中電灯の光があたるたび、影が大きく揺れ、まるで動いているように見えた。足元では、落ち葉がぱり、と乾いた音を立て、ブナの枝が夜風に鳴っている。
ときおり、ギィ……ギシ…… と木材の軋む音。
カサ……サラサラ…… と草むらが揺れる。
ハルナとレザの心臓は、そのたびに跳ね上がる。
レザが不安そうに言う。「お母さん、あれって誰か歩いてる音じゃない?」
ハルナが小声で返す。「……もし人ならいいけど、違ったら……。」
だが、茂みから飛び出してきたのは、ただのバジン(リス)だった。尻尾をふくらませ、チチチ、と鳴きながら木の上へ駆け上がっていく。
「ほら、幽霊じゃなくてリスだよ」
ナズリルは苦笑しつつも、警戒を解かず裏手へ進んだ。
裏庭には古びた井戸があり、その周囲には誰かが最近まで使っていたような足跡が残っていた。風が冷たく首筋に触れ、月光が井戸の底に吸い込まれていくようだった。
その時、ハルナとレザの声がしなかったことに、ナズリルはようやく気づいた。振り返っても2人の姿はどこにもない。
「……おい、どこ行ったんだ?」
声をかけても返事はなく、ただ森から**ひゅう……ざわ……ざわ……**と不気味な風の音が聞こえるだけだった。
懐中電灯を握る手が汗ばむ。心臓が妙に速い。
「まさか、またあの影が……」
そう考えた瞬間、背後で——
ガサッ!
「うわっ——!」ナズリルが振り向くと、そこには真っ暗な影が二つ。
しかし飛び込んできたのはオバケではなかった。
「きゃああっ!」
「お父さんのせいで見失ったじゃない!」
ハルナとレザだった。
3人は互いに驚きあい、しばらく沈黙した後、ナズリルがぽつりと「……心臓、ひとつ無駄になったじゃないか」と呟くと、ハルナは怒り半分・呆れ半分で笑う。
「それ、私たちのセリフでしょ。」
レザも小さく笑うが、その目はまだ怯えていた。
少しずつ緊張が緩み、また正面玄関へ戻ろうとした時だった。
ブロロロロ……
遠くから、古びたエンジン音を響かせながら、一台の車が砂利道を進んでくる。月明かりに照らされたその車は、昭和の時代を思わせるような古いワゴン車。ゆっくりと家の前に停まり、降りてきたのは中年の男女だった。
「こんばんは。迷惑じゃなければ、少し話をさせてもらっても?」
男が名乗る。「アラキと言います」
隣の女性が微笑む。「私はムラヤマ。近くの集落の者です」
ハルナは安堵しながらも、どこか不安な目で尋ねた。
「どうしてこんな夜に……?」
アラキは空を見上げ、低く答えた。
「この土地に来た人には、伝えなければならないことがある。特に——今の夜みたいな時には。」
満月前夜。山の風が止まり、虫の声すら消えていく。
彼らの言葉に、ナズリルは眉をひそめ、ハルナとレザは思わず手を握り合った。
それが、この土地で始まる長い恐怖と絆の始まりだとは、まだ誰も知らなかった。
アラキとムラヤマは、夜の冷えた空気の中、ゆっくりと古いワゴン車から降り立った。アラキは落ち着いた声で自己紹介を始める。「私はアラキ・タケヒコ。こちらは妻のムラヤマ・ユミです。今日からこの地域で、ナズリルさんの林業の仕事をサポートするよう任されました。もし生活のことで困ったら、遠慮なく頼ってください。」
ムラヤマはやわらかな笑みを浮かべ、ハルナとレザに向かって、ふわりと頭を下げた。「山の生活は慣れるまで大変ですから、一緒に頑張りましょうね。」その声には不思議な安心感があり、緊張で固まっていたレザの表情も、少しだけ和らいだ。
しかし、挨拶のあとふと沈黙が落ちた。アラキが古い家の外壁をじっと見つめている。むき出しの木材、黒く染みた軒下、そして家の裏に続く暗い森。彼の目は、小さく光る何かを捕らえたように細められていた。「……この家、少し気をつけた方がいいかもしれません。」
ナズリルは苦笑する。「まさか、幽霊が出るとか言うんじゃないでしょうね。僕は泥棒やイタチの方が心配です。」
アラキは首を振る。「ええ、幽霊と言い切るつもりはありません。ただ、昔から妙な噂があって……この辺り、“見られている”と感じる人が多いんです。」
その言葉に、ハルナとレザの背筋が震えた。レザは黙ったまま空を見上げる。雲の切れ目から満月が覗き、白い光が森の影を浮き上がらせていた。レザはぽつりと呟く。「……明日、ジュマ・クリウォン、だよね。」
ハルナはゆっくりと息を吸い込む。ナズリルの信じるジャワの古い暦では、不吉とされる夜。そんな日に山へ仕事に行くという父。
「ナズリル、本当に明日の夜、森へ行くの?」
ナズリルは懐中電灯を肩に担ぎながら笑った。「任務だからね。怖がってちゃ、木も倒せないさ。」
その一言に、アラキは苦笑しつつも、どこか心配げな目を向けた。「勇気があるのはいいことですが……山の夜は、人を変えることもあります。」
ムラヤマがすかさず柔らかく話題を変える。「とりあえず荷物を運びましょう。怖い話は、温かいお茶を飲みながらでもできますから。」
五人は車から荷物を下ろし、古い家の玄関へと運び始めた。床板はギシ、ギシ、と軋み、懐中電灯の光がほこりを照らす。ときどき、家の奥から コト……コトン…… と水滴のような音が聞こえるが、誰も何も言わなかった。
荷物を持つ途中、レザがぴたりと足を止めた。「ねぇ、今……誰か、廊下を歩かなかった?」
聞こえたのは、確かにゆっくりと床を踏むような音。しかしナズリルは笑って肩を竦めた。「風で家が軋んでるだけさ。泥棒だったら、もう殴ってる。」
「幽霊だったら?」とレザが小声で返す。
「そしたら、お祓いより握手を試すよ。」とナズリルが冗談めかして言い、思わずアラキとムラヤマも小さく笑った。
だが、その和らいだ空気の裏で、ハルナの視線は家の天井裏から離れなかった。そこには、何者かの影が動いたように見えたのだ。
外の森からは、今夜もあの ひゅう……ざわ…… と風の歌のような音が聞こえてくる。アラキは小さな声で呟いた。「やはり、この家……誰かに見られている。」
ナズリルは肩越しに振り返り、ため息をつく。「見てるのは風と鹿だけですよ。」
しかし誰も気づいていなかった。家の暗がり、二階の窓の奥で——真っ赤な二つの光が、じっと彼らの動きを追っていることに。
翌日、空が薄朱色に染まり始める頃、ナズリルはアラキとムラヤマと共に北の山林へ向けて出発した。風は乾いて冷たく、静けさの中に木々の軋む音だけが響く。アラキとムラヤマは「二十二時半には一度戻る」と告げ、ナズリルはその後も一時半まで山を巡回する予定だった。ジュマット・クリウォン――イスラムの不吉な夜と、神道の月夜が重なるこの日を、彼は迷信だと笑っていたが、ハルナとレザの胸には言いようのない不安が渦巻いていた。
その不安の裏には、ハルナが密かに抱える“もう一つの真実”があった。昨日、彼女とレザはオオサカに立ち寄った際、病院を訪れていたのだ。医師から告げられたのは――レザにもうすぐ妹が生まれるという知らせ。もし生まれたら「ミナミ」と名付ける。それは南の海岸線を旅することを好む、ナズリルとハルナの思いに由来していた。レザの瞳は喜びに輝き、「やっと、遊べる仲間ができる」と微笑んだ。
やがて夜の帳が落ちると、アラキとムラヤマだけが先に家へ戻ってきた。玄関先で二人はいつになく真剣な表情で、ハルナとレザへ小声で告げた。「今夜は満月に近い。しかもジュマット・クリウォンだ。どんな音がしても、決して外を覗かないこと。」その声は淡々としていたが、その奥には確かな警告の冷たさがあった。レザは胸騒ぎを抑えながら頷き、ハルナも静かに戸を閉めた。
屋内にはランタンの淡い灯りが揺れ、窓の外では虫の声すら消えていく。空には丸い月が昇り始め、白い光が森と古い屋敷の影を際立たせる。三人は早めに寝支度を整え、余計な好奇心を抱かぬよう互いに目を合わせることもなく布団へ潜り込んだ。しかし、その静寂の底では、まだ誰も気づいていない“何か”が、ゆっくりと息をひそめて動き始めていた。
ナズリルはひとり、愛用の狙撃銃と懐中電灯、それに小さな食料袋だけを頼りに、真夜中の森を歩き続けていた。時刻はすでに午前零時を回り、一時半まで巡回を続ける予定である。町から離れたこの山林は人の気配がまったくなく、バイクを置いた地点からすでに五キロ以上も奥へ進んでいた。彼の表情は冷静そのものだったが、胸の奥ではわずかな鼓動の速さが、自分でも気づかぬ恐れを物語っていた。
風が止まり、森全体が息を潜めたように静まり返る。そのとき――黒い影が木々の間をすうっと横切った。ナズリルは反射的に銃を構え、影を追って走り出す。しかし追い詰めたと思った瞬間、影はまるで霧のように消え失せた。足元の落ち葉がふるりと揺れるだけで、そこには何もいない。「…獣か? それとも人間の泥棒か?」そう呟きながらも、背筋に冷たい汗が伝う。だが彼は強引に恐怖を押し殺し、「俺がビビってどうする」と自分に言い聞かせた。
突然、背後からガサガサッと大きな音が鳴り、ナズリルは驚いて振り返った。銃を構えた彼の視線の先にいたのは――巨大な山猿だった。猿はむき出しの歯を見せ、「キィィッ!」と威嚇しながら、ナズリルのリュックに手を伸ばす。「おい、俺の夕飯返せって!」思わず声を上げると、猿の仲間が数匹現れ、食料袋を引っ張り合う騒ぎに発展。最初の緊張感はどこへやら、森の中には妙に間の抜けた攻防戦が広がった。「ちょ、バナナはやるから弾薬は触んな!」と必死に説得するナズリルに、猿たちは勝手に干し肉をむしゃむしゃ食べ始める。
だが、笑い混じりの空気が漂ったのはほんの一瞬だった。猿たちが急に黙り込み、一斉にある方向を見つめたのだ。ナズリルもつられてそちらを見る。月光の射す茂みの向こう――そこに、またあの黒い影が静かに立っていた。赤くはないが、闇よりも濃い何かがじっとこちらを見つめている。瞬きをした隙に、それは音もなく消え、ただ冷たい風だけがそっと頬を撫でた。満月とジュマット・クリウォンの夜、森の奥ではすでに“何か”が目を覚ましていた。
真夜中、時計の針がちょうど午前零時を指したころ、レザは突然目を覚ました。家の静寂を裂くように、「ガチャ…ガチャン」という金属の錠前を揺らす音が、窓の向こうから微かに響いてくる。眠い目をこすりながらカーテンをそっと開けたが、外には誰の姿も見えない。ただ、音の方向は玄関ではなく、隣にある小さな物置小屋からだと気づいた瞬間、背中に冷たい汗が伝った。レザはすぐにハルナを揺さぶって起こす。「おかあさん、あそこで変な音がする…ほんとだってば…!」
ハルナは妊娠の影響で体が重く、最初は「あとで…」とつぶやいたが、ギィィン…と錠前の音がさらに大きく響くと、眠気よりも不安が勝った。「わかった、一緒に見に行こう。でも絶対に私の後ろから離れないで。」そう言って懐中電灯を手に取り、レザと共にそっと玄関を開けた。夜風は冷たく、満月の光が庭の砂利を青白く照らしている。レザはハルナの背中にぴったりくっつきながら、小屋へと近づいた。だが、あと数歩というところで――音はぴたりと止んだ。
ハルナは息を呑み、懐中電灯を小屋の扉へ向ける。光の輪の中には、錆びた南京錠と木製の扉だけが静かに佇み、動くものは何ひとつない。ふたりが不安そうに後ずさったその瞬間――「おい!そこにいるのは誰だ!」突然、闇の後ろから大声が響き、レザは飛び上がり悲鳴をこらえた。振り返ると、そこにはアラキが懐中電灯とスコップを持って立っていた。「ハルナさん!? てっきり泥棒かと思って…心臓止まるかと思ったぞ!」とアラキが文句を言い、ハルナも怒りと安堵が混じった声で、「脅かさないでくださいよ…。でも、本当に誰もいないんですか?」と尋ねた。
そのとき、不意に家の二階の窓がガラリと開き、「ちょ、ちょっと!みんな外にいるの⁉」とムラヤマの声が響く。全員がまた驚き、レザは「こわっ!」と小声でつぶやいた。ムラヤマは頬を赤くし、「ご、ごめんなさい…でも今の音、聞こえたから…」と焦りながらも、ふたりに「大丈夫、たぶん風とか動物よ」と優しく伝えた。
そこへ、森から戻ってきたナズリルがバイクを止め、「え?何してるんだ、こんな時間に全員揃って…?」と眉をひそめる。ハルナは微笑んで首を振り、「何でもないの。ただの勘違いよ。寒いし、みんな中に入りましょう」と静かに言った。だが、背後の小屋の扉は、誰も触れていないのに――ほんの少しだけ、きし…と動いたように見えた。
朝焼けが山の稜線を淡く染めるころ、ナズリルは疲れを顔に残しつつも身支度を整えた。昨夜の物置の音、満月の夜の気配は彼の中で笑い飛ばせるものではなかったが、仕事は待ってくれない。今日は朝早くから山の巡回があり、アラキとムラヤマの夫妻が同行することになっていた。三人は簡単な朝食をとり、工具と地図、狙撃銃の代わりに安全装備を軽く確認して家を出た。ナズリルの表情は硬いが、どこか陽気さも混ざる。「今日こそは、変なものよりも害獣か不法投棄を見つけたいね」と彼は冗談めかして言い、アラキは苦笑で応じ、ムラヤマは背中のリュックを調整した。
一方、家にはハルナとレザが残った。ナズリルが心配そうに振り返ると、ハルナはにっこりと微笑み、「気をつけてね。お父さん」と小声で言った。レザはまだ眠たげな目で父を見送り、だが心の底では昨夜の影が消えていない。ハルナは家の備蓄を点検し、ランタンや灯油の残量を確認していると、灯油がほとんど空であることに気づいた。すぐに連絡を取り、約束したのは近所の油売り、ヨシカゲだった。
ヨシカゲは小さな三輪トラックに古い缶を積み、時間通りにやってきた。彼の顔は日に焼け、手は油と木屑の匂いが染み付いている。レザは興味津々でその三輪車を覗き込み、ヨシカゲは優しく声をかけた。「おはよう、坊や。今日は元気か?」レザは少し照れたように頷き、ヨシカゲは笑いながら灯油缶を取り出して準備を始める。
作業の合間、ヨシカゲはレザとハルナに尋ねた。「この家の人たち、変わってるね。外から見ると静かで、普通は引っ越してきたらもっと慌ただしいものなのに。」ハルナは少し困った顔をする。「ええ、ただ静かに暮らしたいだけなの。でもね、ここはちょっと…特別な場所かもしれないの。」ヨシカゲは首をかしげ、「そうか、いや、実はこの辺り、昔から人が亡くなる話が多くてね」と静かに語り始めた。
その言葉に、レザは不意に背筋を伸ばした。ヨシカゲはさらに続けた。「満月の夜や、昔の暦で不吉な日にはね、ここで奇妙なことが起きたって年寄りが言うんだ。人が急にいなくなったり、夜通し家から出られなくなったり。正直、若い人間には説明できない。だから、あんまり夜に外を覗かない方がいい。」その語り口は嫌味ではなく、どこか誠実で、聞く者の胸に冷たい何かを落とした。
その時、ナズリルが中途半端な速さで戻ってきた。道の途中で立ち止まり、汗ばんだ額を拭いながら家の前に入ってきた。「おい、ヨシカゲさん、そこで何を喋ってるんだ?」と軽く尋ねる。ヨシカゲは少し驚いた顔をし、「いや、ただ…この家は昔から色んなことがあってな」と言いかけたが、ナズリルは制するように手を振った。「やめとけ、そういう怖い話は勘弁してくれ。引っ越したばかりなんだ、子供がいるだろう。」その声には、仲間としての守りと、知られたくない人前での強がりが混ざっていた。
ハルナは戸惑いを隠せず、「ねえ、どうして戻ったの?」と問いかける。ナズリルは一瞬間を置いてから、ふっと笑い、わざと大げさにポケットをまさぐった。「ああ、忘れ物だよ。ほら、俺の大事な――箸を忘れたんだ。外で飯を食べるって時に箸がないとどうにもならないだろ?」彼は肩をすくめ、冗談めかして付け加えた。「昔からの戦法さ。強がって戻ると、家族からのポイントが上がるんだぜ。」その軽口に場は一瞬で和らぎ、ヨシカゲも苦笑いを返した。
だが、ナズリルの冗談の後でも、レザの心に芽生えた不安は消えなかった。ヨシカゲの言葉は曇りなく、古い土地の重みを帯びていた。レザはそっと灯油缶に触れながら、満月の光を見上げる。胸の奥で、昨夜見た赤い目の影と、物置を揺らした錠前の音が、二重に重なって響いている。父親の冗談や母の笑顔、アラキとムラヤマの頼もしさは確かにあったが、外から来たひとことが、彼の信じる世界に小さな亀裂を入れ始めていた。
灯油の匂いと朝の冷気が混ざり合う中、ヨシカゲは静かに言った。「気をつけな。ここは見た目より深い場所だ。」その言葉は風に乗って、レザの心に長く残った。彼は知らず知らずのうちに、自分と家族に迫るものを想像し、そしてその想像はだんだんと現実味を帯びていくのだった。
その朝、レザはいつもより少し早く目を覚ました。夜の出来事が胸の片隅に残っていたが、外はすっきりと晴れていて、朝の冷たい空気が体を目覚めさせてくれる。学校までは数キロの道のり――ちょうどいい運動になると考え、レザは一人で歩くことにした。家の庭を抜け、石畳の小道を渡り、村の細い道を抜けるたびに、彼は小さな虫の音や遠くで鳴く鳥の声に安心を覚えた。
だが、町外れの森が顔を見せるあたりまで来ると、空気が急に変わった。木々の影が濃くなり、風の流れが止まったように静かになる。最初は気のせいだと思った。だが、次の瞬間――耳元で誰かが小さく囁いたような音がしたのだ。最初は断片的で意味のない音節のように聞こえた。「……さあ、来て……」「こっち、こっち……」と、風とは違う低いささやきが、葉の間から小石でも弾くように、耳に触れる。
レザは立ち止まり、背筋がザワリとした。朝日がまだ低く、空は柔らかいオレンジ色だというのに、その囁きは次第に明瞭になり、まるで自分の名前を呼ぶかのように近づいてきた。心臓が速くなり、足が自然と小刻みに震える。周囲には誰も見えない。通学路には時折自転車の音がするだけで、人の声はないはずだった。
囁きが近づくにつれて、レザの胸の中に冷たい恐怖が広がった。だが好奇心も混じり、彼は囁きの方向――森の縁へと向かってしまう。大人なら立ち止まったり、家に戻ったりするだろう。だがレザは一人の子どもであり、昨日聞いた油売りヨシカゲの話、父と母の冗談、そして自分の心の中でうずく「妹ミナミ」への期待が、彼を前に押し出していたのかもしれない。
森の縁に立つと、茂みの向こうに――遠くの木の間に、黒い塊が見えた。形ははっきりしない。ただ、闇より濃いその存在の中央に、二つの小さな赤い光が瞬いている。目だと分かった瞬間、レザは全身が凍りつくような感覚を覚えた。あの目だ。満月の夜に一瞬見た、あの赤い瞳だ。
レザはゆっくりと近づいた。距離を詰めるごとに、影はまるで鳥のように軽やかに、すうっと位置を変えて逃げる。葉の間を滑るように動き、地面を蹴ることなく、音もなく消えてはいく。手を伸ばしても届かない。何度も目を凝らしたが、最後に見えたのはただ、木々の間の黒い空間だけだった。
「どこにいったの…?」レザは小さな声でつぶやいた。しかし、その問いに答えるものはなかった。影は消えたように見えて、実際は遠くの茂みからじっとこちらを見つめている。見張るように、あるいは追跡を始めるかのように。レザが歩き出すと、影もまた同じ方向に移動する。まるで、彼がどこへ行こうとも、一定の距離を置いてついてくるように。
学校の校門が見え始める頃、レザは振り返った。茂みの深いあたりにはもう黒い塊の姿はなく、ただ静かな森だけがある。しかし、胸の奥に冷たい不安が残り、囁きの余韻が耳に残っている。赤い目が見えたあの距離感――それは単なる幻覚かもしれない。だが彼は確かな感覚として知っていた。あの存在は、自分を見失わない。消えても、いなくなるわけではない。
レザは早足になった。学校の門をくぐるとき、背後の森がざわりと音を立てた。風か、葉か。あるいは、彼を見送る眼差しかもしれない。どちらにせよ、一つだけはっきりしていた――その黒い影は、どこへ行っても、いつでも彼の後ろにいるのだと。
昼下がり、レザが学校へ向かったあとの家は、ふだんの喧騒がすっと抜けて静かだった。ハルナは洗濯物を取り出し、昔からの習慣どおりに洗濯板で手洗いをした。妊娠のせいで無理はできないが、それでも家を整えることが彼女の心を落ち着かせる。洗い終わった服を裏庭の物干し竿に掛けていくと、庭に広がる小さな花壇からは春先の草の匂いがふわりと立ち上る。向こうには深い森が続き、風が木々の葉擦れで細い音を立てている。
今日は白いシャツを中心に五枚を並べて干した。真っ白な生地が風に揺れる様はどこか心を安らげる。ハルナは一枚一枚を丁寧に整えながら、ミナミのこと、レザの学校のこと、ナズリルが帰ってくる夜の予定について考えていた。ふと、彼女の目があるシャツの胸元に止まる。そこには、赤黒く乾いたような 血の斑(はん) がぽつりとついていた。色は深く、鮮やかさを欠き、どこか時間が経っているような質感だった。
「こんなところに、血…?」ハルナは思わず手を伸ばしてその部分に触れようとしたが、いったん手を止める。洗濯したばかりのはずの白が、どうしてこんなものを帯びているのか。心のどこかで、これは誰かの悪戯か、近所の子が飛び跳ねて泥でもつけたのだろうと理屈をつけようとした。しかし、服は今朝洗ったばかりで、取り込む前には何もなかったはずだ。
その瞬間、裏手の小屋の方から、かすかな声が聞こえた。最初は風の音かと思ったが、よく耳を澄ますと、それは人の助けを求めるような、細い「助けて…」という呟きに似ていた。声はあまりに弱く、そして途切れ途切れで、風に紛れては消え、また何かに押し戻されるように戻ってきた。ハルナは胸が締めつけられる思いで手を止め、耳を傾けた。
「誰か…?」彼女は小さな声で呼びかけるが、返事はない。物音は小屋の方から確かに聞こえた。あの小屋──夜に錠前が勝手に鳴っていた場所だ。ハルナの足は自然と小屋へ向かいかけたが、母として、そして妊婦としての理性が働き、まずは家に戻って他に人がいるか確かめようと思い直した。
だが、振り返ると、さっき血のついていた白いシャツの斑が忽然と消えていた。風に飛ばされたのか、あるいは見間違いだったのか。ハルナは慌ててシャツを掴み、指先で生地を確かめる。そこにはもう何もついていない。まるで最初から無かったかのように。驚きと寒気が同時に押し寄せ、血の痕が消えた事実が恐ろしく思えた。
心臓が早鐘のように打ち、ハルナは室内へ駆け戻った。家の中に入ると、そこにはムラヤマが既に戻っており、少し息を切らせながらテーブルに両手をついていた。ムラヤマは外で誰かに会ったのか、顔が少し赤く、しかし落ち着いた様子でハルナを見つめた。「あら、ハルナさん、外で何かあったの? 忙しそうね」と声をかけるが、その眼差しには察しの早さがあった。
ハルナは言葉を詰め込み、震える声で「今、物干しに干してあった白いシャツに…血がついてたの。しかも小屋から助けを求める声が聞こえたのよ。でも小屋見に行ったら、声は消えて…戻ったら血が消えてた」と告げた。ムラヤマの表情が一瞬変わり、彼女はすぐに深刻さを理解した。「聞こえたの、やっぱり…」と囁く。ムラヤマは短く息を吐き、自分の上着のポケットから小さな懐中電灯を取り出した。「外は今のところ風だけだと言いたいけど…この家は、やっぱり何か見てる。今日は外に出ない方がいいわ。」
二人は顔を見合わせ、黙ったまま頷く。やがてムラヤマは、控えめにしかし確実な声で言った。「ナズリルとアラキが戻るまで、ここで待とう。出歩かないで、窓も閉めて。何かあったら大声を出して。」ハルナは震える手で鍵を確認し、窓を全部閉めた。台所のテーブルに座り込み、二人は小さな合図でお互いの存在を確かめ合いながら、外の庭と深い森を意識していた。
午後の日差しが柔らかく窓を通り抜けるが、家の奥では二人の会話が止まり、沈黙だけが増していく。白いシャツの血の痕はどこへ消えたのか。小屋の「助けて」は誰の声だったのか。答えのない問いだけが、重く部屋の中に残った。二人はただ、静かにその答えを待つしかなかった。
朝は澄み切っていた。北の山林の縁に集まった人々の息が白く、薄い霧が針葉樹の根元をなぞっている。ナズリル、ハルナ、レザ、アラキ、ムラヤマ――そして少し離れた藪の向こうに立つヨシカゲ。今日は特別な日だった。林業省(リンギョウショウ)からの正式な表彰式がこの場所で行われ、ナズリルはこの数か月、森を守り続けた功績を讃えられるのだという。都会から到着した黒い車列の中から、ヒメジマ大臣が静かに降り立った。制服でもなく、しかしその所作には公務の重みがあった。
「ここに集う皆さんに感謝を申し上げます」ヒメジマは短く挨拶をし、手慣れた演説で森の重要性と保全の意義を説いた。ナズリルは誇らしげに微笑みながらも、どこか落ち着かない。祝辞の後、ナズリルはヒメジマと個別に話す機会を得、二人は林業の現場の苦労や将来の計画について言葉を交わした。役所の言葉は硬いが、心の底では森を本当に愛する男同士の共感が垣間見えた。
その陽気な空気の端で、アラキは辺りを気にするふうでもなく、茂みの陰にこっそり入り込んだ。ムラヤマはそれに気づき、眉をしかめたが声をかけることはしなかった。アラキは小走りに茂みに隠れ、用を足しているようだった。田舎の人間ならではの無骨さと冗談半分の行動だが、そのとき、ムラヤマはただならぬ違和感を抱いた。「気をつけて」と内心で呟きながら、彼女は夫の背中を見守った。
用を足し終えたアラキが戻ってくると、最初は何事もないように笑っていた。しかしムラヤマの目はすぐに異変を見た。アラキの目の色が、ほんのわずかに抜けて見える。白目と黒目の境がぼやけ、瞳の光が消えかけているように見えたのだ。彼女は「疲れてるのね」と自分を慰めるが、胸の奥に不安が芽生える。アラキ自身も、最初は気にも留めず、冗談交じりに鼻を鳴らした。「そんな夜更かしした覚えはないんだけどな」しかし、その声には微かな震えが混ざっていた。
式典が終わり、皆がそれぞれに話し合う中で、ムラヤマは周囲との距離を保ちつつもアラキに軽く触れ、目の焦点を確かめる仕草をした。アラキは一瞬戸惑い、その表情がわずかに崩れる。言葉が少し遅れて出てくる。やがて、ナズリルが笑って二人に話しかけ、場の空気を和ませようとする。だが、その笑顔の裏で、ムラヤマは確信に近い何かを感じ始めた——夫の精神が、そして視線が、ほんの少しだけ「こちら側」から遠ざかっているようだと。
ヨシカゲは少し離れた場所で、手に持った古い缶を磨きながら、遠目にその光景を眺めていた。彼はこの土地の噂を知る立場として、無言の警戒を強める。村の古老から聞いた話、満月や忌日(ジュマ・クリウォン)に関する言い伝え、そして“見られる”ことの意味。そのすべてが、この朝の穏やかな光の下で、静かに重くのしかかる。
だが異変は急激に来ることはなかった。最初は小さな兆候、言葉の噛み合わなさ、目の色の衰え。それでもアラキは自分を保とうとし、作業服のポケットから道具を取り出しては手を動かした。ムラヤマは彼のそばに寄り添い、外面的には平静を装う。ナズリルは任務の相談を続け、ヒメジマとの会話に集中している。表向き、日常は続いているかに見えた。
だが、ムラヤマの心臓は確かな速さで打ち、彼女は無意識に夫の名前を何度も繰り返していた。アラキの瞳の光は、昼の光にもかかわらず薄くなり、理性の糸が緩み始めているように感じられた。「これがただの疲労ならいい」とムラヤマは自分に言い聞かせたが、その瞬間――林の奥で、葉擦れとは違う低いざわめきが起こった。空気が一瞬変わり、誰もがその音に耳をすませた。
ナズリルの顔に初めて影が差した。彼はヒメジマとの会話を中断して、無言で森の方向を見つめる。ハルナはレザを抱き寄せ、身体を固くした。ヨシカゲは缶を床に置くように静かに手を下ろした。遠くからは、微かな、しかし確かな錠のきしむ音が、じわじわと近づいてくるように聞こえた。
アラキの顔に、ふと笑みが浮かんだ。その笑みはどこか遠く、空虚なものに見えた。ムラヤマは凍りついた。胸の奥で、何かが目覚め始めているのを彼女は感じた。ナズリルは鋭く息を吸い、次の瞬間――そこから先は誰も予測できなかった。
ヒメジマ大臣の短い祝辞が終わり、晴れやかな拍手が北の山林に響いた。その締めくくりとして、公式にメダルがナズリルに渡された。金属の冷たい重みがナズリルの胸元で揺れ、彼の表情には誇りと疲労が交差していた。村人たちや役所の職員たちが笑顔で写真を撮り合う中、まるでその光景だけが現実であるかのように、場は一瞬和んだ。
だが、そのとき——アラキの身体が唐突に硬直した。最初は痙攣のように見え、次第に彼は地面にしゃがみ込み、両手で土を掘り起こすように荒々しく動かし始めた。周囲の誰もがそれを理解できず、笑顔は一瞬で凍りついた。アラキの動作は自分を埋めるかのようで、爪が土をかき出す音だけが不気味に響く。ムラヤマは悲鳴にも似た声をあげて駆け寄ろうとしたが、アラキは鋭く振り向き、偶然近くにいた役人の腕に噛みつくように襲いかかった。
声にならない唸り声とともに、アラキの口から聞き慣れない言葉が漏れ出した。それは日本語でも英語でもなく、ジャワの古い方言のような響きを持つ。ナズリルの耳だけがその言葉を理解した——それはジャワ語の断片であり、意味は「ここは我らのもの」「埋めよ」など、古い呪縛めいた内容だった。ナズリルの顔色が急に変わる。彼は言語としてそれを知っていたのだ。胸に去来したのは恐れと、同時に自分の中にある“疑い”が現実の脅威と結びつく瞬間だった。
周囲の職員が取り押さえを試みる。しかし多数ではない。数人の係員が慌ててアラキを取り囲み、ロープやベルトで腕を縛ろうとする。アラキは力を振り絞って暴れ、尻もちをつきながらも相手に噛みつき、引っ掻き、拳を振るった。悲鳴と怒号が飛び交い、ヒメジマ大臣の表情も引きつる。ナズリルはとっさに割って入り、アラキの肩を掴んで押さえつけようとしたが、その腕の力は尋常ではなかった。彼が感じたのは、もはや個人の意志ではない“何か”がアラキの身体を動かしているという確信だった。
そこへ、ヨシカゲが静かに前へ出た。彼はこの土地の“目に見えぬもの”に対して経験を持つ者であり、懐から古い布を取り出すと、低い声で古風な言葉を紡ぎ始めた。口にする言葉は“呪文”のように聞こえるが、具体的な手順や危害の出し方は示さない。まるで風を整えるような慎重な音節だ。ヨシカゲの声には、周囲にいる者たちの呼吸を整える力があった。だがアラキの動きは止まらず、時折錯乱状態で叫び、土を掘り、地面に顔を押し付けようとする。
ムラヤマは泣き叫びながらも冷静に夫の側に飛び込み、縛られた腕に手を当て、力を込めて彼の意識を呼び戻そうとした。その声は、理性を取り戻させるための必死の呼びかけであり、同時に愛する者を取り戻すための実践でもあった。ムラヤマは古くから村で聞かされてきた言い伝えを思い出し、精一杯の力でアラキの肩を揺すり、彼に自分の名前を何度も叫んだ。
数分にも感じられる争いの末、ようやくアラキの暴走は徐々に収束し始めた。役所の者たちが体勢を固め、ヨシカゲの短い祈りが重なり、ムラヤマの叫びが届いた瞬間、アラキの体がぐったりと崩れ落ちた。彼は土まみれで、顔面には引っ掻き傷が複数、腕や肩には青あざが点在している。口は泡で少し濡れており、呼吸は荒かった。周囲は重苦しい静寂に包まれた。
アラキが朦朧としながら目を開けると、そこにあったのは見知った顔ではなく、呆然とした仲間たちの顔だ。彼はゆっくりと自分の手を見るが、手には泥と血の細かな跡がついている。ムラヤマの声が震えながらも優しく囁く。「あなた、大丈夫?」アラキは目をパチリとさせると、短く首を振り、言った。「…覚えてない。何も…」その言葉は、全員の胸に冷たい沈黙を落とした。
ナズリルは膝をついてアラキの横にしゃがみ込み、息を整えながらも顔を強張らせた。彼は自らが知るジャワ語の断片の意味を思い返し、泥のついた指先で袖を拭いながら、内心で戦っていた──“これは迷信なのか、それとも本当に古い何かがここにあるのか”。だが答えはすぐには出なかった。アラキの体は痛みに震え、記憶は白紙。彼の手首には、小さな土の中の印がまだ焼き付いていた。
式典の場には静かな動揺が広がり、ヒメジマ大臣の顔色は引き締まる。役所の数人が応急処置と記録を始め、集まった村人たちは遠巻きにその光景を見守った。誰もが言葉を失い、ただ夜の森へと視線を向ける。そこには、まだ何かが潜んでいるのかもしれない——そう直感する者が多かった。ナズリルは深く息を吸い込み、ためらいがちに空を見上げた。信じるも否定するも、今は守るべき仲間がいる。彼は自分の胸の中で、何かを決めたように見えた。
式典の騒ぎがだんだん収まり、夜が近づく頃、彼らは家へ戻った。アラキは土と血で泥だらけだったが、命に別状はなく、ムラヤマが優しく手当てしている。彼女は傷を洗い、消毒し、包帯を巻きながら小さなため息をつく。アラキはうめき声をあげながらも、ムラヤマの手の温かさに安心するように目を細めた。彼の体には新しいあざや引っかき傷が点在していたが、芯のところでは生きている。ムラヤマは何度も「大丈夫よ」と繰り返し、夫の額に冷たい布を当てる。
家の中では、静けさが不穏な余韻を残していた。ナズリルとハルナは互いに顔を見合わせ、口火を切るように議論を始めた。ハルナは震える声で言う。「ナズリル、もう十分だわ。レザのことを考えて。こんな場所で夜通し見回りなんて…私たち家族はどうなるの?」彼女の目には疲労と恐怖が混じり、昨夜から続く不安が言葉として噴出していた。確かに、物干しに現れた血の跡や、物置の錠前の異常、そして子どものおもちゃが勝手に動くこと——すべては無視できない証拠になっている。
ナズリルは静かに反論する。「ハルナ、分かってるよ。でも逃げてばかりでは何も解決しない。ここを守らないと、他の人にも迷惑がかかる。仕事として、責任としてやらなきゃいけないんだ。家族の未来のためにも、俺はここで踏ん張る。」彼の声は固い。彼にとって森は畑でもあり、生活でもあり、守るべき世界だった。ナズリルの理屈は現実的で、彼は実際に目に見える仕事の成果を重んじる男だ。
二人の議論はすれ違いながら続いた。ハルナは感情と直感を重視し、ナズリルは証拠と責務を掲げる。互いに譲れない点があり、言葉が少しずつ熱を帯びる。しかしその根底には、互いへの深い愛情があった。激しい口論の最中でも、二人は相手の目を必死で探し、言い争いの合間にふと笑ってしまう瞬間がある。ナズリルが「とにかく守る」と言えば、ハルナが「守るって、まず子どもを安全にすることよ!」と返す。感情が高ぶるあまり、比喩や例えが空回りして二人で言葉をかぶせ合ううち、いつしか話題がズレ始める。
「根を張るんだ、木のように!」とナズリルが真剣に叫ぶと、ハルナは即座に返す。「根? 私たち、船じゃないのよ、ナズリル!」と突っ込む。二人は言葉の食い違いに思わず吹き出し、その場の張り詰めた空気が一瞬ほどける。笑いは短く、しかし救いのように温かかった。ふたりの口論は結局、言葉の受け取り方の食い違いから来る滑稽な勘違いで、笑いに変わってしまったのだ。
そのユーモアの余韻の中で、レザはそっと立ち上がった。昨晩の恐怖にもかかわらず、子供の内に芽生えた勇気が彼を突き動かしていた。「僕、行ってくる。アラキさんとムラヤマさんと一緒に、ヨシカゲさんのところに行って、もっと詳しく聞くんだ。きっと何か分かるかもしれない」と、低く真剣に言った。アラキはまだ疲れていたが、ムラヤマがそっと息子に微笑むと、彼は力無く頷いた。ナズリルは一瞬黙り込んでから、苦い笑みを浮かべる。「勝手に行くなよ、帰って来いよ」と、しかしその声には許しと少しの誇りが混じっていた。
三人は軽装で外に出る。ムラヤマはアラキの腕を取りながら、懐中電灯と簡単な護符を忍ばせる。レザの小さな背中に、仲間としての決意が乗っている。彼らは夜道を歩き始め、ヨシカゲの家へ向かう。家を出る瞬間、ハルナは窓際で小さなハンカチを振り、ナズリルは静かにそれを見送る。家の明かりが一つずつ後ろへ遠ざかる。
だが、明るい気持ちは長く続かなかった。茂みの奥に黒い塊が一つ、月明かりの下でじっと彼らを見下ろしているのが見えた。赤い瞳はまだ遠く、形ははっきりしない。彼らが一歩進むごとに、その影は同じだけ距離を保って移動する。まるで、影は彼らの歩幅を計っているかのようだった。音はなく、ただ木々のざわめきが不気味に聞こえる。足取りは軽くとも、胸の奥には冷たい恐怖が常に張り付いている。
その夜、三人は知らず知らずのうちに守られ、そして見張られていた。ヨシカゲの家へと続く道は遠く、影は静かに後を追う。まだ言葉にできない不安が、彼らの喉に小さな石を置いていた。だが彼らは進む。答えを求めるために、そして家族を守るために——。
レザはアラキとムラヤマに寄り添いながら、ヨシカゲの古い三輪トラックの前に立っていた。朝の光は柔らかく、田舎道にはまだ人影が少ない。ヨシカゲは缶を片手に、落ち着いた声で話し始めた。彼の話は単なる噂話ではなく、この土地に根づいた歴史と民間信仰を含む、重みのある説明だった。
「ここから北へ行けば、オエヤマがある。フクチヤマ、キョウトの奥の方だ。距離にすれば――ざっと七十キロくらいかな。観光地にもなってるけど、昔から『あそこは気持ち悪い』って言う人も多いんだよ。」ヨシカゲは地面を指しながら続ける。「オエヤマは、シュテンドウジの伝説で有名な山だ。平安時代の話が基になってて、都の昔語りには必ず出てくる。シュテンドウジは強いオニの首領で、若い女をさらったとか、酒を好んでそれが弱点になったとか──そういう話だ。」
ヨシカゲは説明をやめず、実際の場所や現代の文化的痕跡についても語った。
「フクチヤマには、オエヤマをテーマにした博物館もある。オニの面や、頼光にまつわる伝承を展示してるんだ。観光客は笑い話半分で来るけど、展示物に触ると『なんか冷たい』って言う人もいる。祭りもある。オエヤマオニマツリで地元の人たちが鬼の仮装をして集まる。表向きは賑やかだけど、祭りの後に不思議な話をする年寄りも多いよ。」
アラキは黙って話を聞いていたが、ムラヤマはレザの方にそっと近づき、子どもの肩に手を置いた。ヨシカゲは続ける。「伝説ってのは、ただ古い話ってだけじゃない。場所があるから伝わる。オエヤマには、昔から『あの洞窟には入るな』って言い伝えがある。行ってはいけない、と。観光客はライトアップされた道しか行かないけど、夜に登る人は稀だ。夜の山に入った人が『見られた』とか『追われた』って話すのを、よく聞くよ。」
レザの目は真剣だった。ヨシカゲは、シュテンドウジ伝説の要点をさらに整理して話した。
「頼光と四天王が山伏に化けて酒を持ち込み、シュテンドウジを酔わせたって話は有名だ。首をはねたってのもそう。でも伝説には続きがあって、首だけでもなお呪いが残ったとか、封印が必要だったとか。そういう“残滓”が土地に残るって信じる人は多いんだ。」
さらに、現代の都市伝説的要素もヨシカゲは語った。
「博物館の展示物や、祭り、ツーリストの噂が複合して『現代の都市伝説』になってるんだ。『霧が急に出る』『誰かに見られてる感覚がある』って報告は、登山者や観光客から時々出る。テレビやマンガでも取り上げられたことがあるから、若い人の間でも話題になる。だからこの話は消えない。」
ヨシカゲは、文化的背景と教訓についても触れた。
「シュテンドウジの話は、単に怖いだけじゃない。平安の価値観では、欲に溺れることの戒めでもある。酒に溺れること、欲望に支配されることの怖さを物語にして伝えてきたんだ。名前だって『酔いどれの童子』みたいな意味合いがある。そういう話が、場所と結びつくと『ここには何かがある』って感覚になるんだよ。」
ヨシカゲの話ぶりは穏やかだが、重さがあった。レザは言葉を失いかけたが、すぐに質問した。「じゃあ、どうしてうちの家の周りに来るんですか?」ヨシカゲは息を吐き、「理由は色々だ。土地の持つ歴史、祭りで呼び起こされたもの、あるいは単なる人の想像力の集合体かもしれない。だがここ数か月で頻繁に起きているのは偶然とは言い難い」と答えた。
ムラヤマが続けて言った。「祭りや博物館の話だけじゃない。人の記憶や祈り、怨念みたいなものが『場所』に残ることがあるのよ。だから、土地の力を無視できないの。」ヨシカゲは静かに頷き、最後にひと言付け加えた。「それから、夜に動くものや赤い目の話は完全に否定できない。用心するに越したことはない。」
その瞬間、レザの中で何かが変わった。これまでの恐れや疑念が、どこか実感へと変わっていくのを彼は感じた。ヨシカゲの語る歴史と現代の都市伝説が、彼にとっては単なる物語ではなく、目の前で起きている現象の説明になっていったのだ。レザは深く息を吸い込み、もう迷わない決意を固めるように首を縦に振った。外の木立では、どこか遠くで葉がかすかに揺れ、赤い目の影がまだ視線を送っているかのように感じられた。
夜はもう深く、空は墨を流したように暗かった。レザはアラキとムラヤマに寄り添いながら、足早に村道を進んだ。三人とも息を切らし、時折後ろを振り返る。ヨシカゲの話が頭に残り、古い伝承の余韻が肌を這うように感じられる。風は冷たく、木立の間からは時折、葉擦れとは違う低い囁きが聞こえてくる——それは確かに古いジャワ語の断片のような響きで、意味は分からなくても、聞く者の心をざわつかせるものだった。
「早く行こう。静かに、足音を立てないで」
アラキは低く囁き、ムラヤマはレザの小さな背を軽く押して前へ急がせる。三人は互いに距離を取りながら歩いたが、囁きは近づくたびに輪郭を帯び、まるで自分たちの名前を呼ぶように柔らかく、しかし確実に迫ってくる。レザの胸は高鳴り、手が汗ばんでいるのがわかった。
家まであと一息という土手道のあたりで、空気が急に重くなった。茂みの向こう——月明かりに照らされた細い小径の先に、黒い塊がゆっくりと背を向け、こちらを見返していた。その姿勢はまるで家を一瞥し、そして向き直ってこちらを監視するかのようだ。赤い目はなかったが、闇よりも濃いその“色”が、月夜に異様な輪郭を作っている。
アラキは息を止め、怒りにも似た決意の影を顔に浮かべた。「誰だ。出て来い!」彼は歩みを詰め、影に向かって声を張り上げた。だが声はかすれ、影は微動だにしない。アラキは短く深呼吸をし、恐れを押し殺してから相手の肩に手を伸ばした。彼は肩を一度叩き、低い怒声で正体を明かすよう詰め寄るつもりだった。
だが――彼が触れた相手の肩から返ってきたのは冷たい感覚ではなく、柔らかい布の感触と、驚いた小さな声だった。アラキが振り向くと、そこにいたのはムラヤマだった。ほんの数歩も離れていなかったはずの彼女が、いつの間にかアラキの側に立っている。ムラヤマ自身は呆然とした表情で、「え、私?」と問い返すだけで、自分がいつ移動したのか全く覚えていない様子だった。
レザの目は大きく見開かれ、身体が硬直する。心臓が耳元で鳴るようだ。三人は互いに顔を見合わせる——ムラヤマの位置はもともとレザの横にあったはずだ。だが現実は入れ替わっている。囁きはますます頻繁に聞こえ、今度は言葉がはっきりしてきたように思えた。古いジャワ語の句の断片が、日常の日本語の中に滑り込んでくる。
「動け、走れ!」アラキが叫び、三人は悲鳴を上げながら一斉に後ろを振り返る。影はその場でゆっくりと身体をひねり、また家の方を見つめた。まるで「行け」と命じるかのように。その視線を受けた瞬間、全員の背筋に冷たいものが刺さった。
彼らは叫びながら全速力で家へ駆け戻った。足元の小石が飛び跳ね、草木が掻き分けられる。追ってくる音は聞こえないが、確かな気配が後ろにある。家の明かりが見えたとき、ナズリルとハルナが玄関を開けて外に出てきた。夜風に髪を揺らしながら、ナズリルは素早く三人を迎え入れ、扉を堅く閉めた。
「何があったんだ、落ち着け」ナズリルは冷静を装って言ったが、その声にかすかな揺れが混じる。ハルナはレザの肩を抱きしめ、震える息を受け止める。ムラヤマはまだ混乱し、アラキは荒い息をしながら影の方を睨みつける。三人は玄関で互いを確かめ合うように身を寄せた。
ナズリルは扉を二重に確かめ、深呼吸してから静かに言った。「多分、疲れと想像がそうさせたんだ。幻覚か、風のせいだろう。落ち着け、もう大丈夫だ。」彼は自分自身にも言い聞かせるように付け加えた。だが窓の外、遠くの木立の向こうに、あの黒い影はまだ一瞬だけ姿を現し、家を見据えたまま闇に溶けていった。
誰も気づかない。影は距離を保ち、彼らの安心をじっと見守っている。ナズリルの言葉は家族を落ち着かせたかもしれないが、夜の空気は変わらず重く、古い囁きはまだ耳の奥で蠢いていた。
明日。。。
夜は完全な円を描くように光っていた。ジュマ・クリウォンの満月が、北の山林を青白く染め上げる。ナズリルはオエチョ・キタバラの林床に立ち、息を深く吐いた。今日は林野庁の要人が来るということで、いつもより厳かな空気が漂っていた。ヒメジマ大臣が近くに控え、数名の警備と林務の職員が遠方で見張りを続けている。アラキはナズリルの隣で、少し肩を丸めながら周囲を見回していた。
「ここは重要な遺存林域だ」とナズリルはプロの口調で説明する。手元の資料を示しながら、土壌の状態、樹種の構成、病害の有無、そして保全計画の進捗を淡々と話した。オエチョ・キタバラは過去数か月、違法伐採の問題に悩まされてきた場所でもある。ナズリルは事実を隠さずに言った。「不正に伐採していた者の一部は、この近隣の村の者たちでした。彼らは木材を流して闇市へ売ろうとしていた。捕縛し、住民に説明責任を求めました。今は監視を強化しています。」
ヒメジマは眉を寄せ、感謝と懸念を同時に表す。「実地での努力に感謝します。地域と連携しながら、もっと持続可能な管理を進めましょう」その声は官僚的だが、確かな重みを持っていた。遠方に控えた見張りたちが、散開している点検隊と交信しつつ、周囲の暗がりを注意深く監視しているのが見える。
だが、儀礼的な会話の端に、アラキの表情が変わり始めた。最初は軽い顔色の悪さで、額に手を当てる仕草が見えた。「どうした?」ナズリルが声をかけると、アラキは薄く笑って「ちょっと貧血気味かも」と答え、持ってきたトラックの荷台へと向かった。そこには作業用の水筒や簡単な救急道具が積んである。離れた位置にあるピックアップの明かりが、月光の中でぼんやりと揺れていた。
アラキが水筒を手に取り一口飲もうとしたとき、手が滑り、缶が地面に落ちて転がった。咄嗟にかがんで拾い上げるその動作の直後、彼の前方に――黒い塊がすっと立ち上がった。闇より濃いその姿は、人体の輪郭を思わせるが、輪郭は揺らぎ、表面は光を吸い込むかのようだった。二つだけ、赤く小さな光が闇の中で瞬いている。
アラキは立ち尽くした。次の瞬間、塊は開口一番、激しい声で叫んだ。言葉は日本語ではない。ジャワ語の古い断片めいた音節が、切迫した速さで森に投げ込まれた。ナズリルはその言葉を聞いて、一瞬顔色を変えた。耳慣れぬ響きの中に、かすかに理解できる語片が混じっていたからだ。「埋めよ」「返せ」——ジャワの古語に似た命令が、直接胸を突いた。
遠方の見張りが反応し、護身用の小銃を構えた。「照準、こっち!」と誰かが叫ぶ。銃声が二、三発、夜空を引き裂いた。だが弾は闇の塊をかすめることなく、木の幹や地面に当たって粉を上げるだけだった。弾丸が着弾するたびに、なんとも言えない冷たい風が吹き、見張りたちの顔に恐怖の色が広がる。的外れな射撃が続くと、最初は勇ましかった警備の者たちの手が震え始めた。彼らは次第に後退し、距離を取る。
アラキは叫び声をあげ、無意識に体を押しのけようとしたが、痙攣じみた動きに変わり、倒れ込む。声はやまず、塊はさらにジャワ語の断片を畳みかけるように呟いた。ナズリルは咄嗟にアラキのそばへ飛び込み、彼の肩に手をかけて支えた。ナズリルの心拍は速まり、薄らとした寒気が首筋を下っていく。目の前で起きていることが、単なる迷信や幻覚以上のものに変わりつつあると、彼の理性は不快に告げた。
「後退しろ! 無駄撃ちはやめろ!」ヒメジマが低い声で命じる。だが護衛たちの足は重く、混乱の中で指示が行き届きにくい。塊は一瞬、月光をはじくかのように揺れ、そして音もなく消えた。見張りたちの呼吸が戻り、ゆっくりと散開していくが、その顔に浮かぶ青ざめは消えない。人々は互いに視線を投げ合い、誰もが今目の当たりにした光景の意味を噛み締めていた。
アラキは床にうずくまり、額に手を当ててうめく。やがてゆっくりと目を開けると、彼の瞳にはまだ震えが残っていた。口を開くと、つぶやくように言った。「始まったんだ…」その声は震え、しかし真実味を帯びていた。ナズリルはすぐに南の自宅のことを思い浮かべた。ハルナとレザが数キロ南で眠っている――満月の夜、守るべき家族。胸の中に新たな不安が広がる。
森は再び静寂を取り戻したように見えるが、月の下に落ちる影は深く、遠くの木々の間から何かがこちらを見返している気配が残る。ナズリルはアラキを抱え起こしながら、声を低く絞り出した。「今すぐにでも戻る。家族のところへ行く。だが、装備を整えてからだ――無鉄砲では行けない。」ヒメジマは頷き、見張りたちに指示を出し直す。だが誰の心にも、先ほど感じた異様な言葉の残響と、弾丸が空を切った音が刻みついていた。
アラキのつぶやきは小さかったが確かな予告だった。これは始まりに過ぎないと。ナズリルはその言葉を重く受け止め、家族と村を守るために動かなければならないことを、改めて胸に刻んだ。満月は静かに高く、森は深い呼吸を続けている。そこに何が潜んでいるのか、誰にもまだ完全には分からなかった。
夜が更け、家の中には小さな灯りだけが残っていた。ハルナは疲れた体を癒すために風呂の用意をしていた。薪で沸かしたお湯はほどよく温かく、ふつふつと湯気が立ちのぼる。妊娠で疲れやすい彼女は、温かい湯に浸かることを心から楽しみにしていた。レザは宿題を終え、台所でお菓子をかじりながらそわそわしている。外ではまだ森のざわめきが遠くに聞こえるものの、家の中は一見平穏だった。
そのとき、静かに玄関の方から人の気配がした。ハルナは誰かが戻ってきたのだろうと思い、声をかけずに湯気の向こうで髪を結った。だが不意に、風呂場の戸がいつの間にか開いていることに気づく。半ば裸であることを思い出し、少し慌てて戸の方へ向かうと、そこに立っていたのは、動揺を隠せない表情のムラヤマだった。
「ハルナさん、大丈夫?」ムラヤマは首をかしげながら、遠慮がちに声をかける。ハルナは一瞬驚きつつも、「あら、ムラヤマさん。アラキは?」と問い返した。ムラヤマが答える前に、レザがキッチンから口出しした。「ぼくの湯、誰か使ってるの? お父さん?」と言って指をさす。そう、さきほど誰かが風呂場に入ったらしく、湯桶の水は少し減っていた。レザは子供らしく「湯を取られた!」とふくれる。ムラヤマは困った顔をして「いや、見てないわ」と言い、二人で戸口を覗き込むと、風呂場の中には半分湯をはった浴槽と、床に置かれた作業着だけがある。
「アラキはさっき山の見回りに出ていったはずよ」とムラヤマ。ハルナは眉を寄せながら浴室の中を見回し、「誰かいるの?」と小声で呼びかける。返事はなく、ただ湯気が静かに上がるだけだった。ハルナは「アラキ、入って体を拭いて」とやや恥ずかしげに呼ぶが、やはり反応がない。そこに子供の素朴な抗議が重なる。「お母さん、ぼくのバケツの湯が…!」とレザが叫ぶ。場の空気は一瞬、子供じみた愚痴で和らぐ。
数分が過ぎ、湯の流れる音が止んだ。ハルナは心配になり、軽く戸をノックした。「アラキ、もう終わった?」返事がないので、戸を少し押してみる。勢い余って戸が大きく開き、ハルナは浴室の中に身を乗り出してしまった――その瞬間、見たものに体が固まる。
浴室の中にアラキはいない。ただ、床に落ちた水滴と、誰かが置いていったような濡れた作業用タオルがあるだけだった。浴槽の湯はほんの少し波打っている。ハルナは逆に息を呑み、手で口を覆った。心臓が早鐘のように打つ。振り返ると、背後から「びっくりした?」という声がして、ハルナは思わず叫び声をあげた。
「ごめんなさい! 本当に驚かせるつもりはなかったのよ!」ムラヤマが慌てて足を踏み入れ、ハルナの肩を抱いて落ち着かせようとする。ムラヤマの顔には戸惑いが滲む。「…でもさっき、あなたがアラキを見たって言ったのよね。どうしてここに誰もいないの?」と尋ねる。ハルナは震える声で説明する。「さっき、戸が開いてて、誰かが入った気配がしたの。私は見たのよ、肩ごしに…確かにアラキの姿が――」
ムラヤマは困惑しながら首を振る。「私には見えなかったわ。私はずっと台所の方にいたし、あなたが見たっていうアラキは、今この瞬間、林の見回りに出ているはずよ。ナズリルも一緒にいるって話だったわ」。ハルナは言葉を失い、しばらく黙り込む。レザは不安げに足を動かし、ふくれ顔で「お父さん、早く帰ってきてよ!」と繰り返した。
二人は互いに目を合わせ、顔に困惑の色を浮かべる。ムラヤマは小さくため息をつき、「まあ、誰かのいたずらか、あるいは風のせいかもしれない」と言ってみるが、その言葉には説得力がない。ハルナは体をしっかりと温めたくて戻るつもりだったが、さすがに一人で風呂に入る気にはなれず、ムラヤマと一緒にリビングで服を着直すことにした。
そのとき、外からバイクの音が近づく。門が開く音、二つの影が家の前に立つ。ナズリルとアラキが戻ってきたのだ。アラキは泥だらけで息を切らし、ナズリルは険しい表情をしている。ムラヤマはアラキを見て驚く。「今まで森にいたのに、さっきここにいたってあなたは?」と問いただす。アラキは困惑した顔で答える。「俺はずっとナズリルと一緒にいた。途中で倒れそうになって水を飲んだだけだ。風呂? 入ってないよ。」
ナズリルは事情を簡潔に話す。森で起きたこと、黒い影の出現、弾丸が無意味に外れたこと――そしてアラキが奇妙なめまいを感じたこと。ムラヤマとハルナは互いに顔を見合わせ、色が失せる。レザは父を見上げ、目に涙をためながらも、「お父さんが風呂入ってないって…でも誰か入ってたのに!」と混乱をぶつける。
ナズリルは深く息を吐き、家族を落ち着かせようと低い声で言った。「誰かが家の中に入ってきたのかもしれない。だが、今は皆で家の戸締りをしっかりして、外には出ない。アラキ、状況を報告してくれ。俺はムラヤマとハルナに子どもを任せる。」アラキはまだ震えが残る手で頷き、夜の出来事を説明し始めた。
だがハルナの胸には新たな不安が根を下ろしていた――自分が見た“アラキ”は一体誰だったのか。風呂場の無言の湯気の向こうで、何かが静かに息を潜めている。家族はその夜、互いに寄り添いながらも、はっきりしない恐怖を抱えて眠りについた。外の森では、満月の光の下、影が長く伸びていくのが見えた。
ハルナは、出産予定日まであと数か月という身体の疲れもあって、夜深くぐっすりと眠り込んでいた。家の中は薄暗く、ランタンの残り火が消えかけているだけ。時計の針が静かに進み、夜の静寂が家を包んでいる。だが、夜中の重たい静けさを裂くように、ハルナの耳に小さな足音と扉の下から漏れる淡い光が届いた。時計を見ると、3時33分を指していた。
半分夢うつつの状態で、ハルナは布団からそっと起き上がった。腹の中のミナミを思ってそっと息を吐くと、寝ぼけまなこでスリッパを掴み取る。夫も子もまだ深い眠りの中——そう確認してから、彼女は音のする方へ慎重に向かった。廊下を歩くと、廊下の突き当たりから漏れるのは、確かにランタンの揺れるほのかな光だった。だがその光の隙間に、何かがするすると動く“影”が見えた。目が慣れるまでの一瞬、影はハルナの視線を避けるようにして、壁の陰へと移った。
居間に入ると、空気は冷たく、湯気の匂いも消えていた。彼女は右を見て、左を見て、ただいつものオイルランプの残光だけが揺れているのを確認した。しかし、腰のあたりで何かが迫る感覚がし、視線を戻すと──そこに、闇の中をすり抜けるような線が一瞬だけ見え、すぐに消えた。影はわずかに人の形を想起させるが、輪郭はぼやけ、光を吸い込むようだ。ハルナは心臓が跳ね上がるのを感じ、息を潜めてしばらくその場に立ち尽くした。
「見間違いだわ…」彼女は自分にそう言い聞かせ、足早に寝室へ戻ろうとした。しかし戻る途中、何かが胸の奥に触れたような冷たさが走り、視界が一瞬グラリと歪んだ。世界が薄く揺れ、ハルナは自分の寝室の襖の前で立ち止まった。そこで彼女は、ほんの短いビジョンを見た──自分が分娩台に横たわり、陣痛に耐えながら大声で叫んでいる。助ける人影が一つあり、それは人間ではない。長い黒髪を垂らし、白い衣をまとった女が静かにそばに立ち、赤い瞳が淡く光っている。女は無言のまま、不気味に微笑んでハルナの手を取るように見えた。
ハルナはその光景に凍りつき、思わず目を覆った。喉から大きな悲鳴が出た。声は家中に響き渡り、布団の中の人々をたたき起こした。叫び声の余韻が消えかけた瞬間、ハルナはふっと現実へ戻り、隣を見ると──そこにいたのはムラヤマだった。ムラヤマは寝間着のまま、顔に夜用のクリームを塗っていて、薄暗い浴室の明かりのせいで顔が白くぼやけて見えただけだった。ハルナはその姿を一瞬幽霊と取り違え、慌てて大声を上げてしまったのだ。
家中が一斉に目を覚ました。「どうしたんだ!」とナズリルが跳ね起き、レザも飛び起きて枕を掴む。アラキもまだ眠気の残る顔で、辺りを見回す。ムラヤマは慌てて状況を説明し、「クリーム塗ってただけよ、驚かせてごめんなさい」と言ったが、ハルナは震えを抑えられず、涙混じりに昨夜見た幻視を語り始めた。長い黒髪、白い衣、赤い目──彼女が見た“助ける女”の姿を断片的に話すと、家の空気は一瞬で凍りついた。
ナズリルはハルナの肩を抱き寄せ、優しく「ただの悪夢だ、ハルナ。今は安全だよ」と言って落ち着かせようとする。しかしその声の端には、かすかな動揺があった。レザは父の言葉に納得せず、目を大きくして尋ねる。「でも本当に見たの? お母さん、なんで赤い目の人が手伝ってたの?」ナズリルは考え込むように眉を寄せた。部屋の外では、満月の夜の冷たい風が戸の隙間を吹き抜け、古い木製の家が小さく軋む。
ムラヤマはハルナをなだめながら、冷静に言った。「夢や幻覚は、疲れや不安、そして胎児のホルモンの影響で起きることがあるわ。特にこの土地では、夜の静けさがそれを増幅することもある。深呼吸して、少し水でも飲みなさい」ナズリルも続ける。「明日、ヨシカゲさんにも話を聞いてみる。だが今は、落ち着いて寝よう。外に出るのはやめるんだ。」
だがレザは不安そうに窓の外を見つめた。遠くの森の方角に、何かが一瞬だけ赤く光ったように見えた気がしたのだ。家族は互いに体を寄せ合いながらも、誰もが心のどこかで同じ疑問を抱えていた――あの夢はただの悪夢なのか、それとも予兆なのか。夜はまだ深く、3時33分の静けさが、いつまでも彼らの耳に残った。
ナズリルとアラキは、震える足取りでヨシカゲの家へ駆け込んだ。夜の風が冷たく、遠くの木々がざわめく。ナズリルは息を切らしながら問いかけるように叫んだ。「子どもを見なかったか? レザはどこだ、早く言え!」
ヨシカゲは静かに首を振り、しかし言葉は重かった。「見た。だがさらわれたのではない。ここで言う“さらわれる”のは、人間の手ではない。人の手とは違うものだ——お前たちにそれを言うべきだった。遅くなってすまない。」その声に、二人の顔に血の気が引く。
「じゃあ誰が――」アラキが言いかけると、ヨシカゲは作業用の袋から古い布片と小さな瓶、そして墨で書かれた巻物を取り出した。「これで行く。出鱈目ではない。祈りと言葉、そして力を使うんだ。」彼は簡潔に手順を伝え、ナズリルとアラキは無言で頷いた。三人は懐中電灯を携え、夜の森へと飛び出していく。家ではムラヤマとハルナ、その他の者たちが祈りを続け、家族の無事を願っていた。
一方、レザは満月の下、暗い丘の上で座り込んでいた。長い歩行に疲れ、彼はそこにある石の塊を椅子のようにして腰を下ろした――だが、それは椅子ではなかった。古い墓石の一部、忘れられた塚の上だった。月光が石に反射し、周囲の影が不気味に伸びる。レザは遠くから、ふたつの異なる歌声を聞いた。一方は古いジャワ語の低い調べ、もう一方は日本の古歌の旋律。言葉は違えど、どちらもゆらりと魂を誘うような響きで、空気を震わせている。
「ここは――」レザは喉を詰まらせる。声は甘美であったが、胸を締め付けるように恐ろしく、冷たく深い。影は石の間から蠢き、赤い目が月光の中で煌めいた。気がつくと、彼の視界が白くにごり始め、世界の輪郭がぼやけていく。まるで何かに引っ張られるように、体の奥から静かに魂が引かれていく感覚がした。目の前が光り、視界の端に自分の体が座っているのを遠目で見るような――そんな恐ろしい離心感が襲った。
その瞬間、森の入口で疾走する足音が響いた。ヨシカゲの低い呪文が、風にのって聞こえてくる。ナズリルは懐中電灯の光を振りかざしながら叫ぶ。「レザ! ここだ!」アラキが後ろで重い道具箱を振り上げ、二人は全力で丘を駆け上がった。だが、影たちは既にレザの周囲を囲み、黒い絨毯のように彼を覆い始めていた。赤い瞳が光り、二つの言語の歌が混ざって空気を切る。
ヨシカゲは布を広げ、古い墨文字で書かれた巻物を掲げて日本語で唱え始めた。「祓え、返れ、還れ!」その声に続いてアラキが合わせ―古い村の短い言葉、強い気合を混ぜた掛け声を叫ぶ。二人の声が混ざると、影の輪が一瞬だけ乱れ、赤い光がちらついた。だが影は猛然と逆襲し、アラキの足元から冷たい手が伸びるように彼の体を押し倒そうとした。ナズリルは自動小銃を構えて発砲するが、銃弾は影を貫くことなく空を切って落ちる。弾丸の音が森に響くと、影はさらに苛烈に反発した。
ヨシカゲは慌てずに小瓶の蓋を開け、埃の匂いがする液体を地面に垂らし、巻物の文句をより速く、低く唱える。アラキは泥にまみれながらも、体をねじって影の腕を払いのけ、手近な棒切れを振るった。彼の一撃が影の表面をひび割れさせると、そこから低いうめきが漏れ、赤い光が散るように消えていった。影は完全には消えずに逃げ惑うが、徐々に退却を強いられる。
レザの体は白目を剥いたように見え、確かに魂が外へ引き出されようとしていた。ナズリルは我を忘れて飛び込み、彼の肩を掴んで引き戻そうとするが、指先には冷たさが残り、力が抜けていく。ヨシカゲとアラキが力を合わせ、古い言葉と現代の力を合わせた祈りで影を押し返すと、ついにレザはふらりと意識を取り戻した。彼は大きく息を吸い、泣き出したように嗚咽する。体を抱きしめるナズリルの肩に、泥と葉の匂いがついた。
影は消え去ったわけではないが、歌は遠ざかり、夜風だけが残った。三人は荒い呼吸を整え、地面にへたり込む。レザは震えながらも、目を開けると母の顔を思い浮かべ、泣きながら「ミナミ…」と小さくつぶやいた。ナズリルは言葉が出ず、ただ子を抱きしめるだけだった。アラキとヨシカゲは互いに顔を見合わせ、疲れた笑みを一つ交わす。成功の安堵と、次の戦いへの覚悟が混じった表情だった。
彼らは急いで家に戻った。夜半とはいえ、家は悲喜が一つになっていた。ハルナは顔をくしゃくしゃにして泣きながら、レザを受け取り、その小さな体を何度も確かめた。「生きてたのね!」と声を上げ、ムラヤマも嗚咽を漏らした。家中が抱き合い、床は喜びの涙で濡れた。だが、その安堵の合間に、ハルナの腹に強い痛みが走った。助産師が駆けつけ、出血や兆候を確かめると、事態は急速に進行していることが判明した。
準備はできていなかったが、村の助産師は冷静に指示を出した。間髪入れずに床を清め、暖を取り、ハルナを横たえた。家族は互いに手を取り合い、祈りながら見守る。夜の恐怖の余韻がまだ残る中、ハルナは深い呼吸を繰り返し、助産師の指示に従った。叫び声が家の中に木霊し、最終的に新しい哭声が加わった。
ミナミは、世界に向かって小さく泣き声をあげた。その瞬間、家中が歓喜に包まれた。レザは涙を流しながら妹の小さな手を見つめ、「ミナミ…」と何度も繰り返す。ナズリルは疲れ切った顔でミナミを見下ろし、ハルナの手を握りしめた。だが、その胸の内には安堵と同時に、深い不安が残っていた。外の森では、まだ何かが息をひそめている。影は消え去っていない。今夜救われたのは確かだが、この地に根付いた何かは、まだ眠っているだけかもしれない。
家族は互いに抱き合い、短い安堵の中で新生児を讃えた。だが誰もが、その祝福だけでは終わらないことを直感していた。夜空には満月が高く残り、木立の向こうに、赤く小さく何かが光ったように見えた。歓喜の声の奥で、誰かが低く、呟いたように聞こえた──終わりではない
ミナミが生まれてから、家に戻った日々は束の間の安堵に満ちていた。しかし、それは長くは続かなかった。生まれて一か月──夜空は再び恐ろしい周期に入る。村の古い暦とジャワの慣習が重なったその夜は、ちょうどジュマ・クリウォンとジャワ暦のスロが重なり、しかも満月の頂点で月食が起きるという、めったにない天文の巡り合わせだった。空は薄い雲を孕み、月はやがて赤黒く染まるだろうという嫌な予感が、村全体に低く垂れこめていた。
午後九時。ナズリル、アラキ、そしてヨシカゲは、村を見下ろす丘の頂に並んで立っていた。そこからは、彼らの家も、集落も、そして広がる深い森のすべてが見渡せる。夜風が冷たく頬を刺し、遠くで虫の声が断続的に聞こえるだけの静けさの中で、三人は懐中電灯や双眼鏡を用意し、異変を注視していた。ヨシカゲは森の守り手たちを集め、訓練を受けた約二十人ほどの者たちを連れてきていたが、その大半は今、森の中で散開し、土地の要所を固めている。丘の上には、主に監視と指示を出す面々が残っていた。
「これほどの天文現象が重なるのは、単なる偶然ではない」ヨシカゲは低く呟く。彼の目は夜空を凝視し、指先で方角を示した。「東の空、だいたい四十五度の位置だ。ここから見て上の方だよ。」ナズリルは望遠鏡のレンズを通してその方角を覗き込む。最初は普通の雲の列に見えたが、やがてそれらが連なり渦を巻き始めるのがわかった。雲は互いに引き寄せ合い、まるで空中で何かが呼応しているかのように円を描いて一箇所へ集束していく。
そしてほぼ同時に、月が徐々に赤みを帯び始めた。満月が血のような色に変化し、その光が地上の色をねじる。四十五度の方角で、雲の渦は明確な“穴”を開け、そこへ赤い月が沈むように見えた。渦は中心に向かって力を持ち、空全体の風の流れが乱れ始める。葉が逆巻き、鳥が悲鳴のような声をあげて空へと飛び去る。村の向こう、森の端で何かが一斉に蠢き出した。
「見ろ、あれは……」アラキの声が震える。丘下の集落の屋根々々に、異様な点滅が現れた。単なる灯りの消えかたではない。家々の周囲に赤い小さな光が瞬き、黒い影が屋根を滑るように移動している。まるで無数の“眼”が村全体を巡回しているかのようだ。ナズリルの胸に、初めて本物の恐怖が広がる。彼は家族のいる南方の方向を指さし、唇を噛んだ。
ヨシカゲは無線を取り出し、森の中の班へ指示を出す。だが返ってくるのは断片的な報告だけだ。「赤い目が見えた」「遠吠えのような声が森の中から来る」「弾が空を切る」―その声は徐々に焦燥に満ちていた。訓練を受けた者たちも、変化の速度には驚きを隠せない。二十人の力は心強いが、今彼らが森の何処で直面しているのかを丘の上から正確に把握することはできない。何よりも、家の近くにいる者たちの安全は保証されていない。
渦は拡大し、やがて夜空に黒い筋が走る。風が急に乱れ、木々の幹がきしむ音が丘にも届いた。遠方の道を一台の車が慌てて走り抜けるのが見える。誰かが家に駆け戻ろうとしているのだ。ナズリルの心臓は激しく打ち、アラキは拳を握り締めている。彼らは双眼鏡でさらに森の奥を探ると、点在する黒い塊が次々と立ち上がり、まるで生き物の群れのように渦の方向へ向かっているのが見えた。赤い目があちこちで瞬き、群れは増殖している。
「こいつらは一か所から生まれているわけじゃない」ヨシカゲは低く言う。「土地そのものが――呼応している。祭り、埋葬、古い怨念、そして今日の月の巡り。すべてが結びついた。」ナズリルは冷たい夜風に顔をさらし、声にならない怒りと恐怖が入り混じる。家族、ミナミ、ハルナ、レザ。彼の胸にこの場を離れ、家へ向かう衝動が湧き上がるが、同時にここで指揮しなければならない責務もある。
九時ちょうど、空の渦が一層鋭くなり、月食が進むにつれて月の赤は深みを増す。渦の中心部で、かすかな光の筋が蠢き、やがてそれが空へと落ちてくるように見えた。その瞬間、丘の下、家々の屋根々で一斉に小さな影が立ち上がり、闇へと跳躍した。ヨシカゲの傍らで立っていた青年が顔を歪め、無線を落とした。「……見ろ、増えてる……!」と叫ぶ。
三人は互いの顔を見合わせた。空は正常ではない。森は遠からず動く。村は危機に瀕している。だが峰の冷気と渦のうねりが、まだ彼らをそこに留めている。ヨシカゲは深く息を吸い、二十人の班へ「退避ではなく収束だ」と短く命じる。ナズリルは南を指差しながら、「俺は家に戻る。だが、今ここでの行動が家族を守るために必要なことならば、皆に任せろ」と言い放つ。
その瞬間、赤い月から一筋の黒い帯が降り、森の奥深くへ吸い込まれていくように見えた。空気が割れるような音がして、丘の上にいた鳥たちが一斉に飛び去る。ナズリルの心にはただ一つ、揺るぎない決意が宿った――家族を、そして村を守るために、どんな代償を払ってでも戦うと。
だが、その戦いの全容は、まだ誰も知らなかった。空の渦は深まり、夜は赤く、そして重く沈み込んでいく。
丘の戦いがひとまず収束したあと、ヨシカゲは約二十人の班を森に残し、ナズリルとアラキ、そして彼自身が急ぎ家へと戻った。空はまだ赤黒く、村の輪郭は異様に沈んで見える。胸に宿る焦りを押し殺しながらも、三人は足を速めた。村へ向かう道すがら、無線越しに聞こえる断片的な報告はどれも不穏で、誰もが何か最悪のことを直感していた。
家に着くと、最初に彼らを迎えたのは、異様な気配とともに漂う湿った匂いだった。ナズリルは玄関の戸を勢いよく開け、一歩踏み入れると――その視界に広がった光景に身体が強張る。レザの部屋の扉が半開きになっており、中からは無数の黒光りしたものがぞろぞろと這い出してきている。数え切れないほどのゴキブリが、壁を、床を、家具の隙間から這い出してきて、部屋中を埋め尽くしていたのだ。
「何だ、これは……!」アラキが声を上げ、ムラヤマは思わず手を口に当てる。レザはまだ幼い顔で立ち尽くし、目を大きく見開いている。彼は飛び上がるようにして母のもとへ走り寄った。「お母さん! ゴキブリが──」しかし、ハルナはそのとき別のことで慌てていた。床に寝かせておいたミナミの寝かしつけが気になり、慌てて赤ん坊のいる部屋へ走り出したのだ。レザは一瞬戸惑い、母に言われるまま「ミナミを見てて」と小さな声で頼まれ、母の代わりに赤ん坊を見守ることになった。
だが「見てて」と言われたその瞬間が運命の分岐だった。レザは母の背を見送り、そわそわと部屋の隅のゴキブリを見下ろす。恐怖と嫌悪が入り混じり、彼は早くその場から逃れたい衝動に駆られた。急いで母を追おうとしたその時、ムラヤマとアラキ、ヨシカゲがレザの部屋に飛び込み、床に這う虫たちを払いのけ始めた。三人は必死でゴキブリを追い出し、ほうきや火で追い散らす。数分間の騒ぎは、まるで別の侵略のように激しかった。
突如、家の中の電気がパチッと切れた。闇が一瞬で襲い、蝋燭もランタンもない場所では息を呑むほどの暗黒が広がる。家には窓がほとんどなく、月明かりはわずかにすき間から漏れるだけだった。三人は慌ててローソクを掴み、家の端に置いてある古い蝋燭台へ向かった。そこは採光がなく、夜の闇に包まれる場所だ。ナズリルはポケットからマッチを取り出し、手早く擦った。
一度、二度、三度。マッチの火は、奇妙な風に吹き消された。二度目のとき、アラキは顔をしかめ、周囲を見回す。「風なんてないはずだろう」ヨシカゲは低く唸る。ナズリルは三度目を擦り、火がようやく燃え上がる直前に――背後で何かが動いた。振り返ると、暗闇の輪郭の中から、あの“黒い塊”がぼんやりと立ち上がっていた。闇よりも黒く、表面は光を吸い込むように鈍く、二つの目が小さく赤く光る。まだその姿は完全に近づいてはいなかったが、背筋に冷たい何かが走る。
「そ、そこにいるな……」ヨシカゲの声が震えた。三人は一瞬にして身構えた。だが、黒い存在はすぐにこちらを脅かすような大きな動きをせず、静かに鼻先をかすめるようにその場に佇んでいるだけだった。ナズリルの心は矛盾した感覚で満ちていた。恐怖と、もはや論理を超えた現実への直感。だが時間は容赦なく進む。
その時、ハルナが玄関から駆け込んできて、「ミナミ! ミナミを抱いてきて!」と叫んだ。彼女の顔は真っ青で、恐怖と疲労が混じっている。レザは急いで赤ん坊の寝室へ向かうべきだったが、ゴキブリの軍勢と黒い影に対処する役目で足を止められている。慌てて部屋を抜け出そうとするが、床はまだ小さな虫で波打っている。時間は一瞬一瞬を削り取る。
ハルナが叫んだその瞬間、彼女の目の前で空間がゆがんだ。小さな手が、白い毛布の上からすっと伸びるのが見えた。次の刹那、ミナミの寝床は空っぽになっている――布団のシワだけが、赤ん坊がそこにいた証拠として残った。誰の手もミナミを抱いてはいない。あたりにいた全員の足がすくみ、時間が止まったように思えた。
「ミナミが、いない!」ムラヤマが叫び声を上げ、アラキはその場で飛び跳ねるようにして赤ん坊の寝室へ駆け込んだ。ヨシカゲは古い巻物を取り出し、低い音で呪文を唱え始める。ナズリルはもう理性を保てそうになく、叫びながら家の中を駆け回った。暗闇の中で、どこか遠くで赤い瞳が一瞬光った気がした――それは、森の方か、壁の向こうか、それとも空間の裂け目の中か。
家族は崩れ落ちるように泣き、怒り、手当たり次第に家中を探し回った。だが、月明かりの名残りだけが彼らの足元をやわらかく照らし、ミナミの行方はまったく掴めない。時間は水のように流れ去り、夜は深く、そして赤い月が空で贖罪のように輝いている。
ナズリルは嗚咽を抑えながら、崩れかけた家族を見渡し、ひとつの決断を固めた。「必ず取り戻す。どんなものが相手でも、家族を取り戻す」と低く誓う。ヨシカゲは巻物を握りしめ、アラキは拳を白く握る。レザは震えながら床に座り込み、目に涙をためている。彼らの胸に刻まれた恐怖は、もはや個人のものではなく、何かもっと大きな戦いの号砲となっていた。
暗闇の中で、何かが――遠くで、また小さく赤く光った。時間は残酷に刻まれ、彼らの追跡は今、始まったばかりだった。
レザは蝋燭一本だけを手に、暗くなる家じゅうを駆け回っていた。床板は冷たく、蝋燭の炎は小さく揺れ、彼の影が壁に伸び縮みする。家族の大声や泣き声は背後でまだ続いていたが、レザの耳にはただミナミの「くーくー」というかすかな寝息の残像が蘇り、その声を探すことだけが彼を動かしていた。
声は前だ、後ろだ、右、左、上、下――あらゆる方向から絡みつくように聞こえた。時には床の下から「…クー…」と甘く囁き、時には天井の隙間から高く上ずった音が落ちてくる。レザの心臓は太鼓のように鳴り、足は勝手に浴室へと向かっていた。なぜかそこに行けば妹の匂いがするような気がしたのだ。
浴室の戸を押し開けると、濡れた床に微かな反射だけが見えた。扉は内側から施錠されているように見え、鍵がかかっていないのに固く閉まっている。レザは「ミナミ!」と叫んでから、中を覗き込んだ。そこにいたのは、黒い影のような「何か」だった。闇の塊は一瞬にして人の形を取り、にゅっと伸びた細い手がレザの足首に触れた。蝋燭の光がその表面を舐めると、赤い小さな光が二つ、目の位置で瞬いた。
「やだ、ちが…」レザは震え声で叫び、浴室の中の狭い空間に押し込められていく。扉は内側から固く閉まり、鍵をかけられたように見えた。影は静かに、だが確実に、少しずつレザの周りの空気を変えていった。彼は必死に手を伸ばし、ノブを回し、叫び、泣いた。しかし声は外へまともに届かず、むしろ影の中で反響して小さくなっていく。
廊下でそれを聞いたハルナは、悲鳴を押し殺して突進した。ムラヤマも追いかけ、二人は浴室の扉を叩き続けたが、ノブはびくともしない。諦める間もなく、彼女たちは体当たりで扉を破り、鍵をこじ開け、浴室の中へ飛び込んだ。中にはレザが仰向けに崩れ、顔は涙と泡でぐちゃぐちゃになっていた。彼を抱き起こすと、彼の小さな体は震え続け、目の焦点は定まらなかった。
だが、浴室の隅――ミナミの寝床があった場所は空っぽだった。濡れた毛布だけがしわくちゃになって床に残り、生後一か月の赤ん坊を包んでいたはずのぬくもりは消えていた。ハルナの悲鳴がもう一度家を震わせ、ムラヤマは狂ったように部屋を探し回る。だが答えはどこにもない。
混乱と喪失の中、ヨシカゲは古い巻物を広げ、低い声で促した。「皆、中央に集まれ。今できるのは、一つの場に結集して、古い言葉を合わせることだ。」彼は手早く家族と数名を居間の中央へ導き、古びた布や塩を円形に置いた。炎はまだ小さく揺れているが、外の世界は深い黒に包まれている。
ヨシカゲは巻物の上に手をかざし、まずは日本語での短い祓いの句を読み上げた(ラテン化表記つき)。
「祓え給え、清め給え。」(Harae tamae, kiyome tamae.)
声は屋根裏まで届くように低く、しかし確かなリズムで繰り返された。
次に、ナズリルがポケットから取り出した古い紙片――彼の親から受け継いだというケジャワンの断片を広げる。文字は不確かで、色あせているが、そこには彼らの家系が守ってきた言い回しが記されていた。ナズリルは震える声でジャワ古語の節を呟く。ヨシカゲも彼の声に呼応して、二つの異なる言語を交互に唱え始める。ラテン化して記すとこうなる──
ジャワ古語の節(ローマ字):
(アッダ・アーラ・バーリー・ニャワ・バーリー・ンゲンディー・バーリー・マリー・アッダ・アーラ・バーリー・ニャワ・バーリー・ンゲンディー・バーリー・マリー)
ヨシカゲの「縄」の読み(ローマ字):
(ネージ・ナグー・オーモー・アイアー・ケーズ・キャーアリー・ナサイ・ネージ・ナグー・オーモー・アイアー・ケーズ・キャーアリー・ナサイ)
(※文言は物語上の呪言として示されています。実在の儀礼文の完全な再現ではありません。)
二つの言葉が交差すると、不思議な振動が家の中心に満ち始めた。空気は重く、古い家の柱がきしむ。塩を撒く手の動きと巻物の文句が重なり、家族は全員で声を揃えようとする。だが、しばらくしてナズリルとヨシカゲの顔が急に青ざめ、二人は言葉の途中で目を見開いたかと思うと、その場に倒れ込んでしまった。彼らの意識は外側の現実からいっぺんに剥がれ落ち、深い闇の縁へと引き寄せられていく。
気がつけば、ナズリルとヨシカゲの瞳は遠くを見つめ、呼吸は浅くなり、手は微かに震えている。二人の精神は「別の場所」へ押し出されたのだ。そこは光と闇が混ざる薄い空間で、遠くから幼い泣き声が聞こえた――ミナミの、かすれた泣き声。声は近付いたり遠ざかったりして、どこにあるのか決定できない。ナズリルの胸に、切迫した恐怖が突き刺さる。
彼らの目の前に広がるのは、不気味に明滅する森の景色と、そこに蠢く黒い群れの影。どこからともなく古い歌が流れ、ジャワ語と日本の古語が交互に重なる。二人は互いに手を伸ばし、言葉を探すが、声は薄く、世界は粘りつくように重い。そこに、かすかな光が揺れて見えた。赤ん坊の泣き声はますます明確になり、ナズリルの心臓は勢いよく打ち始める。
「ミナミ…!」ナズリルの口が、意識の奥底から絞り出した。ヨシカゲは痙攣しながら巻物を握り緩めるが、その指先にも泥のような冷たさが伝わる。彼らは知らぬうちに、二つの世界の“狭間”に取り込まれていた。現実では家族が床に集まり、ナズリルとヨシカゲを見下ろして必死に声をかけるが、二人の魂は別の声に導かれ、最も恐るべき光景へと押し出されようとしていた。
そのとき、遠くで一つの明るい声――レザの嗚咽混じりの叫びが、薄い空間を断ち切るように響いた。闇側の反応が一瞬ひるみ、赤ん坊の哭き声がより近くなった。だが二人の前に広がるものは、まだ言葉にできないほど禍々しい形をしており、それはこれからナズリルとヨシカゲが直面する「一番怖いもの」へと導いていく予兆に他ならなかった。
家の現実と、彼らの魂が迷い込んだ場所――二つの時間が不安定に交わる中、夜は深まり、家族の祈りはさらに激しさを増していった。だが――救出と祈りが間に合うのか。赤い月は黙したまま、すべてを見下ろしていた。
夜の裂け目の奥、ナズリルとヨシカゲは薄い世界の狭間で対峙していた。そこに立っていたのは、人の形を模しながらも光を吸い尽くすような黒い塊──巨大なオニだった。腕には白く痩せた赤ん坊を抱き、赤い瞳は冷たく光っている。ミナミは身体を震わせ、薄い布の中で目をぎゅっと閉じていた。オニの唇から漏れるのは古い呪詛の響き、ジャワと日本の古語が混ざった不協和な歌だ。
ナズリルは目の前の現実を一瞬で噛みしめた。家族を守るという単純な決意が、身体の芯から沸き上がる。ヨシカゲは巻物と瓶を握りしめ、低い祈りを続けながら、ナズリルと目を合わせた。二人の間には言葉は要らなかった。合図と理解だけで、作戦は一瞬で固まった。
まずヨシカゲが前に出る。彼は古い祓詞を低く唱え、瓶の中の液を地面にまくように振るう。液は空気に触れると青白い光の糸を吐き、オニの足元を焦がすように広がった。オニは短くうなり、ミナミを抱き替えながら身を屈める。だがその牙のような笑みは消えない。すぐさま、オニは鋭い一撃でヨシカゲを押し払い、黒い腕が鞭のように振るわれる。ヨシカゲは踵を返し、体勢を戻すが、その横でナズリルは距離を詰めていった。
ナズリルは信念を拳に込め、オニの脚へ飛び蹴りを入れる。だがオニは異様な素早さで受け流し、逆にナズリルの腹に強烈な一撃を返す。痛みが走るが、ナズリルは立ち上がる。彼は銃を向けるが、銃弾は再び空を切るか、虚無へと溶けていく。物理の力だけではこの存在に通じないことを、彼は既に知っていた。だから彼は拳と祈りを、同時に行う。
ヨシカゲは次に古い符をオニの顔面へ投げつけ、そこに刻まれた文字が薄く光る。文字はオニの皮をかすめると、焼けたような音を立ててはじける。オニは激しくのたうち、赤ん坊の重みを支えたまま唸り声を上げる。その声に、二人は一時的に後退を余儀なくされるが、二人の心は揺らがない。
戦いは格闘技のようにも見えた。ナズリルは地上の経験で培った打撃と投げ、ヨシカゲは呪術の短い合図と小道具で牽制する。オニは素早く、しかも狡猾だった。鉄拳も、鎌のような手も、時に彼らを翻弄する。だが二人は連携した。ヨシカゲが術を放ち、ナズリルが瞬間的にその隙を突く──それを何度も繰り返した。
クライマックスは瞬間の読み合いで訪れた。オニがヨシカゲに向けて全力でうなり、両腕で押し潰そうと体を縮めたその刹那、ナズリルは反対側から全力で飛び込み、ちょうどオニの肩口に向かって肘を打ち込んだ。同時にヨシカゲは口から最後の締めの言葉を叩き込み、掌に力を込めてオニの胸元へ巻物を打ち当てた。
二方向からの攻撃が重なった瞬間、空気が裂けた。オニの表皮がひび割れ、赤い光が内側から爆ぜるように散った。オニは喉を鳴らすように大きな叫びを上げ、白い煙が立ちのぼる。ミナミは布の中で小さく泣き、すぐにヨシカゲが素早く抱き上げた。オニは最後の力を振り絞って手を伸ばしたが、ナズリルはそれを受け止め、両手で押し返す。黒い塊は徐々にほころび、小さな破片となって風に散っていった。最後にオニは軋むような音を立てて崩れ、月光の中で消滅した。
静寂が降りる。森のざわめきが戻り、二人は膝に手をついて息を整えた。ヨシカゲはミナミを胸に抱き、赤ん坊の小さな体を確かめる。ミナミは泣き止み、安心したように眠りのそぶりを見せた。ナズリルは泥だらけの手を顔に当て、目を閉じてからゆっくりと力を抜く。胸の奥で溶けかけていた恐怖が、ほっと薄れていくのを感じた。
「戻るぞ」ナズリルは低く言った。二人は現実へと引き戻され、思わず互いの肩を叩き合った。家へ戻ると、居間は歓喜と嗚咽に包まれていた。ハルナは泣きながらミナミを抱きしめ、レザは目を真っ赤にして駆け寄った。アラキやムラヤマ、集まった村人たちも皆、安堵の涙を流している。ヨシカゲは短く微笑み、ミナミをハルナの胸に戻した。
だが、勝利の余韻はすぐに決断へと変わった。家族は互いを見つめ合い、疲労と安堵の中で静かに頷いた。ナズリルはハルナに囁く。「もう、ここには居られない。家族を守るには、もっと安全な場所が必要だ。オオサカに戻ろう。」ハルナはミナミを胸に抱え、涙をぬぐいながら力強く頷く。レザは小さな声で「ミナミと一緒に行く」と言い、みなもそれに続いた。
翌朝、彼らは荷物をまとめ、夜明け前に家を出る準備をした。村の空はまだ赤い月の余韻を残しているが、家族の顔にはかすかな笑みが戻っていた。オニは倒されたが、記憶と傷跡は消えない。だが今は何よりも、ミナミが無事であることが全てだった。彼らは静かに新しい一歩を踏み出す準備をする――痛みと恐怖を経て得た、ほんの小さな平穏を胸に。
年月は静かに流れていった。あの満月の夜から何年も、ナズリル(ナズリル)たちの生活は喜びと喪失が混ざり合った日々だった。恐怖の記憶は決して完全に消えず、夜になるとふとした物音に誰もが身をすくめた。しかし同時に、家族としての絆は深まり、互いを守る意志は揺るがなかった。
やがて、良い知らせが届く。林野庁(リンヤショウ)は、ナズリルのこれまでの尽力を正式に評価し、オオサカ支部への昇進と転勤を決定した。ヒメジマ大臣(ヒメジマ)からの感謝状と握手は、彼らにとって重いものだった。官の決定はまた別の意味を持っていた──危険にさらされた古い家屋は、地元と政府の協議により解体され、焼却処分にすることが決まった。土地に残る負の痕跡を封じるための措置だという。
家族は複雑な思いで古い家を見送った。悲しみもあったが、燃え落ちる木々の炎の向こうに、誰もが少しずつ軽くなるような希望を感じていた。家が灰になっていくのを見ながら、ナズリルはそっとハルナ(ハルナ)の手を握った。二人は目を合わせ、無言のまま未来を選んだ。
オオサカでは、新しい生活が待っていた。都市の雑踏と明かり、便利さに、家族は少し戸惑いながらも次第に馴染んでいった。アラキ(アラキ)とムラヤマ(ムラヤマ)も間もなく新たな命を授かり、ユカコ(ユカコ)という娘が生まれた。村の出来事は遠い過去のように見えることもあったが、彼らは互いに支え合い、小さな幸せを積み重ねた。
文化は異なれど――ジャワのケジャワンと神道の習慣、家庭ごとの習わしや食卓のリズム――ナズリルとハルナは自分たちのルーツを大切にしながら、オオサカでの暮らしに調和を見出していった。たまに二人で昔話をすることはあっても、口調はおどけたり、笑い飛ばしたりして、過去の重さを少しだけ軽くする術を学んでいた。
子どもたちはスクスク育ち、レザ(レザ)は兄としてミナミ(ミナミ)を可愛がり、ユカコもすぐに家族の一員として馴染んだ。街の公園や商店街、学校行事に参加するたびに、彼らの笑顔は確かに増えていった。恐怖の夜は完全には消えなかったが、日常の中の小さな安心感と互いの愛情が、その陰を薄めていった。
ヒメジマも時折家族を気にかけ、公式の場とは別に親しい声でねぎらいをかけてくれた。ナズリルは公務に励み、家族を養いながらも、森への責任と敬意を忘れなかった。彼らは決して過去の恐怖を否定せず、教訓として次世代に語り継ぐことを選んだ。
やがて季節は巡り、赤い月の記憶は家族の語り草となった。「あのときはマジでヤバかったね」と笑いながらも、互いの肩を抱きしめる瞬間が増えた。文化の違いが壁になることはなく、むしろ二つの伝統が家の中で響き合い、新しい形の「家族のルール」として根付いていったのだ。
終わりに──彼らはもう一度、空を見上げる。満月が出る夜もあるが、今は静かで穏やかだ。恐怖を乗り越えた先にあるのは、平穏だけではなく、「選んだ生き方」と「互いを守る決意」だった。彼らはもう、あの山の家に戻らない。だが、そこで得た絆と傷跡は、一生の財産となった。
そして、ある日レザが幼いミナミとユカコを連れて小さな遠足に出かけるとき、ナズリルはそっと笑って言った。
「行こう、新しい町で、新しい毎日を作ろうぜ。」
完。