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2014年1月5日この日超激痛と共に病との戦いはスタートした。「超激痛と言うのは」【僕自身格闘技をやっていたから度々骨折をしていた中で、普段から骨折で痛みで判定をしている。】その日の胸中心より握り拳1個分右側と背中に対して突き抜ける激痛がとつじょ訪れた。その激痛の難易度は腕をへし折られる3回分以上の痛みだ。もう死に至るレベルに近いだろう。病院の救急で海○○総合に運ばれた僕は、救急外来に運ばれ喋る余裕なんてないのに、色々聞かれ説明をやっとした。だが僕に執刀した先生がなんと研修医の新人だった事を後にしる。こんな激痛の中、診断とレントゲンとCTの結果は便秘と判定され食べすぎましたかってきかれ痛み止め点滴の後に歩く事もままならないなか、夜中に電車も始発で帰らせられた。だが最寄り駅に妻に抱えられやっと着いたが、僕のお腹は、もう耐えれる余裕は全くなかった。またしても運ばれた。病院につくと先程の医者が出てきて普通の顔してどうしましたと、また聞いてきた!こいつふざけてるって本気でイラついてしまっていたが、そんな余裕さえ無い中で、僕を診察した先生の上司になる人が現れCT等を確認した、その瞬間誤診と僕達夫婦の前で最初から担当した医者にどこ見てるんだってこんな状況見た事ないような診察室状態になり、最初から見た医者は、僕達夫婦にすごい謝罪をしてきた。だがいまはそれどころでは無い。治療をして痛みを和らげてほしいのが先決だった。そく入院で継続麻酔の一番強い臓器とか事故で出てしまった人とかに使う麻酔を1週間継続で使う事になり、それでも痛みは、ずっと本気で、つねられてらる以上の痛みが腹の中であった。1週間の中で痛みがとにかく治るまで色々造影CT・造影MRI・内視鏡検査・さまざまな検査をした。痛みが治まりだしたら、違う病院まで一度運ばれペット検査もして、またその日に病院を移動とか色々された。それが膵臓と十二指腸の最初の戦いだった。2週間が経ち、やっと痛みも治まってきた。だがここからが戦いだった。僕はこの世に生をうけてから、もともと肉と米を食べる習慣があまりなかった。【何故なら、元々親は居なく当時の施設は、国からの援助とかほとんど無く、ましてや施設を出る際の支援金なんて1円も無い時代で、小学生の時から将来生きる為のバイトをさせられるような時代だった。だから肉なんて贅沢な物は、まず食べた事が無く、廃鶏肉ってやつを頂きたまに食べさせていただけるような時代を出たからだ。】まず病院からの指示が、この先脂質は1日25グラムまでと指示がでた。僕は元々料理人だから、すぐにわかった。脂質25グラムとは、鳥胸肉かたまりの半分くらいだ。この先食べれる1日の摂取量だ。カロリーは、それでも1800カロリーは摂取しなければならない。普通の膵炎なら激痛ではあるが、僕の病気に比べたらだいぶ楽らしい。僕の膵臓は水泡が2個あり膵液も出る事で、これらが原因か十二指腸が鉛筆が通るか通らないかくらいの細い穴しか空いてない状況らしい。元を正す原因が普段の私生活でも血液検査等でも何も出なくわからなく、もしかしたら遺伝かストレスや疲れとかも原因の要因らしい。それから僕は度々入院と、とんでもない量の非常に強い痛み止めと種類多すぎる10種類以上の薬を、毎日朝夜飲む生活になった。
日常に帰って仕事についても、急に痛くなり、休むはめになり、会社に申し訳ない気持ちになりながら、周りの目を気にして働いたりで空気的に辞める方向になっていき退社する事になってしまう。そんなこんなを繰り返しもうアルバイトに代わるが、やはり同じで、また急に痛くなってしまえば、痛みが和らぐまでまた1週間近く休むはめになってしまいやはり辞める事になる。こんなを繰り返すが毎月多額にかかる病院代や払いきれて無い入院費や仕事もまともにつけてないのに国から年金や税金の赤札をいくら説明して話しして払えないって言っても払えって手紙を送り続けてくる。もう火の車状態の中妻は何も言わず、ただ僕の体を心配し治そうと頑張ってくれている。8年間で約2週間から、ひと月半の入院を三ヶ所の大病院でたらい回しにされ6回して何度も地獄の激痛と戦い現在2022年7月22日僕は北○大学病院で8月10日の手術の為入院している。
病気はいつ何時来るかわからない。病院が好きな人なんて居ない。簡単に病院にかかる人達に、【自分「わたし」病院かかるの嫌いだから熱とか風邪とか色々自力で治しちゃう!】なんて頭の悪い発言をしてほしくない。ほんとうの苦しみをただあなたは、知らないだけだから。歳がきて経験した時に誰も心配も見舞いも、そんな人には来てくれなくなってしまいますよ。
痛みがわかる人達だからこそ、人に他人にその分、優しくなれるし言葉を選べるようになるのが人間なんだから。