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灰色の空が、世界の蓋のように低く垂れ込めていた。降っているのは、雨というよりは重く冷たい霧に近い。音もなく降り注ぐ無数の細い針が、晩秋の枯れ野から色彩を奪い、死を思わせる湿った土の匂いをむせ返るほどに立ち上らせている。分厚い外套の革が湿る匂いと、まとわりつくような冷気が、皮膚を通り越して骨の芯まで容赦なく染み込んでくるようだった。
街を眼下に見下ろす、風の吹きさらしの丘。そこに点在する粗末な墓標の中で、ひときわ真新しい石の前に、剣聖ジークは音もなく足を止めた。
飾り気のない、ただ切り出されただけの四角い石。そこに刻まれているのは、”地方監査官フラスニイル”という肩書きと名だけだ。かつて互いの背中を預け合い、一度はこの理不尽な世界を共に変えようと誓った男の最期にしては、あまりにも簡素で、ひどく寒々しかった。
ジークは、冷たい雨に打たれる石柱のように突っ立ったまま、身じろぎ一つしなかった。両手を合わせて祈ることもしない。手向けの花など似合う男ではなかったし、自分もそんなものを供えるような気の利いた柄ではない。ただ、無言でそこに居ること。それだけが、剣に生きる不器用な彼なりの、唯一の弔いの儀式だった。
「……終わった」
重い鋼を擦り合わせるような低い声は、雨音に溶けてすぐに消えた。
「お前が残した厄介事の処理は、すべて片付けた。上層部への根回しも、書類の偽造もだ」
それは、友の墓前での感傷的な祈りというよりは、かつての同僚に対する冷徹な定時報告のようであった。
「記録は王都の地下書庫の最奥へ封印済みだ。今後、あの一件が表に出ることはない。安心しろ」
吹き抜けた一陣の風が、足元の枯れ草をカサカサと虚しく鳴らす。石の表面を伝い落ちる雨粒が、まるで流れる涙のように見えたが、ジークは即座にその感傷を振り払う。石は泣かない。死人は、もう何も語らない。
「……これで、よかったんだろう」
誰に向けたわけでもない問いかけに、当然、返答はない。この冷たい土の下にあるのは、永遠の沈黙だけだ。
ジークは、ひどくゆっくりと視線を落とし、自らの右手を見た。黒い革手袋に包まれた、分厚く無骨な手。剣を極め、国を守り、そして無数の命を刈り取ってきた手だ。鉄の重みも、肉を断つおぞましい感触も、血の匂いも、とうの昔に日常の一部となっていたはずだった。
「……あの時も」
言葉が砂を噛んだように、喉の奥でつかえる。
この手が、剣を抜いた。
この手が、一切の迷いなく刃を振り下ろした。
全てを悟り、覚悟を決めて微笑んだお前の命を――俺自身が、断ち切った。
黒い革手袋に残るその生々しい感触は、この冷たい雨をもってしても、一生洗い流すことはできない。肉を断った瞬間の、あの絶望的な重み。最期の瞬間に彼が浮かべた、すべてを託すような安堵の目。それが、真っ赤な焼印のように、掌の奥深くまで焼け焦げを作って残っている。
長い沈黙が満ちた。雨が分厚い外套を執拗に叩く音だけが、等間隔に、残酷に時を刻んでいく。
「……ユスティナが戻らない」
強固な鉄の仮面に、ほんのわずかな亀裂が走る。独り言のように、ぽつりと落とされた声だった。
「極秘で捜索は続けているが、痕跡ひとつ残しちゃいない。あの馬鹿弟子め……」
事実は簡潔に。感情は決して挟まない。それが、俺たちの流儀だったはずだ。しかし言葉の端が、雨の冷たさとは別の理由で微かに震えていた。
「……なあ。お前なら、こんな時、どうした」
灰色の虚空に向かって問いかけてから、ジークはすぐに、自嘲気味に首を横に振った。意味がない。どんなに願っても、悪態をつきながら正しい道へ導いてくれた背中は、もうどこにもない。迷いを断ち切ってくれる、あの呆れたような叱責の声もない。俺はこれからも、この理不尽な世界で一人で判断し、一人で地獄を背負って立ち続けなければならないのだ。
冷気で指先が徐々にかじかんでいく。ジークは外套の中で、爪が食い込むほどに拳を強く握りしめ、そして、ゆっくりと開いた。熱を失っていくその手を、痛みが走るほどに何度も開閉させる。自分がまだ、血の通った人間として生きていることを確認するように。
「こっちは……それでも続く」
雨に濡れた墓標を見下ろし、別れを告げるように短く言い放つ。
「俺はまだ、終われない。終わるわけにはいかないんだ」
それは亡き友への誓いであり、自らに課す重い呪いでもあった。ジークは濡れた鍔広の帽子を目深にかぶり直し、微塵の迷いもない動作で踵を返した。踏み出した足元の泥が、ぬちゃりと重い音を立てる。
一度も、振り返らなかった。背後に残したただの石ころに、未練などない。そう、己の魂に強く言い聞かせるように。歩き出したその巨大で孤独な背中を、氷雨が容赦なく打ちつけている。
丘の上には、飾り気のない墓標だけが残された。ただ静かに、決して泣くことのない男の涙の代わりに、降りしきる雨に濡れ続けていた。