テラーノベル
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ドレスは、四着あった。
応接間の長椅子に、芘沢が並べていた。黒。深い緑。灰色。藍。どれも、ことはが店で一年働いても買えない値段に見えた。
「坊ちゃまが、ご用意を、と」
「……氷川さんが」
「夜会のお召し物は、妻の分も家で用意するものだと。本店の、婦人服の売り場から、今朝届きました」
芘沢は、藍のドレスの裾を直す。ことはは、四着を見て、藍の布に指で触れた。柔らかくて、冷たい。店の台に敷く藍色の紙とは、違う藍だ。
頭を下げた。
「すみません。これは、着られません」
「お気に召しませんか」
「借り物の格で、立ちたくないんです。妻として隣に立つのは、契約ですから。でも、着るものまで氷川のものだと、わたしが柊屋のことはじゃなくなります」
芘沢は、長椅子の端に手を置いて、何も言わなかった。
「母の着物があります。藍色の、訪問着。母が若いころに、祖母に作ってもらったもので。それで、行きます」
「……坊ちゃまに、お伺いしてまいります」
「わたしから言います」
言うつもりだった。言う前に、廊下の足音が来た。
遼が、応接間の戸口に立った。長椅子の四着と、ことはを見た。
「決まったか」
「母の着物で行きます。藍色の訪問着です」
遼は、ドレスを見た。それから、ことはを見た。
「それで行くのか」
「はい」
声は、はっきり出た。店のことだからだ。自分の着るもののことなのに、店のことだと思った。
遼は、しばらく何も言わなかった。言わないで、芘沢のほうを向いた。
「芘沢」
「はい」
「帯留めを出せ。祖母のを」
芘沢の顔が、少し動いた。
「……大奥様の、梅の」
「それだ」
遼はそれだけ言って、戸口から消えた。
ことはは、長椅子の四着を見ていた。四着のドレスは、着なくてよくなった。代わりに、遼の祖母の帯留めが出てくる。
借り物の格で立ちたくない、と自分は言った。遼は、ドレスを引いて、帯留めを出した。氷川の格ではなく、祖母の。
どう受け取ればいいのか、分からなかった。分からないまま、芘沢が持ってきた小さな箱を開けた。梅の花。白い石。古いものだと分かる、小さな帯留めだった。
「大奥様が、お嫁入りのときにお持ちになったものです」
芘沢は、それ以上何も言わなかった。
◇
母の訪問着は、二階の箪笥のいちばん下にあった。
「あんたが、これを」
母は、畳紙を開きながら言った。藍色。裾に、白い小さな花。祖母が母のために課えたもので、母は三度しか着ていない。
「夜会に、着ていく」
「氷川の家の人が、うちの着物でいいって言ったの?」
「言ってない。わたしが決めた」
母は、着物を広げた手を止めた。止めて、ことはを見た。
「……あんたらしいわ」
「それと、帯留めは、氷川さんのおばあ様のを貸してもらう」
母は、何も言わなかった。言わないで、着物の袖を直した。直しながら、小さく言った。
「変な人ねえ、あの人も」
父と同じことを言った。ことはは、答えなかった。
◇
店に、蓮田が来たのは、金曜の昼だった。
「春の催事の資料の回収で」
蓮田は鞄を抱えて、頭を下げた。春の催事。柊屋は外れたと、麗華に言われている。外れた店の資料を、回収しに来る。
「もう、うちは関係ないと聞いていますが」
「はい。……それでも、提出された書類は、お返しする決まりで」
蓮田は、ことはの目を見なかった。見ないまま、工房の帳場のそばに立った。ことはは、帳場の引き出しから春の催事の書類を出した。父が春に出した申込書の控え。催事部からの手紙。麗華の常設の紙は、断った日に捨てた。引き出しには、帳面と、その下の封筒だけが残っている。
「これで、全部ですか」
「はい」
そのとき、店先で母の声がした。
「ことは、山田さんが、羊羹の数を変えたいって」
「はい、今」
ことはは、工房を出た。店先で山田さんと話し、帳面を直し、戻った。二分か、三分。
蓮田は、帳場の前に立っていた。
立ったまま、ことはを見た。顔が、少し白かった。
「あの」
「はい」
「西園法律事務所って、お知り合いですか」
ことはの手が、止まった。
西園。契約書の封筒に、印刷されている名前。帳場の引き出しの、帳面の下。
「……どうして」
「いえ。あの、引き出しの、封筒が、見えて。知ってる名前だったので。本店の、顧問の」
蓮田は、鞄を両手で抱えた。
「すみません。見るつもりは。失礼しました」
頭を下げて、蓮田は帰った。商店街を歩いて行く背中は、いつもより速かった。
◇
ことはは、帳場の引き出しを開けた。
帳面。その下に、封筒。西園法律事務所。
入っている。
ことはは、封筒を取り出して、中を見た。契約書の控え。全部、ある。一枚も欠けていない。第七条のページの折り目も、そのままだった。
引き出しに戻す。
戻すとき、手が止まった。
封筒は、ことはが入れたときと、向きが違っている。
印刷された名前を、ことはは下にして入れた。帳面を出すときに、名前が見えないように。今は、上を向いている。
母が、店先から声をかけてきた。
「ことは、蓮田さん、何だって?」
「……資料の、回収」
「そう。感じのいい人ね、あの人」
ことはは、引き出しを閉めた。閉めて、手を置いた。感じのいい人。引き出しの中の封筒は、上を向いていた。
コメント
1件
うわあ、第17話、読み終わりました……。ことはが「母の着物で行く」と決めたところ、すごく良かったです。「借り物の格で立ちたくない」って、契約結婚でありながら自分のアイデンティティをしっかり持ってる姿勢が潔くて。で、遼がドレスを引っ込めて祖母の帯留めを持ち出させた返しも、なんだか印象的でした。単なる形式的な対抗じゃなくて、氷川家の“歴史”を差し出したように見えて。蓮田が封筒の向きに気づいて帰る場面も、背筋が伸びるような緊張感がありました。次、どうなるんだろう……続きが気になります!
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