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朝。王子の執務室。窓から差し込む光は穏やかで、何事もなかったかのように静かだ――外から見れば。
アシュレイは、書類に目を落としている。背筋は伸び、姿勢は完璧。ペンを走らせる手も、淀みがない。
いつも通りの王子――の、はずだった。
(……集中しろ)
自分に言い聞かせるが、紙の上の文字が頭に入らない。理由は分かっている。
昨夜、それ以上でもそれ以下でもない。
「……っ」
ペン先が、わずかに止まる。
思い出すな。そう命じても触れられた場所。離れなかった距離。抑えきれなかった熱。全部が鮮明すぎた。
(……本当に、やりすぎたな)
珍しく、反省がよぎる。だが同時に後悔はない。まったく。
「殿下」
目の前から声がかかる。書記官だ、反射的に顔を上げる。
「何だ」
声は平静、問題ない。完璧に戻れている――。
「次の会議の資料ですが――」
説明が続き、頷く。話を聞いて理解もしているが、ふとした拍子に椅子に座ったときの違和感が、身体をよぎる。
「……っ」
一瞬だけ、言葉が止まる。
「殿下?」
「……続けろ」
何とか繋ぐ。危ない、これは危ない。
(……顔に出ていないか)
自分でも分かる。普段なら、絶対に起こらない揺らぎ。それでも何とか保つ。
そのとき、扉が静かにノックされた。
「失礼いたします」
聞き慣れた声に、反応が一拍遅れる。
「入れ」
レオンが入ってくる。いつも通りの装い。いつも通りの歩幅――そして何事もなかったかのような顔。
(……おい)
内心で、思わず突っ込む。
(――なぜだ。なぜそんなに、平然としていられる。あれだけのことがあって)
レオンは書類を受け取り、机に置く。
「本日の護衛配置を報告します」
声は安定していて、視線も揺れない。完璧だ――腹立たしいほどに。
「……ご苦労」
アシュレイは短く返したものの、視線がほんの一瞬だけ逸れる。レオンの首元。わずかに見える、自分が残した痕跡。
(……見える位置だったか)
それを意識した途端に、思考が飛ぶ。レオンは気づいていない――それとも気づいていて、何も言わないだけか。どちらにしても質が悪い。
「以上です」
報告が終わる。本来なら、ここで退出するがレオンは動かない。
「……どうした」
先に口を開いたのは、アシュレイだった。レオンが、ほんの僅かに視線を上げる。そしてごく小さく笑った――珍しく。
「いえ」
短く、それだけ。その一瞬で確信する。
(……分かっているな)
全部。この状況もこちらの状態も。そして昨夜の続きが、まだ終わっていないことも。
「……用がないなら下がれ」
少しだけ強めに言う。余裕が削れている証拠だった。
「承知しました」
礼をして背を向ける。そのまま扉へ向かう――直前で足が止まる。
「殿下」
振り向かないまま、低く落ちる声。
「無理はなさらない方がいい」
一瞬、言葉の意味を測りかねる。だがすぐに理解する――分かって言っている。
アシュレイの眉が、ぴくりと動く。
「……誰のせいだ」
小さく返す。レオンは、ほんの僅かに肩を揺らす。笑っている、確実に。
「心当たりがありません」
平然と言い切る。
(……この男、昨夜はあれだけ理性を飛ばしておいて、朝はこれか――)
怒るべきか、呆れるべきか――いや、どちらでもない。これはただの仕返しだ。
アシュレイは息を吐く。そして静かに言う。
「……今夜、覚えていろ」
短い宣戦布告。レオンが、わずかに振り向き、目が合う。その瞳の奥に確かな熱が戻る。
「望むところです」
何の躊躇もない即答後、扉が閉まる。
アシュレイは椅子に深く座り直し、額に手を当てる。
(……平然など、無理だな)
苦く笑う。だがその表情は、どこか楽しそうだった。
***
夜。約束通り、すべての公務は終わっている。アシュレイは私室に入ると同時に、ふっと息を吐いた。
(……今夜は、こちらが主導権だ)
朝の一言。
『今夜、覚えていろ』
あれは宣言だ。揺さぶられた分、揺さぶり返して均衡を取り戻す。そのつもりでいた――いたのに。
「お帰りなさい、殿下」
先に声がして視線を上げる。そこに、レオンがいた。すでに待っていたように。
(……早いな)
ほんの一瞬、違和感が走る。だがそれ以上にその立ち方。距離・視線――すべてが、妙に落ち着きすぎている。
「お前……随分と余裕だな」
昼と同じ言葉を返す。今度は、こちらが試す番。レオンは静かに一礼する。
「準備しておりましたので」
「準備?」
聞き返したその瞬間。カチ、と背後で小さな音がした。その音に反応して振り向く――扉が、閉まっている。いや違う。閉まった、ではない。閉められた。
(……外からではない)
内側、つまりレオンが。慌てて視線を戻す。レオンが、ゆっくりと一歩踏み出す。逃げ場がない。物理的にではなく空気として。
完全に、囲まれている。
「……これは」
アシュレイが口を開くが、言葉が続かない。レオンが静かに言う。
「本日は、殿下の“ご命令”を優先いたします」
低い声。その中にあるものは、昼とは違う明確な意志があった。
「耐えなくていい、と」
その言葉で、一気に思い出す。昨夜、自分が与えた許可。そして――。
(……そういうことか)
理解した瞬間、レオンの手が伸びてアシュレイの手首を取る。強くはない。だが逃げられない。
距離が、一気に詰まる。
「……待て」
制止の言葉を口にしたのに、レオンは止まらない。
「命令でしたので」
淡々と答える。その目は、完全に熱を帯びていた。
「本日は、最後まで従います」
(……まずいな)
主導権を取って、揺さぶるはずだった。なのに、完全に逆転している。しかも理屈で自分の言葉で、逃げ場を塞がれている状況に置かれてしまった。
「……ずるいぞ、それは!」
アシュレイの呟きに、レオンはわずかに笑う。
「殿下に教わりました」
返しが正確すぎる。そのままさらに一歩、距離が消える。背が壁に触れる。完全に退路はない。レオンに捕まっている。
「……っ」
それだけで呼吸が乱れる。今度はアシュレイの上半身に、レオンの手がゆっくりと触れる。感じるように胸元に触れてから、指先がなぞるように下に降りていく。
でもあえて焦らすように、いいところで止まった。
「……続けても?」
アシュレイの耳元で低く問う。選択権を残しているようで実際には、もう答えは決まっていた。
アシュレイは、わずかに息を吐く。
「……許す」
短く返答したその瞬間、レオンの表情が変わる。完全に抑えていたものが、解放される。
距離が消えて触れられる。今度は迷いがない――だが粗暴ではない。あくまで確実に、逃がさないように。
「……これが、“覚えていろ”の答えです」
低く囁かれたことでアシュレイの耳元に息がかかり、思わずレオンの服を強く掴む。
「くそっ……想定外だ」
息の合間に、かすれる声。レオンが、わずかに笑う。
「それは光栄です」
完全に上を行かれた。主導権も流れも全部。でもそれが、悔しいかと言われれば。
「……悪くない」
正直な感想を告げると、レオンの瞳が柔らかくなる。
そのまま、さらに引き寄せる。もう遠慮はない。均衡は崩れた。崩れたままでもいい――この関係なら。
逃げ場はない。だがそれは閉じ込められているのではなく、互いに離さないだけだった。
最後まで閲覧、ありがとうございました。
#同級生