日下部は、狭い室内に一歩だけ踏み込んだまま、扉にもたれていた。
その顔に、ほんの僅かに浮かんだ笑み──
それは、悪意というより“軽い茶化し”のようなものだった。
「……どうしよっかな」
遥が、ピクリと肩を震わせた。
その反応が、思ったよりも大きくて、日下部は軽く眉を上げた。
「え……?」
「バラすなんて言ってねぇけど? でも、訊かれたら困るだろ、な?」
「まさか、ここまでされてて、“家庭のことまで”あるとは思わないだろうし」
笑いのような、鼻を抜ける声。
日下部の口調はあくまで淡々としていたが、それがかえって遥を追い詰めた。
遥は、床に膝をついたまま、顔をあげる。
その目は、かすかに濡れていた。怒りでも悔しさでもない。もっと混ざった、複雑な色だった。
「やめろよ……」
低く、くぐもった声。
だが、確かに、懇願だった。
「冗談だって。……そんな顔、すんなよ」
日下部は苦笑するように言った。
けれど、その目は、遥の乱れた制服、震えた手、かすかに開いた唇を、一度なぞるように見つめていた。
遥は立ち上がろうとして、足元がもつれ、壁に手をついた。
爪の間に入り込んだ埃が、神経を逆撫でする。
「……言ったら終わりなんだよ、オレ」
「何が?」
「全部。学校も家も、……何もかも、“理由”にされんだよ」
「かわいそう、だったらしかたない、って。……だからおまえも笑っていいってことになる」
「それが、いちばん……無理なんだ」
言葉が、唇の端から滑り落ちていく。
遥は自分でも、声の震えが止まらないことに気づいていた。
日下部は黙っていた。
だが、視線だけは遥から逸らさなかった。
その姿を見ているうちに、ふと、胸の奥にざらついた熱が広がっていく。
(……こいつ、こんな顔するんだ)
思い通りにいかない相手。
痛めつけられてなお、喋る。
壊れていないように見せながら、壊れかけてるのを必死で抱えている。
──そのことが、妙に気になって離れなかった。
「……なあ」
日下部が口を開いた。
「おまえ、昔、玲央菜のこと……」
遥がびく、と反応する。
その名前は、明らかに“家”の匂いを持っていた。
日下部は、それに気づいた。
(……こいつ、本気でビビってんのか)
(それとも──こいつにとって“家”って、それだけ……?)
「別に。バラすつもりなんかないよ。今のところは、ね」
冗談めかしたその言葉に、遥の身体が強張った。
その反応を、日下部は黙って見ていた。
沈黙。
そして──その空気の中で、遥の方が先に崩れた。
「……言うなら、殺す」
かすれた声だった。
「おまえが“あっち”のこと言ったら……オレ、自分で終わらせる」
声ではなく、宣告だった。
その目に、脅しでも虚勢でもない、本物の“切れかけ”が宿っていた。
日下部の中に、ぞくりとした何かが走った。
その一線を越えそうな危うさに、妙な昂ぶりが混じる。
「……へぇ」
声が出たのは、意識したより一瞬遅かった。
その声音は、自分でも抑えているつもりだったが、どこかで浮き立っていた。
遥は、目を逸らさなかった。
「冗談で済むか、どうかは……こっちが決める」
「オレにとっては、全部、命なんだよ」
数秒、互いに何も言わなかった。
掃除用具室にこもったその沈黙の中で、
日下部の中の“何か”が、かすかに笑った。
(──面白いじゃん、おまえ)