掃除用具室の狭い空間に、遥の言葉が刺さっていた。
「オレにとっては、全部、命なんだよ」
そう言い切った遥の目の色に、日下部は一瞬、引きつったような笑みを浮かべた。
そのまま、ふと、顔を伏せて──笑った。
「……は?」
乾いた声だった。
次の瞬間、彼の足が遥の前に踏み出される。
硬い靴先が床に音を立てるたびに、遥の背がわずかに引ける。
「おまえ、さ──なに勝手に、話進めてんの?」
声のトーンが変わった。
淡々と、低く、しかしどこかで引っかかるような不快な音程で。
「オレが言ったのは、“今のところ言う気はない”ってだけだろ? 誰が“絶対に言わない”って言った?」
遥は口を閉ざした。
さっきまでの言葉の残響が、喉の奥に張り付いていて、声が出せなかった。
日下部の手が壁にぶつかる。遥の顔のすぐ脇に。
狭い空間の中で、その音はやけに大きく響いた。
「おまえさあ……、ほんっと昔から、そういうとこ変わんねぇよな」
「“自分のことだけ”特別みたいな顔してさ」
耳元に低く吐かれるような声。
(違う。オレは──そんなつもりじゃ)
遥の思考が乱れる。
足元がぐらつくような不安感が、心臓の奥を締め付ける。
「オレはさ、おまえが“変わった”って聞いて──少しはマシになったのかと思ってたけど?」
「……期待したオレがバカだったかもな」
その言葉に、遥の顔色が変わった。
(なんで──こいつに、そんなこと言われなきゃいけない)
「言えば、終わる? おまえ、そう言ったよな」
「じゃあ、終わらせてやるよ。……明日、言うわ」
遥の呼吸が止まる。
「は……?」
「“家のこと”、学校で言ってほしくないんだろ? “あっち”のこと、みんなに知られたら困るんだよな?」
日下部は言いながら、遥の制服の胸元をつかんだ。
引き寄せるほどの力ではなかったが、それだけで遥の体は強張った。
「……言うな」
かすれた声で、遥が言った。
「なぁ、お願いだから、言うな……!」
いつの間にか、遥の目は真っ赤に染まっていた。
涙は流れていない。ただ、目の奥が焼けるようだった。
その瞬間、日下部の目に、何かが灯った。
冷えた苛立ちの奥に、別の感情が芽生える。
ゆっくりと、遥の胸元から手を離す。
「じゃあ、条件付きで黙っといてやるよ」
「……っ」
遥が顔を上げる。
「おまえ、オレの言うこと、ちゃんと聞け」
「……は?」
「簡単だろ。なぁ? おまえ、命かけて守りたいんだろ、自分の“事情”──」
「だったら、それと引き換えにしようぜ」
「バラされたくないなら──オレに従えよ」
その声には、もはや茶化しも冗談もなかった。
遥は、口を開きかけて──なにも言えずに閉じた。
(……やっぱり、こうなるのか)
(どこに逃げても、結局……誰かに見張られて、従わされて……)
(全部、同じなんだ──)
「なぁ、嫌か?」
日下部の声が柔らかくなったのが、逆に怖かった。
遥は何も答えなかった。
ただ、かすかにうなずいたような──それとも、立っているのが精一杯だったのか。
その曖昧な動きに、日下部は満足げに息を吐いた。
「いい子だな」
低く笑って、日下部は掃除用具室のドアを開けた。
差し込む光が、遥の顔を照らす。
その顔は、何も映していなかった。
扉が閉まる音だけが、乾いて鳴った。