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瑠璃がトイレから戻ってきた頃、渚はすでに制服に着替えていた。カーテンを開け放った部屋には朝日が差し込み、いつものE組への一日が始まろうとしている。
「おかえり、瑠璃。準備、いっしょにしよ?」
渚がそう声をかけると、瑠璃はこくりと頷いて、静かにクローゼットへ向かう。制服のシャツに手をかけるしぐさも、どこか丁寧で繊細だった。
「ボタン、合ってる?」
隣から覗き込むようにして渚が聞くと、瑠璃はわずかに頬を膨らませる。
「……子ども扱い、しないで」
「えっ、違うよ? 子ども扱いじゃなくて、恋人扱い……かな?」
「……そういうの、朝からは恥ずかしい」
「僕は瑠璃だから言えるんだよ〜。照れてるの、可愛いし」
渚が笑いながら言うと、瑠璃は何も言わずにネクタイに手を伸ばす。だけど、ほんの少し手間取っているのがわかった渚は、そっと近づいてきて、背後から手を伸ばした。
「貸して、結んであげる」
「……ん」
瑠璃は少しの間だけ目を閉じて、されるがままに身を任せた。渚の指先が器用にネクタイを結びながら、瑠璃の首元にふわりと息がかかる。
「……できた。うん、ばっちり」
「ありがと」
瑠璃の声は小さかったけれど、確かにそこには温かい気持ちが滲んでいた。
二人でカバンを手に取り、家を出る準備を整える。
「今日も、一緒にがんばろうね。瑠璃」
「……うん。渚がいれば、平気」
ドアを開けた先には、いつもと変わらない通学路。
でも二人にとっては、確かに少しだけ特別な一日が始まっていた。
満員とは言わないまでも、朝の通勤・通学時間帯の電車は、それなりに人で賑わっていた。アナウンスの声、ガタンゴトンという音、他人の視線――
瑠璃にとっては、どれもが静かに神経を削る要素だった。
ホームから電車に乗り込んで間もなく、彼の体はほんの少し震えていた。
無意識のうちに、すぐ隣にいる渚の腕にそっと手を伸ばし――
「……好き」
ぽつりとこぼれた声とともに、瑠璃は渚の腕をしっかりと掴み、そのまま顔をうずめた。制服の布地の向こうで、彼の呼吸が小さく揺れている。
渚は驚いた表情をしたものの、すぐにふわりと目元を和らげた。
瑠璃にとって今日は久しぶりの登校。外の空気も、他人の存在も、慣れるにはまだ少し時間がかかる。
「……大丈夫だよ、瑠璃。僕がいるから。ずっと隣にいるからね」
渚はそう囁くと、そっと自分のカバンを移動させて、瑠璃との間に少しでも余白を作る。人にぶつからないよう、守るように。
「無理しなくていいよ。学校でも、つらくなったら手、繋いで逃げよ?」
「……うん」
くぐもった声でそう返す瑠璃は、渚の腕に顔を埋めたまま、ぎゅっと力を込める。
その小さな手の強さに、渚は心の奥がぎゅっとなるのを感じた。
「よし……じゃあ、今日もゆっくり、二人でがんばろ」
電車の揺れに合わせて、二人の距離はさらにぴたりと寄り添う。
誰も気づかないような小さな世界の中で、渚は瑠璃を守るように立ち続けていた。
椚ヶ丘中学校――
その本校舎から遠く離れた森の奥に、ぽつんと建つ古びた旧校舎。
そこが、成績不振や素行不良などの“問題児”が集められた落ちこぼれクラス――「E組」の教室だった。
急な坂道と長い階段を越えたその先にあるため、通うだけでも体力がいる。
渚にとっても大変な道のりだったが、体力にあまり自信のない瑠璃にとっては、まさに小さな登山だった。
「はぁ……はぁ……」
朝の森を抜け、階段を登りきったところで、瑠璃は額にうっすらと汗を滲ませながら立ち止まった。息を整えようと、ゆっくりと呼吸を繰り返す。
その様子に、すぐそばの渚が駆け寄る。
「瑠璃、大丈夫!? ちょっと休もうか?」
「……ううん。僕、平気……だと思う。ちょっとだけ、疲れただけ」
顔色こそ悪くはないが、その声には少しだけ無理があった。
そんな瑠璃の手を、渚はそっと握る。
「……いいんだよ。無理しなくて。僕は、瑠璃のペースでいいと思ってるから」
その言葉に、瑠璃は黙ったまま渚の手を見つめ、そっと頷いた。
繋いだ手の温度だけが、静かに心を溶かしていく。
やがて、二人が旧校舎の扉を開けると――
「おーっす、渚ー! あれ、珍しく今日は弟くんも一緒か?」
「うわ、ほんとだ。渚の弟くんだ〜!ひさしぶり!」
中にいたE組の仲間たちが、パラパラと集まってきた。
大声を出す者もいれば、照れくさそうに手を振る者もいて、皆それぞれのスタイルで瑠璃を歓迎してくれる。
その中には、あのヌルヌル動く黄色い超生物――殺せんせーの姿も。
「おやおやぁ〜! 潮田くんの弟くんが本日ご登校〜!これはこれは、殺せんせーうれしくて時速マッハ20で黒板を掃除しちゃいま〜す!」
「……うるさい」
ぽつりと瑠璃がつぶやくと、E組の誰かが「言ったー!」と笑い出す。
瑠璃はそれでも渚の隣を離れず、静かに教室の中へと足を踏み入れた。
渚がそっと耳元で囁く。
「……おかえり、瑠璃」
「……ただいま、渚」
E組の一日は、ゆっくりと、でも確かに動き出していた――
教室に足を踏み入れた途端、まるで待ってましたとばかりに、何人ものクラスメイトが瑠璃のもとへ駆け寄ってきた。
「おぉ〜!潮田の弟、久しぶりだなー!」
前原が声を張り上げて手を振ると、すぐ隣で岡島がニヤニヤしながら乗っかる。
「なーなー、元気してた?っていうかさ〜、今の髪型、ちょっと可愛くね?てか女子より可愛くね!?」
「お前それ前にも言ってたろ。つーか瑠璃ってさ、絶対モテるよな〜、この見た目で無口で中性的とかさ〜!なあなあ、オレの妹にも紹介してくれよ!」
と、今度は寺坂がやたらテンション高く肩をバンバン叩こうとする。
――わちゃわちゃ
――ガヤガヤ
――ドンッ(寺坂の大きな声)
瑠璃の目の端が揺れる。視線は定まらず、口が小さく開いたまま声が出ない。
「…………」
目の前のにぎやかな波に飲まれそうになって、瑠璃はほんの一瞬、両手を上げかけた。耳をふさいでしまいそうになるその寸前――
「ストーップ!!!」
渚の声がピシャリと響いた。
「ちょっと!前原くん、岡島くん、寺坂くん!やりすぎ!」
渚が瑠璃の肩にさっと腕を回して、その体をかばうようにして立ちはだかる。
「瑠璃、久しぶりの登校なんだよ。外と人混みも苦手なの、知ってるでしょ。急に囲んだらびっくりするに決まってるじゃん……!」
渚の声に、周囲の3人も「……あ」と小さく息を飲む。
「わ、悪ぃ……」「ちょっとテンション上がっちまって……」「ごめん、瑠璃!」
渚はそっと瑠璃の耳元に顔を寄せて、小さく囁く。
「大丈夫。もう、静かになるから。僕がいるよ」
瑠璃は渚の制服の袖をぎゅっと掴んで、小さく頷いた。
渚のぬくもりが、ざわついた胸の奥を静かに落ち着かせていく。
殺せんせーも、ホワイトボードの前でスッと口を開いた。
「ふむふむ、E組諸君! 慣れていない子には、やさし〜く、そっと声をかけるのが愛というものですよ〜。さぁ、今日はみんなで“やさしさスキル”の特訓といきましょうか〜!」
「それ絶対テストに関係ないだろ!」
「ふっふっふ、授業はすべて生きる術につながるのです〜」
そんなふうに、E組の朝は、いつもどおりにぎやかに、でも少しだけやさしく始まった。
ガララッ――
その瞬間、教室の空気がわずかに変わった。
ドアが開いた音とともに、赤みがかった髪がふわりと揺れる。
「よう。おはよ〜、みんな」
朝の日差しを背負って現れたのは、赤羽業。
どこかけだるげで、それでいて鋭さを感じさせる独特の雰囲気をまとっていた。
「カルマ〜、遅いぞー!」「寝坊か?」「朝メシ食った?」
教室のあちこちから声が飛ぶ中、カルマの視線はすぐに――ある一点で止まった。
教壇の近く、渚のそばで所在なさげに立っていた瑠璃。
「……あれ?」
カルマの口元に、ふっといたずらっぽい笑みが浮かぶ。
「るり じゃん。マジで久しぶりじゃん、元気してた?」
その言葉とともに、気づけばカルマは瑠璃の背後へと回り込み――
「よっ、おかえり〜」
ふわり、と。
背中からそっと、優しく、でもしっかりと瑠璃を抱きしめた。
「……っ」
瑠璃の体がぴくりと震える。突然の接触に驚きつつも、カルマの声にどこか懐かしさを感じていた。
1年の頃から、ちょっかいをかけつつも気にかけてくれた相手。
他の誰よりも距離感が近く、それでいて不思議と苦手には感じなかった。
「カルマ……」
「ん? なになに、そんなびっくりした顔して〜。オレが急にイケメンになってたとか?」
「……なってない」
「ひっでぇ〜〜〜!」
渚が即座に割って入った。
「カルマ、急に抱きつくのやめてよ!瑠璃、びっくりしてるでしょ!」
「え〜? でも仲良しじゃ〜ん。瑠璃、イヤだった?」
瑠璃はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと口を開く。
「……びっくりした。でも……カルマなら、いい」
その一言に、カルマはふふっと笑みを深めた。
「へぇ〜、そっか。じゃあ今度からは前から抱きつくことにするね〜」
「それはダメ」
即答だった。
「お〜、ちゃんとツッコミできるくらい元気じゃん、良かった良かった」
渚は心配そうに見つめていたが、瑠璃の表情が少し和らいでいることに気づいて、ほんのり微笑んだ。
カルマはそんな瑠璃の頭を軽くポンと叩くと、自分の席に向かいながら振り返って言った。
「ま、また前みたいに、のんびりやってこうぜ。な?」
その声に、瑠璃は――小さく、でも確かに頷いた。
朝の騒がしさが落ち着き、1時間目の授業が始まるまではまだ少し時間がある――
そのわずかな隙を縫うように、赤羽業はまるで“遊び道具”を見つけた猫のような目で、瑠璃を狙っていた。
「る〜り〜、こっち来て〜。ちょっと試したいことあるんだよね〜」
「……なに?」
「あ、何もしないよ?ちょっとだけだから、ね?」
にやにやと笑いながら、カルマは瑠璃の腕をつかんで、すっと立ち上がらせる。
その瞬間――
「わっ……!?」
ひょい、と。
「お姫様だっこ〜〜〜!」
「…………っ!?」
気づけば瑠璃の体は宙に浮き、あっという間にカルマの腕の中に収まっていた。教室内に「えぇ〜!?」「ちょ、おまえ何してんだよ!」「姫じゃん!」という驚きと笑いが広がる。
瑠璃の顔は真っ赤。
けれど声が出ない。小さな体は固まったまま、恥ずかしさと驚きでぴくぴくしている。
「いや〜、軽いな〜。さすが潮田家の妖精くん? 渚より持ちやすいかも」
「なっ……!」
その時――渚の顔がこわばった。
「……カルマ、やめてよ」
声は静かだったが、微かに震えている。
「ん? なにが?」
「瑠璃、困ってるじゃん。そういうの、やめてって言ってる」
「え〜?困ってるっていうか、固まってるだけでしょ〜?可愛いから写真撮っとこうっと。はい、こっち見て〜るーり〜」
「カルマ!!」
珍しく渚が声を荒げた。
その瞬間、教室内の空気がピリリと緊張に包まれる。
瑠璃も、カルマの腕の中でそっと渚を見上げた。
渚の目はまっすぐカルマを見ている――その奥にあるのは、怒りと……そして、どうしようもない嫉妬。
「……瑠璃は、僕の弟だよ。……僕が大事にしてる家族なんだ。勝手に触んないでよ」
それは静かだけど、明確な拒絶だった。
カルマは一瞬だけきょとんとした顔をしてから、少しだけ笑った。
「……あれ? 渚くん、もしかして、ヤキモチ?」
渚は返事をしなかった。ただ、瑠璃の手を取って、そっと引き寄せる。
「もう……いいから。行こ、瑠璃」
「……うん」
瑠璃も、どこか気まずそうに目を伏せながら、渚の後ろにそっと隠れた。
カルマは、渚の背中を見つめながら肩をすくめる。
「……あ〜あ、やりすぎたかな。……ま、可愛い子はいじりたくなるんだよね」
その呟きが、誰に届いたかはわからなかった。
ただ、教室にはしばらくのあいだ、珍しくぴんと張った沈黙が流れていた――
それからというもの、渚の“弟ガード”は明らかに強化された。
教室の中でも廊下でも、瑠璃がちょっとでも誰かに話しかけられそうになると――
すっ、と渚が現れる。
とくに相手がカルマとなれば、話は別だった。
その日も昼休み、カルマが何気なく瑠璃に近づこうとした瞬間――
「――来ないで、カルマ」
「えっ、何その即ブロック?」
瑠璃の机の横に立ったカルマは笑いながら手を上げるが、その前にぴたりと立ちはだかった渚の眼差しは、冗談の通じる空気ではなかった。
瑠璃の手を取り、席を立たせ、ふわりと自分の胸に抱き寄せて――
「僕の、だから」
そう、静かに、でもはっきりと断言した。
教室中が「うわ、まただ」とざわつく中、カルマは苦笑しながら頭をかいた。
「いや〜、渚くんさぁ、過保護すぎない? もう瑠璃が嫁に行けない体になってるんだけど」
「行かせる気ないから」
即答。目も逸らさず、キッパリと。
「……はぁ〜〜〜〜〜〜〜(長いため息)」
カルマは椅子にドサッと座り直し、両手をあげて降参ポーズ。
「わかった、今日は大人しくしてる。けどさ〜、瑠璃が『いいよ』って言ったら抱きしめてもいい?」
渚の目がぎらりと光る。
「言う前に君が消えると思うけど」
「えっこわっ!? 殺せんせーより怖いよそれ!」
一方で、渚にぴたりとくっつかれながら瑠璃は――
「…………」
無表情のまま、ほっぺがほんのり赤い。
もはや何も言えずにいる瑠璃のその反応も、渚の過保護スイッチにさらに拍車をかけるのだった。
教室の一角では、奥田や茅野がひそひそ。
「ねぇ、あれってもう付き合ってるレベルじゃない?」
「というか、渚くんの執着がすごすぎて、見てるこっちが息詰まるんだけど……」
「瑠璃くん、逃げて〜……いや、逃げる気配ないね……」
――今日もE組は、ほんのり甘くて騒がしく、特別な空気に包まれていた。
渚の腕の中、すっぽりと包み込まれるように抱きしめられながらも――
瑠璃の小さな手が、そっと動いた。
「……?」
不思議に思って渚が視線を落とすより早く、瑠璃の指先が渚の頬にふれる。
「……瑠璃?」
瑠璃は静かに、ゆっくりと渚の頬を両手でつかみ、強くはないが逃げられない程度の力でこちらに向けさせた。
目と目が、ぴたりと合う。
その瞳は、どこまでも澄んでいて、けれどその奥には淡く火が灯っていた。
「……僕も……男の子、だからね……?」
その声は小さくて、でも確かに通る。
周囲のガヤガヤとした教室の音が、まるで遠ざかっていくようだった。
渚の目が見開かれる。
「えっ……あっ……うん……えっ、あ、うん!?」
――その顔が、一気に真っ赤になった。
今まで瑠璃を“守るべきもの”“守られる存在”だとばかり思っていた渚にとって、その言葉は思いがけない角度からの直球だった。
「ま、まって、それって……な、なに!? 僕……その……」
うろたえる渚の表情を見て、瑠璃はふふ、とほんのわずかだけ微笑む。
渚の手の中にいるのに、なぜか少し上から見下ろされているような、不思議な感覚。
「……僕も、守るよ。渚のこと」
――ぐさぁぁぁぁぁっ!
渚の心に、破壊力バツグンのセリフが突き刺さる。
「瑠璃……っ! なにその男前すぎる台詞!! も、もう僕どうしたら……!」
渚は顔を手で覆ってしゃがみ込んだ。
その横で、奥田がポツリと。
「……瑠璃くんって、無自覚タラシだよね」
茅野もこくこく。
「将来えらいことになるタイプだ……」
一方、渚は膝を抱えながらぽつり。
「……僕、弟に恋しそうなんだけど、これどうしよう」
その呟きは、誰にも届かないようで――
でも、瑠璃だけが、ほんのり耳を赤く染めていた。