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第8話、読み終えました。乃江さんが桜子さんの家に少しずつ溶け込んでいく空気感がとても温かくて、読んでいるこちらまでほっとしました。特に、正平さんがギターを抱えて庭に出てくる場面は、あの過去を知った上で見ると胸が熱くなりましたね。樹くんが「あなたの歌が聞きたくなった」って手を握るシーンも、すごく優しくてドキドキしました。ラスト、乃江さんが春の日差しの中で歌う姿がまぶしくて、幸せな気持ちになりました。素敵なエピソードをありがとうございます。
乃江は桜子のところに通い始めた。
「基本は出来ているのに、何をそんなに怖がっているの? 顔が怖いのよ」
桜子のピアノに合わせて、乃江は思いきり歌う。そのときリビングには正平がいた。時々樹もいることもあった。桜子の家に通うたびに家に乃江の私物が増えていき、今では部屋を一つ借りて泊まり込むこともあった。
「乃江が作ったこの炒飯旨いな」
昼食に乃江が作った、牛肉とコーンのバター醤油炒飯を食べて正平が唸った。炒飯を食べ終えると、コーラのペットボトルを持って正平は裸足のまま芝生の上を歩きベンチに座って海を眺めていた。庭の桜は五分咲きになった。正平の後ろ姿を見ながら、乃江は桜子に聞いた。
「正平さんがギタリストだったって本当ですか?」
「ええ本当よ。私が声をかけたのだから」
「あの指…」
「指のこと何か聞いたの?」
「事故だって正平さんは言っていました」
「悪い女に引っかかって、女の運転する車で事故に遭って。女は足に彼は手に傷を負ってしまった。あんなことなければ彼は今でもギターを弾いていたでしょうね。才能あったから」
ベンチに座る正平の背中を見つめる桜子の眼差しには、後悔の念とそれを上回る愛しさが溢れていて、そんな顔ができる桜子を少し羨ましく乃江は見つめた。
「何?」
「愛しているんですね」
「生意気なこと言って」
「お似合いですよ。お二人」
「バカなこと言ってないで、練習を始めなさいよ。来週ステージに立ってもらうから」
「えっ、ステージって。私が歌うの?」
「舞ってもいいけど」
「舞う?」
「冗談よ。あなた歌手になるんだから歌うのよ。町内の春祭りの小さなステージだけど。復帰ステージにはちょうどいいじゃない」
「えっ、ちょ、ちょっと待って。何歌えばいい? えっどうしよう、どうすればいい?」
慌てると早口になる乃江が、桜子には可笑しかった。
「おーい、乃江にお客だよ」
正平の声がして、庭に視線を向けると坂を上がって来る樹の姿が見えた。桜子が頷くと乃江は庭に出た。入れ違いに正平がリビングに入って来る。
「ごめんなさい。急に来てしまって」
「ううん。大丈夫。ちょうどお昼休憩をしていたところだから」
「急にあなたの声が聞きたくなって」
乃江の頬がほのかに紅くなる。
「だから、ほら、スマホ持てばいつでもお互いに声が聞けるのに…」
乃江の言葉が途切れた。樹がそっと乃江の指先を握った。
「あなたの歌が聞きたくなった」
樹の声が乃江の耳に熱く響く。繋がれた樹に手は冷たかった。だが、火照った乃江の身体には心地良かった。
「私が一番好きな歌を歌うわね」
乃江はベンチから立ち上がり、大きな窓を開け放ち、春の風に白いレースのカーテンが波を打つリビングの方を向くと、胸いっぱいに春の風を吸い込んだ。リビングには桜子と正平の顔が見える。
乃江は太腿の辺りを軽く叩いてリズムをとり、明るく歌い出した。
小さい頃から神様がいて、いつか願いを叶えてくれると信じていた。神様は不遇な環境にいた乃江に歌うことの楽しさを歌う幸せを与えてくれた。思えばどれも奇跡の連続だった。この瞬間も乃江は瞳を開いて顔をあげて胸を張って、春の木漏れ日を全身に受けながら歌う、歌う、歌うのだ。
桜子がタンバリンを叩きながら、庭に出て来た。その後ろからギターを抱えて出て来た正平の姿に泣きそうになるのを必死に堪えて乃江は歌い続けた。樹も楽しそうに手を叩く。瞳に映るこの瞬間はこれまで生きてきたどの瞬間よりも、優しさに包まれて幸せに満ちていた。
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