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丁度、講義が再開する日。
涼しく吹く風に「秋風」なんて名前が付く頃。
ちっぽけな、大学のテレビに映るニュース
今日は「ポーランド侵攻」でいっぱいだ。
ドイツに対抗した侵攻…感想なんて無い。
俺にとっては、ちっぽけなニュースだった。
「…なあ、今日のニュース見た?」
講義帰り、広場で待ち合わせをしていた。
白樺の落ち葉の茎をクルクルと回しながら
彼は声を落とした。
「ああ。ポーランド…侵攻だっけか」
「…お前、徴兵…されないよな?」
「……徴兵?…案内すら来てない」
「はは!良かった…」
「…授業で何か習った?教えてくれよ!」
講義が始まってからというもの、
図書館での待ち合わせが多くなって行った。
セントラルヒーティングの近くの席で
室内なのにマフラーを巻いて本を読んだり
鉛筆を走らせてデッサンしたりする様子は
正直、かなりおもしろかった。
彼との本漁りも1週間か2週間が過ぎ、
彼の癖や内面がより見えてきた気がする。
熟考すれば…指をトン、トトン、トン…
というリズムで机に打ち付ける。
どうやら彼は両利きらしかった。
本を手に取る時は右手。捲るのも右手。
デッサンをする時、鉛筆を持つのは左手。
あくびをする時、下を向く。
別れの挨拶は「また明日」。
「……あ。壊れちまった」
ミシ、と音を立てた直後。
万年筆の金属が外れ、折れる。
黒いインクが小さく数滴、紙へ飛ぶ。
横で本を読んでいたコイツはこちらを向き
「……俺があげたやつじゃねえか」
「待て、捨てるとか言うなよ。俺が直すからな」
差し出された手に、部品を置く。
職人のように部品を手に取って覗く。
ふうん、へえ、だとか声を洩らしながら
くるくると部品を回したり、重ねたり。
「明日には返す」
にや、とコイツは笑う。
いつもの悪戯っぽい笑顔ではなく
どこか誇りのあるような、
掴み所のない顔。
プライドに満ちた、と言うべきか。
研究者気質な…得意げな笑顔だった。
「お疲れ様。これ、返すよ。」
講義帰り、図書館から徒歩2分の公園。
秋が日に日に深まり、
芝生は夕日色に染まっている。
ひょっこり生えたキノコと
食べられない赤い実をつける植物たち。
昨日壊したはずの万年筆は
元通りの姿になって、今日返ってきた。
手に馴染み始めた、2、3ヶ月使いのもの。
ああ、ちゃんと…直してくれたのか。
感謝を述べた後、並んで市場へ向かう。
ここにあるものならなんでも買ってやると
自分でも驚くほどの言葉が出る。
まあ…これも感謝のうちだ。
「な、ソビ。これ買って」
指さしたのは…大ぶりなりんご。
店主が彼の目利きの良さを褒め、
瓶詰めのジャムを1つおまけしてくれた。
満足気に笑って、彼は振り向く。
「………良いのか?りんごで。」
「ああ!もちろんだ。一緒に食おう」
夕暮れの静けさが街を包み込む。
まあ、まだ…5時台だが。
随分と穏やかな流れになったヴォルガ川。
その傍の、大きな白樺の下で
りんごをしょりしょり剥く。
ぱか、という音は変わらず鳴る。
りんごの芯が真っ二つに割れる音。
俺ら2人が、…隣にいる証拠になる音。
「…聞いてもいいか?」
「……まあ。」
りんごを頬張る彼の、真っ直ぐな視線に
射抜かれる。
そんなに改まって聞くことがあるのだろうかと少しばかり緊張して答えを待つ。
「お前、教科書どこ置いてきた?」
「…バック、持ってないだろ」
「…………は…」
枯葉が道を転がる音だけが街を満たす。
少し蒼くなった空の下を急いで引き返し、
市場、教会の前…大学の門まで来た。
講師の車は一切なく、門は閉まっている。
人の居そうな気配もなく…電気すら付いていない。
「……ああ…」
「…ま、こんなこともある。」
「昨日、いい店見つけたんだが…行く?」
「いく」
小さく、オールドなレストラン。
柔らかいソファの座席、暖かい木のテーブル。
食器がなる音、微かでまばらな人の声。
厨房から香るチーズや玉ねぎの匂い。
実家を思い出す…素敵なレストラン。
テーブルの下で僅かに足が触れ
互いに引っ込める。
ぱっと目が合い…少し笑う。
「悪い。お前には席が小さかったか」
「…いいや。ついのびのびしてしまった」
「…すごく、素敵な店だ。ありがとう」
吊り下げ式のガラス製ランプ。
装飾のぶどうやツタの柄が壁や床を照らす。
決して暗くはなく、明るすぎない。
メニューの表示はロシア語のはずだが
見慣れない料理名が多く、
唯一理解できたカーシャさえも
表示された写真はかなり違うものであった。
食事中の沈黙さえ心地よい。
「話さなくていい」雰囲気が、
どこまでも俺の性に合っていて。
優しく、いたずらっぽいその笑みからは
言葉以上に感情が明瞭に伝わる。
貝の風味がする、独特なカーシャ。
アサリや海老が入っていて…
でも優しい味。本来のカーシャと大差はない。
察するに、ここはドイツの料理屋か。
彼が行儀よく食べる、
ミンチ肉を丸めて焼いたものは
ハンブルク、というものらしい。
いつか…また来て、頼みたい。
「……ここの名前…教えてくれ」
「…気に入ったか?」
「うーん、訳すなら小さな料理屋…だな…」
「…はんぶるく、は…美味かったか?」
「1口分ければ良かったな。美味かった」
「実はな、あれ…俺の国の料理なんだ」
「……いつか一緒に食いに行こう」
民家の明かりだけが道を照らす。
暗がりが多くなった、夜の7時前半。
微かなエンジン音に振り返る。
錆びた荷台、ナンバープレートのないトラック。
……確か、大学の前に止まっていたものだ。
悪い予感が頭をよぎる。
「……お前、家はどっちだ」
「チビは攫われる……すまん、悪い意味じゃ…無い」
「……ははっ!!!」
「俺ん家…というか宿屋はこっち」
「お前の家は向こう、すぐ着くから心配ねえよ」
「…後ろ。小さいトラックが停まってるだろ」
「……結構前から、俺達をつけてる」
「多分、…お前を女か子供だと思ってる輩だ」
「……送らせろ。なんなら、遠回りで」
「…やっぱお前は優しい奴だな」
「ありがと。その言葉に甘えておくよ」
案の定、ゆっくりした速度で車は近づく。
先回りをしては、停車し…
俺はひたすらに恐ろしかった。
もし…俺が気づかないままだったら。
俺がいない時、コイツの近くに輩がいたら。
…既に、コイツの家を…知っていたら。
「…ソビ、…俺、ちょっとだけ怖い」
「へへ、…うわ、お前顔怖っ…」
「…俺も怖いんだよ…」
「今日はお前も泊まってけ」
「やだよ…明日…お前が来なかったら…」
宿屋に着く。
トラックは未だ視界の端に捉えられる。
エンジンを切る音を立て、車は停車する。
脳がおかしくなりそうなほどの恐怖。
急いで階段を上がる。
木製のドアを開け、しっかりと施錠をし、
居間へ駆け込む。
時計の秒針が動く音、俺たちの呼吸の音。
階段を上る、靴の音。
ミシ、ミシ…木の床を踏みしめる、硬い靴底。
拳を握る。冷や汗が止まらない。
コン、コン、コン。
互いに目を見合わせる。
怖い。もし、入ってきたら。
戦う?俺は…俺は戦える?
自分と、コイツを…守り切れる?
本能的に首が振れる。
できない、かも…しれない。
コン、…ゴン。ゴンゴンゴン。
バン!
戸が強く叩かれる。
蝶番が頼りなく、ミシリと音をたてる。
まだ、まだ大丈夫…でも。時間の問題。
警察にでも頼れば良かった…
なんて、今更後悔しても遅い。
俺はヒーローじゃない。英雄じゃ、ない。
ただの大学生。ただのソ連人。
でも、俺が…俺しか…守れない。
唾液を飲み込む。また、目を見合わせる。
冷や汗が首を、額を伝う。
1層強く扉が叩かれる。
恐怖心が煽られて…脚が震える。
殺される。攫われる。
バン、バンバンバン。
片方の蝶番が外れる。
ガラスにヒビが入り始める。
怖い。ひたすらに、怖い。
でも、…俺は、守るために。
コイツを…守るために、着いて来た。
守らなくてどうする。
もしも、守れなくても。
後悔はしないよう…俺は居たいから。
行動を起こせ、と己を奮い立たせる前に
脚は扉へと走っていた。
ギシ、と音を立てる扉を体で押さえる。
かなりの衝撃が背を揺らす。
へた、と座り込むアイツの…泣き出しそうな顔。
俺はアイツの目を見つめる。
潤み、怯えきった瞳。
肩がぶるぶると震えている。
アイツは同じように、俺の目を見る。
そして、アイツは叫ぶ。俺と同時に。
「Телефон!」
数分後。
酷く強い調子で階段を下る音。
しばらくは脚が固まってしまって
動くことが出来なかった。
息が上がる。嵐が、去ったようだ。
車が走り去る音を聞いて、
ついに俺は床に膝を着いた。
戸の蝶番はとっくに外れ
倒れた木製の戸には大きく亀裂が入っている。
ぽっかり空いた四角い空間。
夜の冷たい、静かな風がそよ、と吹き
その風が遠くからサイレンの音を届ける。
「………痛いだろ」
「…こんなに深い傷。」
「…平気だ。血も止まってる」
「そういう問題じゃない…」
「……その…、…」
「久々に怪我したな。良い体験だった」
「……勘弁してくれ」
ドアは随分と強い衝撃を受けていた。
割れた窓のガラスまでもが敵になり、
俺の背中に深い裂傷を負わせた。
冷たくない空気が傷に沁みることはない。
問題はそれ以外にある。
自分の手の届かない位置に傷があること。
…背中なんて、手の届く場所じゃない。
塗り薬を塗布しないと痛い目に遭うと
医者に忠告されたからには塗る他ない。
となると、頼る先はアイツしか居ない。
アイツの宿はドアを修理中で。
しばらくは家に入れないらしく
止めてくれと軽い調子で言われたのは
今日の朝…結構早い時間。
それと、俺は講義に出ていない。
かなりマズイ。
どうやらアイツが大学に行って、何かしら言ってくれたようだが…
詳細を聞く気にはなれなかった。
縫われ、少し熱を持った傷口に
擦り込むように薬を塗らなければならないのだが、
経験上、それが堪らなく痛かったりする。
そんなことを知ってか知らずか、
毎度、労るような薬の塗り方をされる。
俺が痛がっていることなど
言わなくてもわかると言わんばかりに
彼は歌を口ずさんで意識を別に向けさせる
俺はそんなお前の優しさに触れて、
初めて知った。
お前は歌が上手いんだと。
教会の聖歌隊であったとかなんとかは聞いていた。
しかし、男…それももう時期成人とは
思えないほど清らかで、柔らか…真っ直ぐな声。
さほど大きな声で歌うわけではない。
か細くも美麗な…天使の歌声。
例えるならば。
大理石に彫られた力強い彫刻が、
豆電球やロウソクに優しく照らされる。
その光と影に交互に触れ、
凹凸を撫で、
すべらかさを記憶する。
そんなような…感覚かもしれない。
脳には残らない、淡い、安心の記憶。
だからこそ、毎日…触れたくなる。
「もう、10月も終わるな」
「…半月くらいりんご、食ってない」
「早く食わないと市場から逃げちまう」
「……剥いてやるから、買ってきてくれ」
木々の梢まで見えるようになってきた頃。
落ち葉を踏みしめる音が無性に聞きたいが
まだ安静にするべき時期であるそうで。
椅子に腰掛け、小さな窓の先を見つめる。
遠い、異国の…山脈の。
赤、黄、茶色に染まった木々を想う。
カラカラと軽い音をたてる枯葉の丘。
突然、心に秋が迷い込んだように
どこか淋しい気持ちになる。
…彼は、りんごを買えるだろうか。
ここへ戻ってこられるだろうか?
ドイツから来た、異国の人間。
アイツの話すロシア語は流暢だったか、
急に思い出せなくなる。
果物屋の娘は…確か早口だった。
そんな俺の心配とは裏腹に、
鍵が開けられ、ドアの軋む音が聞こえる。
紙袋には…幾つかのりんごが入っていそうだ。
腕に抱えるのは、薪の束。
彼はそれらをテーブルに置いて、
袋の中身を出しながら楽しそうに話した。
「果物屋の娘さんに聞かれたんだ」
「あの堅物のっぽはどうした、って」
「…りんごのすりおろし方でも教わったか?」
「いいや。薪を買っていくといいって言われた」
「……お前、薪割り紳士なんだってな!」
「…なんだそりゃ!」
どうやら、毎年…顔見知りのお宅に
薪割りの手伝いに回っていたためについた、異名…?あだな?らしい。
今年の薪割り紳士はしばらくお休みだな。
街を歩き回って、薪を探した時の話。
俺の知り合いに会って、色々聞かれた話。
近所のマダムに子供と勘違いされたとか…
そんな話をお前は
実に楽しそうに俺に語った。
俺が街のみんなに親しまれてる…なんて。
お前は嬉しそうに、幸せそうに話した。
りんごを剥く。
お前は話す。
窓から差す真昼の白い光。
床が軋む音。
ふっと、止まった会話に秋風が吹き込む。
少しばかり硬いりんごの半分を差し出す。
指の先が触れる。
きっと、俺だけがその温もりに気づいた。
秋に入ってからというもの、
スモモよりも食べる頻度の増えたりんご。
柔らかな甘み、淡い酸味。
秋の味…変わらない、日常の味。
きっと、この味は…
いつでも、どこにいても。
俺をこの秋へ戻してくれる。
ナイフを洗う、お前の後ろ姿。
…弟がいたら。
このくらいの…背丈なのだろう。
いつかの日の台所を思い出す。
俺はコイツを誰に重ねているのだろうか。
両親。兄弟。恋人。伴侶。
どれも違うだろうな。
お前はお前、そうでしかない。
唯一無二の存在。
それ以上でも以下でもない。
特別じゃない。
ただの、りんごを半分に分ける相手。
でも、…親しくないわけじゃない。
お前のために選んだ物があったのだから。
笑い、楽しんだ時間があったのだから。
友達とも、親友とも言い難い。
友情を超えた…無言の理解がある。
恋とか、愛とかいうのは些か不自然だけど
…それに似た何かはあるような気がして。
上手く言い表せない。
せめて言うなら、「同伴者」。
いつも俺の隣を歩く人。
前でもなく、後ろでもなく。
横に居るのが普通で、日常で。
俺のいつもの中に、
当たり前にいる…そんな人。
「…なんだか、酸っぱいりんごだな」
「……そうかもな」
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あおいです🌷 第2話、読ませていただきました。 戦争の足音が遠くに聞こえる中で、りんごを半分に分け合う静かな日常の描写が、本当に美しかったです。特に「ぱか、という音は変わらず鳴る。りんごの芯が真っ二つに割れる音。俺ら2人が、…隣にいる証拠になる音」という一文に、心がじんわり温かくなりました。日常の平穏と、突然の恐怖のコントラストが生々しくて、背中の傷を塗る場面の優しさが余計に沁みましたね。「同伴者」という関係性の定義が、とても丁寧に描かれているなと感じます。続きが気になります…!