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FORSAKENにも、静かな時間はある。
悲鳴が途絶えたわけではない。
霧が晴れたわけでもない。
ただ、館だけが息を潜めたように静まり返る夜があった。
その夜。
主室の片隅で、アズールは眠っていた。
怪物へ姿を変えた身体も、眠りだけは拒めない。
背中の触手は床へ力なく横たわり、ウィザードハットは枕元へ丁寧に置かれている。
眠っている時だけは、彼はどこか昔の面影を残していた。
その寝顔を、静かに見下ろす影がある。
スペクターだった。
足音ひとつ立てないまま寝台の傍らへ歩み寄る。
白い指先がゆっくりと持ち上がり、眠るアズールの額へそっと触れた。
その瞬間だった。
閉じられた瞼の奥で、夢が静かに形を変える。
それは記憶だった。
紫黒の花畑。
風に揺れる花々。
一輪の薔薇を抱えた自分。
その先に立つ、ツータイム。
ここまでは現実と同じだった。
違うのは、その先。
胸へ冷たい衝撃が走る。
刃が突き立つ。
あの日と同じ痛み。
けれど終わらない。
刃は引き抜かれ、また落ちる。
もう一度。
さらにもう一度。
夢は終わりを忘れたように同じ場面を繰り返していく。
ツータイムの表情も変わっていく。
悲しそうだった瞳から感情が消え、やがて乾いた笑みだけが残る。
その笑顔だけが、何度も何度も近付いてくる。
「違う……。」
夢の中でアズールは首を振る。
「そんな顔じゃ……。」
届かない。
叫んでも。
手を伸ばしても。
刃だけが何度も胸へ落ちてくる。
花畑はいつしか黒く染まり、薔薇は泥へ沈み、世界そのものが崩れていく。
やめて。
もうやめて。
その願いさえ夢は聞き入れない。
「っ……!」
アズールは勢いよく身を起こした。
荒い呼吸。
乱れた鼓動。
全身を冷たい汗が伝う。
胸の古傷が焼けるように痛んでいた。
思わず傷跡を押さえる。
まるで今この瞬間も、刃がそこへ残っているようだった。
「ツータイム……。」
震える声。
「どうして……。」
視界が滲む。
夢だったはずなのに。
痛みだけが現実だった。
呼吸が浅くなる。
胸が締め付けられる。
このまままた、あの夢へ引きずり込まれる気がした。
その時だった。
視界へ赤い影が差し込む。
「また苦しんでいたんだね。」
穏やかな声。
優しい響き。
スペクターは静かに寝台へ腰掛けると、震える身体をそっと抱き寄せた。
「スペクター様……。」
その名を呼んだ瞬間。
張り詰めていた心が少しだけほどける。
主人の胸へ顔を埋める。
薔薇と紅茶が混ざったような香り。
それだけで悪夢が遠ざかっていく気がした。
白い指先が黒い髪をゆっくり撫でる。
幼子をあやすように。
壊れ物を扱うように。
「怖かったね。」
その一言だけで涙が溢れる。
「でも安心しなさい。」
静かな囁き。
「あの男は、何度でも君を傷付けようとする。」
アズールは震えながら頷く。
夢の記憶はあまりにも鮮明だった。
「あれが本当の姿なんだ。」
優しく。
穏やかに。
逃げ場を与えない声。
「君の愛を踏みにじり、何度でも君を傷付ける。」
指先が胸の傷跡へ触れる。
「だから私は君を守る。」
その言葉は温かかった。
「あの男から。」
「この世界から。」
「君を抱き締められるのは私だけだ。」
アズールは主人へしがみつく。
まるで溺れる者が浮き木へ縋るように。
「あなた様しか……。」
涙が止まらない。
「私には、あなた様しかいません……。」
スペクターは静かに微笑む。
慈悲深い神のように。
その腕は優しく。
その声は穏やかで。
その眼差しだけが、どこまでも冷たい。
毎夜繰り返される悪夢。
毎夜与えられる救済。
恐怖を植え付ける者と、その恐怖から救う者。
両方を一人で演じ続ければ、魂は必ず救いを求める。
そして、その救いが自分しか存在しないと思い込んだ時。
檻は完成する。
アズールは主人の胸へ頬を寄せたまま、小さく目を閉じる。
悪夢は恐ろしい。
けれど目覚めれば、必ずスペクターがいる。
そう信じ切った心は、もう二度とその腕から離れることはできない。
館の窓の外では、霧が静かに揺れていた。
その霧のように、アズールの記憶も少しずつ形を失い、本当に残るべきものだけが書き換えられていく。
それは真実ではない。
だが、彼にとっては、誰にも覆せない現実になっていた。
タイナ
80
あめ猫@サボり魔
6,927