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「御堂先輩……あの」
「おまえ自分の心の弱さを、こんなタイミングで晒してる場合じゃないだろ。素人が見ても、危ない状態だっていうのがわかるだろ?」
中年の男性は若い医者を怒鳴りながら、上着やシャツを脱がし、手早い所作で怪我をしている箇所を入念にチェックしていく。
「傷が浅いお蔭で出血量は少ないが、数が多いな……」
(俺のせいで、彼が叱られてしまった――)
腕を伸ばして若い医者を捜したら、あたたかい手がすかさず高橋の手を捕まえるなり、ぎゅっと握りしめた。
「周防が今みたいに患者に寄り添って、治療がしたい気持ちもわからなくはない。だがな今は緊急事態、そんな優しさは必要ないんだぞ。そればかりに囚われていたら駄目なんだ。医者として助けなきゃいけない義務が、目の前にぶら下がっているんだ!」
「…………」
「済ま、ない。先輩に叱ら、れてしま……ったね」
若い医者に対して振りかざした、自分の我儘に傷つき、泣きぼくろを涙で無駄に濡らしちゃいけないと考えて、きちんと顔を見ながら謝罪を口にした。
「俺の我儘の、せいで、君を――」
高橋がかけた言葉に、若い医者は泣き出しそうな顔をしながら唇を噛みしめ、ふるふると首を横に振った。
「お願いですから、諦めないでください。運命の人は、この世でひとりとは限らない。俺がそうだった、きっと巡り逢うことができるから」
「そう、なのか?」
躰に受けた無数の傷よりも、若い医者に握りしめられている手のほうに痛みを感じた。
「はい。生きていれば、必ず出逢うことができます。だから……」
自分の傍にいるのに、若い医者の声がどんどん小さくなっていく。頭の先から、すーっと血の気が引いていくのがわかった。
「最期にもう一度だ……け、俺に向かって微笑む、彼の笑顔が見、たかった」
さっきまであたたかみを感じていた握りしめられている手も痺れて、何も感じない。
「駄目だ! このまま逝かないでくれ!」
(はにかむように柔らかく微笑む、はるくんに伝えたかったな)
「アイシ、テイ……ル」
若い医者の手を握りしめる高橋の力が、ふっと抜け落ちた。
「逝っちゃ駄目だ!」
「落ち着け、周防。医者のおまえが取り乱してどうするんだ?」
「だって――」
「大丈夫、気を失っただけだと思う。これだけ躰にダメージを受けていたら、とっくの昔に気を失っているはずなんだ。それなのに……」
御堂は話しかけながら、冷たくなっていく患者の衣服を元に戻して、応急処置のために付けていたゴム手袋を外し、自分が着ている上着をかけた。
医者として当たり前のことをした先輩を、周防は尊敬の眼差しで、改めて眺める。
学会のために、隣町に来ていただけの自分。持ち物は必要性を感じた資料や、本だけ持ってきた。
学会が終わった打ち上げと称して参加した宴会には何も持たず、手ぶらでここに来たというのに、先輩の御堂はいつも持ち歩いている小ぶりの鞄を、肌身離さず持ち歩いていた。
牛革製のそれは、お洒落なデザインだったせいで、医者が日頃使う道具が入っているとは思いもしなかった。今回の応急処置に、それが大活躍したのは言うまでもない。
「俺はいつまでたっても、御堂先輩の足元には及びません。医者としての心構えや大事なことが何もわかっていない、研修医の頃のままだった」
片手で握っていた患者の手を両手で握り直し、自分のあたたかみを分けるように、撫で擦ってあげる。
「同じ小児科医でも、俺は救急専門だからな。互いの立場の違いがあるだろうし。でもさ」
「はい……」
「おまえが患者に向かって、一生懸命に話しかけていただろ。ギリギリまで意識を保つことができたのは、周防のお蔭だと思う」
(だけど俺が、さっさと応急処置をしていたら――あるいは御堂先輩とふたりで治療をしていたら、間違いなく生存率が上がっただろう。声をかけて励ますなんて、誰にでもできたことなんだ)
「救急車が近づいてきたな。周防、乗り込むだろ?」
「……俺は乗る権利があるのでしょうか」
聞き慣れたサイレンの音が、周防の迷う気持ちに拍車をかけた。
不安に苛まれる瞳を宿した後輩を横目で見るなり、御堂は容赦なく周防の頭をぐちゃぐちゃにする。手荒な宥め方に、肩をすぼめてやり過ごした。
「乗ってもらわなきゃ困るんだな、俺が」
おどけた口調で笑いかけた先輩の言葉を聞き、乱された髪の毛をそのままに、目をパチパチ瞬かせた。
「ほらほら、アルコールが入ってる俺が説明するよりも、素面のおまえが説明したほうが説得力があるだろ」
「さっき救急車を呼ぶのに、電話をしたのは御堂先輩でしたけど」
「周防が病院で説明している間に、夜勤で頑張ってる綺麗なスタッフに、ねぎらいの言葉をかけなきゃならない仕事が待っているんだ」
片手をぎゅっと握りしめながら、遠くを見て決意を新たにする御堂に、周防は思いっきり呆れた表情を浮かべた。
「御堂先輩、俺が付き添いをしなきゃいけない理由を、無理やり作らないでください。そういうところがなければ、素直に尊敬できるのに」
「何を言い出すかと思ったら。他の人が寝ている時間に細かな雑用をこなしつつ、患者の世話をしているスタッフをねぎらうのは、医者として当然の行為だろ」
「どうせ、いつものようにナンパする気なんですよね。わかりました、お供いたします!」
がっくりとうな垂れながら、了承を口にしたタイミングで、目の前に救急車が横づけされた。
いつもの調子を取り戻した周防と御堂、そして意識を失った高橋を乗せた救急車が、近くの病院に向かっていく。
それをぼんやりとした面持ちで、もうひとりの高橋が見つめていた。
辺りは野次馬や警察官がわんさかいて、騒然となっている。歩道には刺されたときの血痕が、大量に残った状態だった。
(もしかして俺は地縛霊として、ここに留まらなきゃならない運命なのか……)
半分に透き通った両手をしげしげと眺めていたら、まばゆい光が高橋を包み込む。あまりの眩しさに、目をぎゅっと閉じた。一瞬だけ躰が浮いた感覚があったけど、幽霊になってしまったせいだと考え、薄っすら目を開けてみる。
先ほど感じた光はすでになく、月明かりがほんのりと高橋を照らしていた。
「な、なんだこれは!?」
なぜだか夜空に浮いた状態で突っ立っていて、見渡す限りの無数の星が自分に向かってキラキラ瞬き、足の下には薄い雲が風に流されていた。その隙間から、どこかの都市の明かりが光って見える。
状況が飲み込めないでいる高橋に、下弦の月が囁きかけたのだった。