7歳の時に目撃した、風呂での兄と女の行為。
誰にも言えないまま時が過ぎ、凌空は10歳になっていた。
その頃には性の知識も友達を介すという小学生男子らしい乱暴な習得の仕方で身につきつつあった。
「セックスってチンコをマンコに突っ込むことなんだって」
「腰振って擦りあって、男が出したら終わりなんだって」
「コンドームしないと妊娠するらしい」
しかしその知識と、記憶の中の兄たちの行為が繋がることはなかった。
ーーあの日。
この街に初雪が降った日。
凌空は年明けの校外学習で県外のスキー教室に行くために、スポーツ店でスキー板を選びに、晴子と外出をしていた。
レンタルスキーの会場は混んでいて、身長を図るだけで30分以上も待たされた。
時折疲れたようにため息をつく母親を凌空は見上げた。
「ごめんね。疲れたよね。どこかで休もうか?」
晴子はふっと笑いながら凌空を振り返った。
「これくらい平気。あなたはいつも気を使いすぎなのよ。子供のくせに」
そりゃあ気を使いたくもなる。
毎日、溺愛している兄との差を見せつけられれば。
毎日、蔑ろにされている姉の寂しそうな顔を見ていれば。
やっとのことでスキーをレンタルして帰った時には、ここ数日ですっかり短くなった日はすっかり落ちていた。
駐車場に着いた途端、晴子はあっと声を上げた。
「いけない。今夜はシチューなのに、ブロッコリーを買い忘れたわ」
「え。俺、別にブロッコリーなんて入ってなくてもいいよ」
「ダメよ。輝馬がブロッコリー好きだもの」
晴子は迷うことなくそう言い切ると、凌空を降ろして再びエンジンをかけて行ってしまった。
「……………」
凌空はレンタルスキーを持ちながら、去っていく車を見送った。
「ただいまー」
家の玄関を開けた瞬間、風呂場から湿っぽい熱気とボディーソープの香りが漂ってきた。
(ああ、今日は、その日か)
凌空は靴を脱ぎながら思った。
輝馬があの女を風呂に入れるのは気まぐれで、その期間や曜日は決めていなかった。
あの当時は月に2、3回は入れていただろうか。
やせ細っていく女を見るが怖くて、部屋を開けたとたんに家中を襲う異臭も嫌で、凌空はできるだけその場面に遭遇しないようにしていたが、どうやら入浴は済んだようだ。
それでも鉢合わせはしたくはない。
凌空は足音を忍ばせて自室に向かった。
すると、
「……きい……いい……いいい……」
小刻みに変な音が聞こえてきた。
か細く消え入りそうな音。
それが声だとわかるまで数秒を要するほどの奇怪な声。
(なんだ、これ……)
まるで何かが軋むような耳障りな声。
凌空はその声に導かれ、自室の隣のわずかに開いたドアに近づいた。
窓のない暗い部屋。
常夜灯のわずかな灯の中で浮かび上がったのは、白い布団だった。
肌色をした肉の塊が蠢いている。
その塊から細い腕のようなものはものが左右にはみ出していて、
それが動きに合わせてプラプラと揺れていた。
暗闇に目が慣れると、それが腕ではなく、ものすごく細い足だということが分かった。
膝の関節の向きから、仰向けに寝転がっているその一体の上に、もう一体が覆い被さっているがわかった。
「……ヒぃ……イイイぃ……ぃいいい……」
2本の脚の中心が一番動きが激しい。
そこからパンパンという音が響くたびに、軋むような声も高くなった。
動きの激しいそこが、輝馬の臀部であるとわかるまでにまた数秒を要した。
だって大の男のそこが、そんな激しい動きをするのを見たことがないし、
そのいやらしい動きは、いつも優しくてかっこいい兄のイメージとはかけ離れていたからだ。
『セックスってチンコをマンコにつっこむことなんだって』
軋む悲鳴の間に、友達の誰かの声が、脳裏に響いてきた。
『腰振って擦りあって、男が出したら終わりなんだって』
「……きいッ…!イイイイッ!ああッ!あああああ゛」
動きが早くなり、今までブラブラと揺れていた足がピンと伸びた。
輝馬の腰が、大きく2回、女に打ち込まれると、つま先まで入った力はやがてだらんと元のように左右に広がった。
凌空は口を両手で押さえて、後退った。
そして足音を立てないようにリビングを抜けると、玄関の方に慎重に歩いていった。
初めて目撃したセックスは、性的でも淫猥でもなく、恐ろしくて汚らわしいものだった。
吐き気がこみ上げてくる。
でも我慢しなければ。
ここで凌空が吐いて、気づいた輝馬が部屋から出てきた瞬間、微妙なバランスでやっと保っているこの家は崩れる。
凌空は両手で口を押え、涙をこぼしながらこみ上げてきたものを必死で飲み込んだ。
そしてその代わりに思い切り叫んだ。
「ただいまー!!!!!」
再度こみ上げてきた吐き気を飲み込み、必死に玄関で叫ぶ。
「今夜シチューなのに、母さん、ブロッコリー買い忘れたんだって!ばっかみてー!!」
そう言いながら廊下をドスドスと歩いた。
ーー誤魔化してくれ。
10歳の自分が騙されるほど完璧に。
子供の自分が気づかないように自然に。
ーー兄貴、頼む。誤魔化してくれ!!
「おかえり」
リビングにいた輝馬は振り返った。
いつものスウェットを身に着け、何事もなかったかのようにリモコンでテレビを付けている。
「ブロッコリーなんて別になくてもいいのにな」
輝馬の自然な笑顔に、
「な、俺もそう思う!!」
凌空も満面の笑みで返した。
兄は今まで何度こうやって、自分を、家族を、騙してきたのだろう。
凌空はその顔を見ながら思った。
家に寄り付かない父親。
子供に露骨に態度を変える母親。
潔癖症の姉。
そして、
この家の中で唯一まともだと思っていた兄。
あれ?これってあれじゃん?
全部あの女が悪いくね?
だってあの女が家にいなかったら、
父親が家の中で気まずくなることもないし、
母親のストレスだって軽減するだろうし、
潔癖症の姉が、あの臭くて汚い生き物を毛嫌いすることもないし、
兄だって家族に隠し事をしなくても済む。
うちの家族の問題は、全部全部、
唯一うちの家族じゃない、
その日、レンタルスキーと共に借りたはずのストックは、年明けのスキー教室前に、どこを探しても見つからなかった。
仕方なく弁償した母は、失くした凌空を責めたが、
春になり、納戸にしまっていた春用のカーペットの中から、歪んで変形した状態で見つかったそれを見ても、
何も言わなかった。
10歳の時、初めて女を殴ったストックは、
12歳の時に、修学旅行で買った模擬刀に代わり、
14歳で、野球部からパクッた金属バットに代わった。
女は初めのうちこそ必死に助けを乞っていたが、しばらくすると反応は悲鳴だけになり、最後には反射的な呻き声だけになった。
腫れあがった皮膚は裂け、打った骨からは確かに折れた音が聞こえた。
見てわからないはずはないのに、風呂に入れている輝馬も、食料を与えている父親も、何も言わなかった。
************
「やっぱあれかなー」
凌空は首を90度傾けて、真っ白な天井を正面から睨んだ。
「頭をやらないと壊れないのかも」
バッドを掴んでいる手に力を籠める。
父も、母も、兄も、姉も。
誰も終わらせることができないなら、自分が終わらせてやる。
成人を目前に控えた自分が、あの女を殺してやる。
昔から、
父よりも取り繕うのは上手だったし、
母よりも口が立ったし、
兄よりも隠すのは得意だったし、
姉よりも器用だったし、
家族のなかで、自分が誰よりもうまいはずだ。
ドアノブに手をかけたそのとき、
「……死臭でもしたらどうすんの……?」
低い声が聞こえてきて、凌空は手を止めた。
夫婦の寝室から誰かが出てきた。
ダイニングの床が軋む。
この足音は健彦だ。
続いて晴子も、なぜかキッチンにいそいそと駆けていく。
パントリーを開ける音。
ハサミで何かを切る音。
段ボール箱を引っ張り出す音。
蛇口をひねる音。
そして、隣のドアが開いた。
そうか。今日はエサやりの日か。
凌空はスーッと息を吸った。
そして肺にためた空気をそのままに、音がでないようにベッドに腰かけた。
今日はやめておこう。
寝室に戻った2人が、すぐに寝入るとは限らない。
なに。焦ることはない。
自分が18歳になるまで、まだ11ヶ月もある。
凌空はベッドの傍らに金属バットを置くと、ふっと笑った。
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