朝食を片づけ終えると、
エリオットは
静かに立ち上がった。
「……外、歩いてみない?」
イチは
すぐには動かなかった。
朝になっても
自分が何者なのかわからない。
声も出せない。
感情も表に出てこない。
けれど――
エリオットが扉へ手をかけた瞬間、
イチは
ごくわずかにその背を目で追った。
エリオットは
その仕草に
気づいたような
気づかないような顔で、
少しだけ笑う。
「……じゃあ、行こうか」
扉を開けると、
夏の朝が
ふたりを迎えた。
すでに空気は温み、
肌にまとわりつく湿気がじんわりと体温を奪っていく。
遠くで蝉の声が短く鳴き、
森の奥では繰り返し鳥が囀った。
エリオットは暑さをやわらげるように
木陰の多い小径へ進む。
イチはその一歩うしろを
静かに続いた。
「朝なら
まだ危なくないからね」
エリオットの声は
森のざわめきと混ざってやわらかく溶けていく。
木々が陽を遮ると、空気はひんやりと変わる。
風が葉を揺らすたび、
その影がゆらゆらと
イチの足元に落ちた。
イチは立ち止まって
ひとつ深く息を吸い込んだ。
「ここはね――
夏でも涼しいんだ」
エリオットが言うと、イチの髪がそよぐ。
(風に反応しただけ)
そう言ってしまえば
それまでだが、
彼女が
その風を“感じた”ように見え、
エリオットはほんの少しだけ
胸の内が温かくなる。
少し先、白い小花が咲いていた。
朝露を抱いた花弁は夏の光を受けて
ひんやりと輝く。
「きれいだろ」
エリオットは指さす。
イチは花を見つめ、
次いで
エリオットの指へ視線を移した。
表情はない。
それでも――
微かに
指先を持ち上げる。
触れるわけではない。
ただ
“同じものを見ている”
その事実だけを
確かめるような
小さな動き。
「……うん」
エリオットの声は
なぜか少し震えていた。
きっと、
小さく動いたその指先は
ほんの一瞬、
彼女の世界が
確かにここへ触れた
という印だった。
夏の風が葉を鳴らし、
ふたりの間を
そっと撫でて通り過ぎる。
ゆっくり、
静かに、
ふたりは
森の奥へ歩みを進めていった。
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