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「それって、まんま透明人間じゃん」
百瀬は眉をひそめた。
「じつは、ちょっとした過去の経験から、ふとそのことに気づいたんだ」
「どんなこと?」
「俺の実家の近くに一件の小料理屋があったんだけど、はじめてそこに店があると気づいたのは、中学を卒業した直後だった。
高校からは野球の強豪校に移ることになっていて、この辺も見納めかなんて思いながら歩いてたら、そこに小料理屋があるのを知った。家に帰って親にそのことを話したら、店は俺が生まれるまえからあったって言うんだよ。つまり俺は、15年ものあいだ小料理屋の存在に気づかなったんだ
……意味わかる?」
「わかりやすいよ」
百瀬は頬杖をつき、あたたかい笑みを浮かべた。
「その言葉信じてつづけさせてもらうよ。俺が20歳になった年に、その小料理店は建物の老朽化によって空き地に変わった。俺はもうプロ野球選手になっていたし、二軍に降格した直後だったから、たまの実家だといっても練習を怠るわけにはいかない。素振りをしようとバットをもってその空き地にいくと、ふとひとつの考えが浮かんだんだ。
空き地になったこの場所はすぐに思いだせたのに、なぜここが小料理屋だったころには、店があることに気づかなかったんだろうってね」
「たしかに」
「答えはすぐに浮かんだよ。俺は小料理屋に気づかなかったんじゃなくて、頭に記録してこなかったんだ。中学までの俺の生活に必要だったのは、大人がゆったりと旬の素材を楽しむ飲食店なんかじゃない。素振りができる近所の公園であり、ゲームセンターであり、古本屋のエロ本コーナーだったんだ。
だからほんとうは店の看板も目に入っていたし、店があるのも認識してた。だけど脳にある記録装置は、小料理屋を不要な情報として排除しつづけてきたんだ」
「なるほどねー。わたしにも近い経験があったから、よくわかったよ」
「そうなの?」
「わたしのおねえちゃんが結婚して妊娠したときにね……。あ、おねえちゃんわたしより9つも上だよ。いま31歳ね。あ、でもこれ3年前の話だからそのときは31じゃなくて、28になるのかな。
わたしは19歳でアルバイトしてて、人生の夢とかもなく、なんとなく生きてたんだけど。おねえちゃん妊娠したから、もし急にお腹痛かったらまずいでしょ。
だからわたしは産婦人科を探したんだよ。えっと、ここまでは意味わかる?」
「3割に満たないかな」
「うん。ならオッケー。
おねえちゃんのために近くの産婦人科を探しはじめたら、ここにも、ここにも、ここにもって。近所は産婦人科だらけだったこと知ったんだよ。何千回もそこ通ってきたのに、それまではまったく知らなかった。……ツトムくんの言いたかったことって、こーゆーことでしょ?」
「ああ、そうだね」
「やったね」
「つまり俺が言いたかったのは、ビッタによって実質的に体が透けたりするんじゃなく、たとえばもともと存在感のうすい人間が、ビッタの効果でさらにうすくなったような状況が生じているってことさ。いまんところの推論だけど」
「ごめん。いまのだけ意味がわからなかった」
「究極的な存在感のうすさってことだよ。そのビッタを使って荒木田黄龍はコソコソと、しかし確実にシェアハウスに住んでる。小料理屋とおなじように」
「わたしの産婦人科ね」
「そう。俺たちは彼に会ってる。だけど脳が、彼を記録してないんだ」
「でもそんなことってあり得るの? 人と産婦人科ってやっぱりちがうと思うよ」
「ビッタだからこそ、それが可能なんだよ。手首から生クリームを吐きだすビッタは、神谷ひさしさんのトリックじゃない。人間以外の動物が折り紙に見える相原たかしのビッタも、彼がサイコパスであるがゆえの幻想なんかじゃない。
これらすべては現実に起こってるんであって、荒木田黄龍もまた、ビッタという特殊な能力を使って俺たちの記憶に残らずに、粛々と生きているんだ」
「でもやっぱりうまく理解できないよ。シェアメイトは一緒に住む人間なんだからさ。それを記憶できないなんて」
「これはあくまで推論であって、実際に黄龍がどんなビッタを使うのかはわからない。だからそれを突き止めるために、こうして名探偵百瀬あかね氏に協力を要請してるんだ」
「てことは、これからどうやって進めていくか、具体的に相談しなきゃダメだね。
じゃ、ちょっととなりに座らせてもらうね」
ツトムのとなりに座ったあとに、百瀬はそう言った。
「ただし、この推論が正しければ、荒木田黄龍をあぶりだす方法はある」
「えっ、どうやって?」
百瀬はツトムの腕にしがみついた。
「それを実行するには、俺とあかねが『あうんの呼吸』で動かなきゃならない。だから呼吸が乱れないよう、ちょっと離れてくれないかな」
ツトムはそう言って、百瀬の腕を振りほどこうとした。
「イヤだ」
百瀬は駄々っ子のように食い下がった。
近くを通った店員の蔑んだ視線に、ツトムの呼吸はさらに乱れた。