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『杏子ちゃんの勤め先ね、思った以上に腐っていたんです。僕は結局彼女を助けるために花京院岳史の息子という威光を使ってしまいました。このままその威を借りて『コノエ産業』に介入しようと思っています』
元々、岳斗はコノエ産業の全体株の十五%以上を取得している主要株主のうちのひとりだったという。
大嫌いな父親の会社『はなみやこ』の関連会社の中で勢いのあるいくつか会社に対して影響力を持っておくことで、父親を牽制したいという狙いがあってのことだったらしいのだが、今回杏子を助けるのにそんな手札は大した役目を果たさなかった。結果的にクソ男のネームバリューを使ってしまった岳斗は予想通り手痛いしっぺ返しを食らうことになった。
杏子を連れてコノエ産業を後にして程なく、父親から連絡があったらしい。
『私の息子であることを利用したからには、後を継ぐ覚悟はできたということだな?』
そう詰め寄られて、それを認めなければ近衛社長に『倍相岳斗がしたことは自分の意思とは無縁だと告げる』と脅される形になった岳斗は、観念せざるを得なかったのだと吐息を落とした。
結局『はなみやこ』の後継者として父親の元へ戻ることを約束した上で、『コノエ産業』へテコ入れをする猶予を勝ち取ったのだと話してくれた岳斗に、大葉は正直驚かされたのだ。
今まで岳斗は何を差し置いても父親から逃げることを第一優先事項にしていたと思っていたから。
「杏……美住さんは岳斗にとってそれほど大切な相手ってことか?」
――己の人生を左右されても構わないから助けたいと思うほどに。
言外にそう含ませた大葉に、岳斗はなんの迷いも見せずに「はい」と即答した。
それを聞いた瞬間、大葉は岳斗を引き止めることを諦めたのだ。
***
「羽理と法忍さんには……」
「法忍さんには大葉さんから土井社長へ話して頂いたあとで、僕から話せたらなと思っています。荒木さんについては……大葉さんのタイミングにお任せします」
もちろん、どんなケースになったとしても、自分からもちゃんと羽理と話す、と岳斗は約束してくれた。
無責任に土恵商事の財務経理課長としての仕事を放り出すことだけはしないでいてくれた倍相岳斗は、退職願を大葉に預けてからもしばらくの間は、いつもと変わらず出社してくれていたから、傍目には常と変わらないように見えただろう。
だが実際にはあれから本日にいたるまでの数日間は、最低限の引き継ぎを大葉にして、『あとのことはよろしくお願いします』と託すための期間だった。
羽理には申し訳ない形での告白になってしまったけれども、ある意味これ以外のタイミングを大葉は思いつけなかったのだ。
羽理の様子を見て、本当に岳斗がいなくなることを気付いていなかったんだなと思った大葉は、だからこそ、と拳を握りしめた。
***
「それで社長」
わざわざ〝伯父さん〟ではなく〝社長〟と呼び掛けたのには大葉なりの理由がある。
そう呼んだだけで恵介伯父が一瞬で〝土恵商事の社長〟の顔になるからだ。それを確認して、大葉は一度ふぅっと息を吐き出すと、口を開いた。
「倍相課長が不在になると財務経理課には大きな穴があきます。その状態で、俺は副社長に就任することはできません」
「大、葉?」
不意に大葉からギュッと手を握られた羽理は、すぐそばで真っすぐ土井恵介を見据える大葉の横顔を見詰めた。
「それはどういう意味かな?」
「財務経理課に新しい課長が着任するまで、俺にその役目を任せて頂きたいのです」
新しい財務経理課長を内部から選出するにせよ、外部から連れてくるにせよ、すぐのことにはならないだろう。大葉は、その隙間を自分に埋めさせて欲しいと申し出たのだ。
「けどそれじゃあ」
「副社長はもともと土恵にはないポストです。そこを埋めることにこだわって、日々の業務が滞る方が問題ありだと思いませんか?」
大葉の言葉に、倍相課長と屋久蓑部長を一気に失うと思っていた羽理は(もしかして大葉とはまだ一緒のフロアにいられる?)と思ってつい社長を凝視する目に懇願の色を滲ませてしまう。
「荒木さん、キミもたいちゃ……屋久蓑部長がもうしばらくは総務部長でいてくれる方がいいの? 副社長夫人の方が良くない?」
その視線を汲まれたんだろう。突然土井社長から矛先を向けられた羽理は、一瞬ビクッと身体を震わせて……すぐ横の大葉を見遣った。すぐさま大葉から大丈夫という風にうなずかれた羽理は「私は大葉のお嫁さんになりたいんです! 彼の役職なんて関係ありません!」と、ハッキリ意思表示をした。