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「ああもう! 寒い! グリュエー! 温かく吹けないの!?」
ユカリは外套の襟を引き寄せて、赤くなって今にも裂けそうな手を擦り合わせるが、少しも温もりを得られない。ここまで魔法の風を背に受けて走り、跳んできた。霜の立った野を越え、凍り付いた川を越え、より強力な冬の軍勢を従える北東へと突き進んできた。しかしそろそろ余裕がなくなってきた。
「ユカリは寒いのなんて平気なんじゃないの?」とグリュエーは呆れた風に吹く。
「私がそう言ったことなんてないよ。それはベルニージュ評。あ!」と言ってユカリはつまずき、しかしグリュエーに助けられて凍った地面に軟着陸する。
「大丈夫? ユカリ」
「平気。怪我はない。ありがとうね、グリュエー。馬より速く走れても長くはもたないね」
「そんなことないよ!」とグリュエーはむきになる。
「こっちの話だよ」ユカリは目を細めて白い地平線に目を凝らす。「ともかく、今日の目的地にはたどり着いた」
真南の太陽は夏の真昼に比べると手の届きそうな高さで輝き、長くたむろしていた朝の冷気を追い払うとともに、北東よりやや東寄りの地平線から顔を出した暗き川の城邑を照らしている。
メードムの城邑は遠目に揺らめいている。人がまだ旅というものを知らない時代には北の果ての怪しの土地とされていたが、その神秘は人の入植とともに取り払われた。
ただしユカリの場合はその限りではない。メードムの城邑の揺らめきはユカリに、遥か南の砂漠の土地では珍しくないという蜃気楼を思い起こさせた。想像の上で何度も訪れたその蜃気楼の街では何もかもが正体のない霞のような、陽炎のようなもので出来ている。大きく聳える蜃気楼の街の城壁を前にしてユカリは門を叩こうとするが、体がすり抜けてしまう。そこには沢山の、蜃気楼の人々が往来し、賑わっている。蜃気楼の声は聞こえないが、蜃気楼の駱駝が蜃気楼の織物を運び、蜃気楼の寺院の陰で蜃気楼の子供たちが遊んでいる。蜃気楼の鐘楼が鳴り響き、蜃気楼の音に驚いた蜃気楼の鳩たちが飛び去った。蜃気楼の王国の蜃気楼の王は久々の客人をもてなすが、蜃気楼の肉も蜃気楼の酒もユカリの胃袋には入らない。ここには確かなものが何一つなく、その熱さでさえまやかしであり、現実の寒さはユカリを否応なく凍えさせた。
ユカリもまたメードムの城邑へとやって来て、その正体を理解する。地上にはいくつかの建物を除くと多くの柱が聳えている。大きいものでは塔の如く店に挑んでいる。それらの柱は例外なく黒に塗られた日干し煉瓦であり、特に大きな柱の頂部分は金に覆われていた。柱がこの土地の人々の信仰に関わっていることはユカリにもすぐに察せられた。それら柱は轟々と唸り、その頂点から白い水蒸気を吐き出し、いくつかは冬の冷たい空気を吸い込んでいた。その全てが換気口なのだと分かって、ユカリは嘆息を吐いて見上げる。
城邑の大部分は地下深くにあるのだった。地下へと繋がる大穴があり、大きな螺旋階段が暗闇へと伸びている。換気口と違って大量の水蒸気が出てきたりはしないが、それでも温もりと湿気にユカリは戒められた体が解き放たれたような気分になった。
かつてユカリとベルニージュが訪れたアルダニの街、エベット・シルマニータの地下街とは比べ物にならない大きさだ。最も狭い通路でも、三十歩の幅がある。
そして冬の軍勢は地下の領域に歯を立てることもできず逃げていく。温もりと湿気が広い空間に詰まっていた。この城邑を造るために、はるか南の熱帯の森に住まう小さくも陽気な神々を誘い出して閉じ込めたのだ、とこの城邑を少し知っているが詳しくは知らない人々の間で信じられていた。実際のところ、その街の与る恩恵は、未だ人の行き着くことのできない地下深くよりもたらされる熱とその加護を得た地下水によるものだった。地下の城邑を東西に流れる湯の流れは大量に染み出した地下水であり、再び帯水層へと染み込んでいく。多くの魔法によって築かれ、培われた技術によって維持されるこの城邑はサンヴィアの心臓とも謳われる。
その温かな城邑で、しかし人々の心は寒々しい。魔導書の衣や元型文字の生み出す謎の光に人々は怯えていた。様々な憶測は恐怖を煽るばかりで、ユカリの耳にする噂は少しも真実に近づけないでいた。
やれライゼン大王国の放った悪霊の仕業だとか、救済機構の予言にある世界を浄化する熱い光だとか、はたまた例の魔法少女と名乗る魔法使いの邪な実験だとか。根も葉もない噂が広まっていった。本当に根も葉もない。それもこのような噂がメードムの城邑だけでなく、サンヴィア各地へと広がっているらしい。とうとう盟主たるトンド王国が動きだし、王命により国内外から優秀な学者や戦士たちを招集し、謎の解明のためにサンヴィア中を捜索させているそうだ。
「温かくて潤ってて最高だね」とユカリは一人呟く。
「せまっ苦しいけどね」とグリュエーは答える。
「夏はどうしてるんだろう?」
サンヴィアの夏がどれほどの暑さになるか知らないが、あまり心地よいものではなさそうだ。
「夏はいま、世界の真裏だよ」
「夏の近況が知りたいわけじゃないよ」
地下の街というのはともかく階段に溢れている。ユカリは適当な階段の端に、はしたなさも気にせず座る。頬に手を当てて安堵の溜息をつく。
ユカリは目を瞑って言う。「ともかく生き返ったような心地だよ」
「死んだことなんてないでしょ」
「死んだような心地にはなったけどね。【開示】の文字の形を断崖に削るのは本当に大変だったね」と言ってユカリは嘆息を吐く。
「最初は啄木鳥を見つけて幸先が良いと思った」とグリュエーも感慨深く言う。
「まあね」ユカリはしっかりと頷く。「いざ崖を削ろうとしたら、その岩山が啄木鳥の王の巣だったもんだから、びっくりだよ。見た? あの鋼の嘴!」
「まるで鯨狩りの銛みたいだった。ユカリなんてひとたまりもないよ」
ユカリはからかうようにグリュエーに食って掛かる。「それを言えばグリュエーだって手も足も出なかったでしょ。啄木鳥の王がその嘴で崖を打った途端、黒雲のような啄木鳥の大群が出てきて」
「啄木鳥の王を乗っ取ろうとした憑依の魔法が啄木鳥の壁に防がれちゃったね」
「偶然だろうけどあんな対策されるとは想像もしなかった。まあ、グリュエーなら次は啄木鳥の隙間を縫って吹けるんだろうけど」
「……もちろんだよ」
視界の端に黒い影が見え、ユカリは慌てて、しかし怪しまれないように何気なく建物の陰に隠れる。それは想像通り、焚書官たちの黒い衣だった。馬丁に十数頭の馬を預け、酒場に入っていく。ずいぶん贅沢な旅をしているようだ。救済機構はいったい何を信じ、何を戒めているのだろう。
「どうしてこうも先回りされるんだろう」とユカリは忌々し気に呟く。
グリュエーが耳元でそよと吹く。「人を探したり追ったりする魔法じゃないかってベルニージュが言ってたでしょ。実際にクオルを追うのに使ってたし」
「でもクオルに対抗魔術で打ち消されてる、らしいじゃない? で、ベルも追われないように色々な魔法を使ってる。でも焚書官たちに先回りされている」
「うーん」グリュエーは少し笑いながら答える。「実力差とか?」
「それベルの前で言っちゃ駄目だよ?」
「平気だよ。聞こえないし」