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第10話:シミュレイテッド・ペイン
午前0時すぎ。都内の旧タイプの記録施設。
時間外のアクセス申請が、ひとりのリスカーによって通された。
受付には誰もいない。
自動灯が点き、データ保管用の半地下室へ導く。
その中に、イタカの姿があった。
今日は珍しく、シャツに濃いインディゴのジャケット。
シャツの袖はまくり、腕には古い傷跡と新しい痣が混じっている。
髪は結ばず、静かに額をなでていた風が、彼の目を覆った。
手には、自分自身の名が記された依頼ファイルがある。
それを開く手は、わずかに震えていた。
【代行体験契約書:S.P-1500】
依頼者:イタカ(S.P-019)
体験者:イタカ(S.P-019)
対象:未処理痛覚記録 No.0:初期損失
内容:本人が体験すべきだった痛みの代行再現
再現形式:構成済・非公開ログ“再再生”による投影
目的:自己記録の完結/最終同期
条件:再体験によるログ破損のリスクあり
観覧:不可(依頼者のみ)
契約カウンターの向かいには、記録官がひとり。
名前はオオセ・ミナト。40代前半の女性で、無地のダークグリーンのワンピースに赤と緑の風のような柄のスカーフ。
眼鏡越しの目は静かだが、イタカの表情を見て、どこか**“ためらいを許さない空気”**を漂わせていた。
「……本当に、これを受けるんですか?
“あなたがあえて見なかった記録”を、もう一度再現するなんて」
イタカは軽く笑った。
「ええ。ずっと、“あれだけは他人に代行できない”と思ってきましたけど。
やっぱり、痛みっていうのは、自分で選ぶことに意味があるなって、最近思って」
彼はゆっくりと、ファイルにサインを入れた。
書き終えた後、ほんの数秒だけ、視線を落として黙ったままだった。
「……自分が依頼者になると、ちょっと緊張するんですね。
痛みを選ぶって、やっぱり面白いな」
その言葉に、ミナトは静かに頷いた。
「それは、“あなたが選んだ後悔”ですから」
ログルームに入ると、
天井からは光が一筋だけ落ちていた。
正面の壁に、【記録No.0】と書かれた記録ボックスが設置されている。
イタカは、機器に自身のログIDを認証させる。
一瞬の遅延の後、映像が再生された。
それは、かつてイタカが“体験せず、記録だけ削除した”はずの出来事だった。
静かな雨の中。
倒れた若い男。
崩れたスタント台。
誰も助けなかった。
そして、誰も気づかなかった“自分自身の泣き声”。
「……そうか、これだったか」
イタカは、目を閉じながら、全身でその記録を受けた。
破裂音のような心音。
呼吸が止まる寸前の、あの“苦しみの寸前”。
「痛いなぁ……
でも、ちゃんと、“今の自分の痛み”になってるのが、なんか……嬉しい」
口元が歪んだ。笑っているのか泣いているのか、わからない。
でも、そこには確かに“人間としての苦しみ”があった。
記録が終わると、
イタカは静かに立ち上がった。
吐息を一つ、長く残しながら、ミナトに封筒を渡す。
その中には、たった一文のログが記されていた。
「これで、“自分が何を失っていたか”、ようやく知った」
ミナトは、封筒を受け取りながら尋ねた。
「……終わったんですか? これで」
イタカは首を振った。
「いいえ。
“始まった”んですよ。ようやく、“誰かじゃなくて、自分として”」
彼は歩き出す。
その背中には、今までと違う、少しだけ温かい重さがあった。
そして、遠くでまた“依頼の着信音”が鳴った。
イタカは、笑った。
「さて……次は、誰の痛みを楽しみにしようかな」
『シミュレイテッド・ペイン』完