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教師×生徒っていいよね。
私立横浜学園の校舎は、放課後の喧騒が去ると途端に巨大な静物へと姿を変える。 三月の足音が聞こえ始めたこの時期、部活動に励む生徒たちの声もどこか遠く、廊下に差し込む西日は、床に溜まった埃さえも黄金色に染め上げていた。
中原中也は、職員室の自分の机で、一枚の答案用紙を眺めて深い溜息をついた。 国語の教師としてこの学校に赴任して数年。彼は大概の生徒の傾向を把握しているつもりだったが、目の前の男――太宰治だけは、どうしても計算が合わない。
「……ったく、あいつは何を考えてやがる」
太宰治。二年生のクラスに在籍するその少年は、学園内でも有名な「変わり種」だった。 端正な顔立ちと柔らかな物腰で女子生徒からの人気は高いが、常にどこか上の空で、何を考えているのか悟らせない。成績はといえば、数学や英語、理科に至るまで、常に学年上位に食い込むほど優秀だ。 それなのに。 中也が担当する「現代文」と「古典」の成績だけが、赤点ギリギリの低空飛行を続けている。
記述式の回答欄は、いつも白紙か、あるいは教科書には載っていないような難解な詩の一節が書き殴られている。 今回の期末考査も例外ではなかった。他教科が九十点台を連発している中で、中也の教科だけは「十二点」。もはや偶然や苦手意識で片付けられる数字ではない。
「……おい、太宰。入ってこい」
中也が顔を上げると、職員室の入り口に、所在なげに佇む長身の影があった。 緩く巻かれた黒髪に、制服の袖から覗く白い包帯。太宰はふらりと中也の机まで歩み寄ると、薄く笑みを浮かべて見せた。
「呼び出しなんて心外だなぁ、中也先生。私はこう見えて、繊細なガラスのハートの持ち主なんだよ?」 「そのガラスのハートを、この答案用紙で叩き割ってやりたい気分だぜ」
中也はベシッと答案を机に叩きつける。 太宰はそれを一瞥し、「おや、過去最低記録かな」と他人事のように呟いた。
「他の教科は全部A判定。なのになんで俺の授業だけ、名前を書くのすら忘れるような真似しやがる。お前、頭はいいんだろ」 「頭がいいのと、点数を取るのは別問題だよ。それに、古典の助動詞なんて、私の人生にはこれっぽっちも必要ないしね」 「抜かせ。……いいか、このままじゃ単位が足りねえ。今日から一週間、放課後に個別補習だ。図書室の奥か、空き教室に来い」
太宰は一瞬だけ、その濁った瞳を揺らした。だがすぐに、いつもの食えない笑みに戻る。
「マンツーマンの特別授業? 光栄だね。じゃあ、美術室の隣の空き教室で待ってるよ。あそこは陽当たりがいいから」
そう言って背を向けた太宰の足取りは、心なしか軽やかだった。
放課後の空き教室。 使い古された木製の机が並ぶ中、太宰は窓際の席に座って、頬杖をつきながら外を眺めていた。 ガラリと扉を開けて入ってきた中也は、手にした参考書とプリントを机に置く。
「始めるぞ。まずは、お前が白紙で出した『山月記』の記述問題からだ。李徴の心情を述べよ……お前、ここになんて書こうとした?」 「……虎になってまで守りたかったプライドなんて、滑稽だと思わないかい?」
太宰は教科書を開きもせず、窓の外を見つめたまま答える。
「自尊心と羞恥心。それらが肥大して、自分を人間でなくしてしまう。彼は孤独だったんじゃない。自分という檻に閉じ込められていただけだ。……ねえ中也先生。言葉にできない想いは、存在しないのと同じなのかな」
中也はペンを回す手を止め、太宰の横顔を見た。 夕闇が迫る教室で、少年の影は驚くほど細く、今にも消えてしまいそうに見える。 授業中の太宰はいつも窓の外を見ているか、机に突っ伏して寝ている。だが、今ここで自分と対峙している太宰は、これ以上ないほどに「言葉」を求めているように感じられた。
「……存在しねえわけねえだろ。言葉にならねえから、のたうち回って、虎にまでなっちまうんだ。お前だって、そうだろうが」 「私は虎にはなれないよ。せいぜい、水に溶ける塩みたいなものさ」
皮肉げに笑う太宰に、中也は小さな苛立ちと、それ以上の焦燥感を覚える。 補習が始まって三日、四日と過ぎても、太宰の学習態度は一向に改善しなかった。問題は解けるはずなのに、わざと間違え、わざと論点をずらす。 中也が教えれば教えるほど、太宰は手の中から滑り落ちていくような、奇妙な感覚。
そして補習の最終日。 予報外れの雨が窓を叩き、室内はいつもより暗い。 中也は最後の一問を解説し終えると、大きく息を吐いて椅子に背をもたれさせた。
「……これで全部だ。明日、追試をやる。今度こそ、まともな点数取れよ」 「努力はしてみるよ。約束はできないけれど」
相変わらずの不真面目な態度に、中也の中でずっと溜まっていた疑問が口をついて出た。
「なあ、太宰」 「なんだい?」 「お前……そんなに俺の授業が嫌いか? それとも、俺のことが気に食わねえのか」
中也の声は、雨音に紛れて少しだけ震えていた。 教師として、あるいは一人の男として。自分だけが避けられ、拒絶されているような感覚。他教科は完璧にこなす太宰が、なぜ自分の前でだけ「出来の悪い生徒」を演じるのか。 その理由は、嫌悪以外に思い当たらなかった。
太宰は一瞬、目を見開いた。 雨の音だけが響く静寂。太宰はゆっくりと視線を窓から中也へと移した。 その瞳には、先ほどまでの虚無感など微塵もなかった。代わりに宿っていたのは、熱を帯びた、酷く純粋な煌めき。
「ふふっ……」
太宰は短く、喉を鳴らして笑った。 馬鹿にしたような笑いではない。心の底から溢れ出したような、子供のような微笑み。
「逆だよ、中也先生。本当に、君は鈍いなぁ」 「……あ?」 「私が君の授業を嫌いなわけないだろう? むしろ、大好きだよ。君が黒板に書く文字も、朗読する少し低い声も、熱心に文学を語るその横顔も」
太宰は机に身を乗り出し、中也の顔を覗き込んだ。至近距離で見つめ合う形になり、中也は思わず息を呑む。
「でもね、普通の授業じゃ満足できないんだ。四十人も生徒がいる中の一人として、君に見られるのは嫌だった。……だから、点数を落としたのさ」 「……お前、まさか」 「そう。中也先生と二人きりで、この静かな教室で、私だけのために言葉を尽くしてほしかった。補習なんていう口実がなければ、君は私をこんなに長く見つめてはくれないだろう?」
太宰の告白は、雨の日の湿り気を帯びて、中也の胸の奥深くに突き刺さった。 計画的な犯行。あまりにも屈折した、けれど痛いほどに切実な独占欲。 目の前の少年は、自分を「水に溶ける塩」だと言った。放っておけば消えてしまう自分を、中也という器に閉じ込めてほしかったのだ。
中也は呆然とした後、顔が熱くなるのを感じた。 教師として、生徒を叱らなければならない。不真面目な動機で成績を操作したことを、厳しく嗜めるべきだ。 けれど、太宰の真っ直ぐな視線を受けて、中也の口から出たのは、全く別の言葉だった。
「……手前、そんなことのために、わざわざ赤点取ってやがったのか」 「名案だったと思わない? おかげで、一週間も君を独り占めできた」 「馬鹿野郎……。お前が真面目にやってりゃ、補習なんてしなくても……」
言いかけて、中也は言葉を飲み込んだ。 太宰が真面目に授業を受け、良い点数を取り、優秀な生徒として卒業していけば、二人の接点はそこで終わる。 この放課後の密やかな時間は、太宰の「わがまま」によって生み出された奇跡のような隙間だった。
中也は「やれやれ」と頭を掻き、視線を逸らしながら笑った。 それは降参の合図でもあり、彼なりの受容でもあった。
「ったく、度し難いガキだぜ、お前は」 「ガキ扱いはひどいなぁ。これでも、色々考えてるんだよ?」 「考えてることが不純なんだよ。……いいか、追試で満点取れ。そうしたら、考えてやる」 「何を?」 「決まってんだろ」
中也は立ち上がり、太宰の頭を乱暴に、けれど慈しむように撫でた。包帯の巻かれた細い首筋が、微かに赤くなるのが分かる。
「卒業したらな。……それまでは、ただの教師と生徒だ。分かったか」
それは、言葉にしない「愛してる」の代わりだった。 今はまだ、踏み越えてはいけない一線。けれど、その先にある未来を、中也は明確に提示した。
太宰は驚いたように目を見開いた後、今日一番の、晴れやかな笑みを浮かべた。
「……うん。約束だよ、中也」
外の雨は、いつの間にか止んでいた。 雲の隙間から差し込んだ僅かな月光が、二人の影を一つの長い線として、床に描き出していた。
卒業まで、あと一年。 太宰が二度と赤点を取ることはなかったが、放課後の図書室や空き教室には、時折、コーヒーを二つ持った教師と、それを待ち侘びる少年の姿が見られたという。
言葉にせずとも、二人の間には、誰にも解けない難解な、けれど美しい物語が綴られ続けていた。