テラーノベル
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素直になれない中太いいよね
スマートフォンの液晶が、薄暗い探偵社の事務室で青白く光っている。 画面に表示されているのは、胡散臭い原色のアイコンが並ぶ「催眠アプリ」なる代物だ。巷で流行っているのか、それとも単なる悪質なジョークソフトか。 私――太宰治は、ソファに深く身を沈めながら、その画面を指先で弄んでいた。
「……阿呆か。そんなもんに引っかかる奴がどこにいる」
聞き慣れた、低くて少しばかり攻撃的な声。 目の前には、私を監視するという名目で居座っている元相棒、中原中也がいた。彼は呆れたように肩を竦め、手に持ったワイングラスを揺らしている。
「おや、中也。君は科学の進歩を軽視しすぎだ。このアプリ、レビューによれば『どんな頑固な猛犬も大人しくなる』そうだよ。まさに君にぴったりじゃないか」 「誰が猛犬だ。手前、ぶちのめされたいのか」
「まあまあ。どうせ信じていないなら、少し試させておくれよ。もし効かなければ、君の勝ちということで、負けた方が今夜の夕食を奢る。どうだい?」
中也は鼻で笑った。 彼は、自分の精神耐性に絶対の自信を持っている。ポートマフィアの幹部として、数多の精神操作系の異能者と渡り合ってきた男だ。こんなチープな電子音や視覚効果に屈するはずがない――そう、彼は信じている。
「いいぜ。手前の浅知恵が通用しねえってことを、その腐った脳味噌に叩き込んでやるよ」
中也は私の正面に座り直した。 挑戦的な瞳が私を射抜く。その瞳の奥にある、私に対する無意識の「信頼」に、私の胸の奥がチリりと焼けた。
私はアプリを起動した。 画面の中央で、同心円状の幾何学模様がゆっくりと回転を始める。スピーカーからは、心臓の鼓動に近い一定のリズムの重低音が流れ出した。
「さあ、中也。画面をじっと見て。瞬きもしないで。私の声だけを聴くんだ」
私は、わざと声を低く、意識の深淵へ誘うような響きを持たせる。 中也は最初、嘲るような笑みを浮かべていた。だが、十秒、二十秒と経つにつれ、その鋭い視線が微かに揺らぎ始める。
「……チッ、なんか……目が回りやがる……」
「そうだろう? 身体が重くなって、指先から力が抜けていく。君の意識は、私の声という一本の糸だけで繋がっている……」
中也の呼吸が深くなる。 彼ほどの男が、これほど簡単に術中に落ちるはずがない。本来なら。 だが、これはアプリの性能ではない。彼が「私」の声に、その防衛本能を無意識に明け渡しているからに他ならない。
カラン、と乾いた音がして、中也の指先からグラスが床へ滑り落ちた。絨毯が赤く染まるが、彼はそれに気づく様子もない。 重たげに瞼が下がり、中也の意識は白濁した闇へと沈んでいく。
「……中也。聞こえるかい」
「……ああ……聞こえる……」
掠れた、頼りなげな返事。 私はスマートフォンを机に置き、ゆっくりと彼に近づいた。
催眠。それは、相手の深層心理にある願望を引き出す鏡だ。 私は彼の顎を指先で掬い上げ、その無防備な顔を見つめる。普段の凶暴なマフィアの面影はなく、ただ私という存在を全肯定して待っている、従順な「私の」中也がそこにいた。
「中也。君の一番やりたいことを言いなさい」
私は意地悪な問いを投げかける。 本来の催眠なら、「太宰を殴れ」とか「金を差し出せ」といった命令を与えるのが定石だろう。だが、私は知りたかった。彼がその頑固な理性の檻に閉じ込めている、剥き出しの本音を。
中也の唇が、震えるように動く。
「……太宰……」
「そう、私だ。何をしてほしいんだい?」
「……どっか……行く……な……」
心臓を素手で掴まれたような衝撃が、私を貫いた。 中也は私の服の裾を、力なく、けれど必死に握りしめていた。
「また……置いていくのか……独りで……暗いところに……」
「…………」
「手前が……いないと……俺は……」
言葉は途切れ、中也の目尻から一筋の涙が溢れた。 それは、四年前のあの夜から、彼の中にずっと淀んでいた寂寥の結晶だった。 彼は私を憎んでいると言いながら、その実、誰よりも私の不在を恐れていた。催眠という名の「許し」を得て、彼はようやくその弱さを吐き出したのだ。
私は、自分が想像していた以上に「嫌な男」だと再確認する。 こんなアプリなど使わずとも、彼が私を愛していることなど、とっくに知っていた。それなのに、こうして彼の心を引き摺り出し、無防備な姿を見て愉しんでいる。
「……莫迦だね、君は。私がどこへ行くっていうんだ」
私は中也をソファに押し倒すようにして、その震える身体を抱きしめた。 耳元で、彼にしか聞こえない呪文を囁く。
「中也。今から言うことは、君の魂に刻まれる。目覚めた後も、君を支配し続ける。……いいかい?」 「……ああ……」 「君は、私のものだ。死ぬまで、死んだ後も、君の居場所は私の隣にしかない。他の誰にも、君を触らせない。君自身にさえ、君を傷つけさせない」
独占欲。支配欲。 愛という綺麗な言葉では包みきれない、泥濘のような感情。 中也は私の腕の中で、深く、安らかな溜息をついた。
「……わかった……太宰……」
私は彼を解放し、スマートフォンの電源を切った。 部屋を包んでいた不気味なリズムが消え、窓の外の街灯が室内に差し込む。
数分後。 中也は大きく瞬きをして、意識を取り戻した。
「……はっ!? おい、今、俺……」
「おやおや、中也。開始三秒で寝てしまうなんて、お疲れのようだね。催眠どころか、ただの昼寝じゃないか」
「あ!? 寝てねえよ! ……クソ、なんだか頭がぼーっとしやがる……」
中也は顔を赤くして、散らばったグラスの破片や溢れたワインを見て毒づいた。 彼は何も覚えていない。自分が何を言い、私が何を囁いたのか。 けれど、彼が立ち上がろうとした時、その動きが一瞬止まった。
彼は怪訝そうに自分の胸元を押さえ、それから私を、射抜くような強い視線で見つめた。
「……おい、太宰」
「なんだい? 夕食は君の奢りだよ」
「……なんか、手前に言わなきゃいけねえことがあった気がするんだが……」
「おや、借金の返済かな?」
「違う。……もっと、こう……」
中也は言葉を探すように視線を彷徨わせ、最後には諦めたように溜息をついた。 そして、乱暴に私の腕を掴み、自分の方へと引き寄せる。
「……まあ、いい。とにかく、手前は今日、俺から離れるんじゃねえぞ。飯も、その後もだ」 「それは命令かな?」 「ああ、命令だ。逆らうなよ」
中也は、催眠の言葉を頭では忘れていても、魂で受け取っていた。 彼は、自分がなぜこれほどまでに私を求めているのか理解できないまま、ただ本能に従っている。
私は、彼に隠れて薄く笑った。 催眠アプリ。そんなインチキな道具に頼らなくても、私たちは初めから、お互いという名の呪いにかけられているのだ。
「いいよ、中也。君の命令なら、喜んで」
夜のヨコハマ。 解けることのない催眠にかかったまま、二人の影は重なり合い、深い闇へと溶けていった。
アプリの画面には、いつの間にか「終了しました」という文字と共に、ハートマークのアイコンが一つ、静かに点滅していた。