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第五話 過去の記憶は、たいてい今の苛立ちに化けている
新田には、ひとつだけ忘れられない記憶がある。
新人編集だったころのことだ。
まだ二十代で、理想だけは今より多く、しかし技術も経験も足りなかったころ。担当していた年上の作家がいた。デビュー二作目で伸び悩み、評価は高いが数字がついてこない。酒が増え、電話は長くなり、打ち合わせでは希望と絶望を行ったり来たりする人だった。
新田はその人に、言えなかったことがある。
もっと早く、もっとはっきり、言うべきだったのだ。
このままだと厳しいこと。
あなたは今、書くことそのものではなく、“傷つかない自分”を守ることに必死になっていること。
でも新田は言えなかった。
若かったし、嫌われたくなかったし、その作家の繊細さに気を遣いすぎていた。
ある日、その作家は原稿を落とした。
落としただけではない。
そのまま連絡がつかなくなった。
数週間後、届いたのは本人からではなく、家族からの連絡だった。
病気だった。
入院していて、しばらく書けないという。
回復はした。
だが、その人は結局、商業には戻ってこなかった。
最後に一度だけ会ったとき、その作家は笑っていた。
「君は優しすぎたね」
「……」
「でも、編集はたぶん、優しいだけじゃだめなんだよ」
新田は何も返せなかった。
あの言葉は、今でもときどき夢に出る。
だからだろう。
今の彼は、作家に嫌われることを前ほど怖がらない。
むしろ必要なら、嫌われても言う。
見捨てるつもりがないなら、なおさら言う。
あの売れない小説家に対して、新田がときに冷酷に見えるほどはっきり言うのは、そのせいでもある。
また止められなかった、と思いたくない。
もっとも、あの男は昔の作家とは違う。
壊れる方向ではなく、ぐずぐずと自分を消耗させていくタイプだ。
静かに腐る。
それがいちばん厄介だと新田は知っていた。