テラーノベル
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また一週間が始まる。
――翌日。
かなり憂鬱な気持ちを引きずりながら、私は適当にオレンジジュースを喉へ流し込んだ。
凹凸のない、のっぺりとしたスーツに身を包み、鏡を覗き込む。
目は赤く、腫れぼったくて、クマがくっきりと浮かんでいた。
とてもこのまま外には出られない。
普段はほとんど使わないメイク道具を手に取り、少し手間をかけて顔を整える。
なんとかクマが隠れたのを確認して、私はようやく家を出た。
常務の件だってあるのに、こんなプライベートなことで悩むなんて――。
自分にそう言い聞かせながらも、気持ちは晴れないまま会社へ向かう。
なんとか気合いを入れて秘書課のドアを開けると、誰もいなかった。そのことに、思わずホッと息をついた。
給湯室でコーヒーを落としていると、不意に背後に気配を感じる。私は反射的に振り返った。
「水川さん」
そこにいたのは、夏川さんだった。
「夏川さん、おはようございます」
いつも通りの声で挨拶を返す。けれどその視線が冷たくて、また何か言われるのではと身構えた。
「あなた、副社長と何かあるの?」
いきなり名前を出され、胸が跳ねる。
ドキッとしながらも、なんとか表情を崩さずに答える。
「どういう意味ですか? 上司と部下ですが」
「そう。じゃあ、この間の――抱き合っていたのは、どういうことかしら?」
その少し苛立ちを含んだ声に、私は悟った。見られていたのだ、あのときのことを。
たしかに、あの場に居合わせただけなら誤解されても仕方がない。
でも、本当にあれは――誤解だ。私と誠には、何もない。
今じゃなくてもいいのに、と思いながら、私は自嘲気味に笑い、夏川さんを見た。
「倒れそうになったのを支えていただいたんです。副社長は、誰にでも優しい方なので」
本当に、それだけだった。
そう口にした自分の言葉に、少しだけ傷ついて、小さく息を吐く。
「そう」
納得したのか、していないのか。夏川さんの返事は曖昧だったけれど、正直どうでもよかった。
「失礼します」
そうだけ言って、私は静かに給湯室を後にした。
仕事をしなければ。
役員会は、もう三日後に迫っている。それまでに、誰にも口を挟ませないだけの証拠書類を作成しなければならない。
それに、誠のスケジュールも分刻みでびっしりと詰まっている。
しばらく仕事に集中していたはずなのに、出社してこない誠の姿と、昨日のあの女性との場面が、ふと頭に浮かんでしまう。
……仕事にプライベートを持ち込むなんて、最低だ。
自分を戒めていると、扉が開く音がして、私は思わずキーボードを打つ手を止めた。
「おはよう、水川さん」
いつも通りの、あの嘘っぽい笑顔を浮かべた誠。
私はそれに真顔で「おはようございます」とだけ返す。これでいい。これが、いつもの私。
そう、心の中で自分に言い聞かせる。仕事中の私は、笑わない。それがいつものルール。
……今のは、普通に言えた?
そう思いながら、自室へと向かう誠の背を見送り、私はようやく小さく安堵の息を吐いた。
仕事となれば、顔を合わせないわけにはいかない。
少しして気持ちを落ち着け、副社長室へと向かう。
手にしたタブレットを見ながら、予定を確認し、報告する。
「明日の会食は、日本料理・吉瀬の個室を19時よりお取りしています。先方にも連絡済みです」
「ありがとう」
誠が、まっすぐに私を見つめる。
探るような、その視線に気づきながらも、私は視線をそらせずにいた。
何かを言いたそうなその表情が、静かに胸に刺さる。
やっとのことで、私は自分から視線を外すことに成功した。
「あ……失礼します」
それだけを伝えて、副社長室をあとにし、自分の席へ戻る。
――全然、普通にできていないじゃない。
仕事は山積みで、とても定時で終わるような量ではなかった。
けれど、誠と同じ空間に居続けるのがつらくて、私は彼に許可をもらい、家で作業することにした。
今日だけ。今日だけ。
明日からは普通にする。そう自分に言い聞かせながら、会社を出た。
歩き出したとき、妙な視線を感じた。
手のひらにじっとりと汗がにじむ。ゆっくりと振り返る――けれど、そこには誰もいない。
……気のせいだ。
そう自分に言い聞かせて、私は足早に家へと向かった。
***
昨日の気配が気にならないと言えば嘘になる。
だが今日は、夜に会食も控える大事な日だ。
夕方、そろそろ時間という頃合いを見て、私は車を手配し、誠に声をかけた。
「副社長、お時間です」
「わかった」
エントランスに出れば、誠は否応なく視線を集める。
当然、私はその隣にいるのだから、同じように注目される。
小さく息を吐いた。聞こえてくるのは、いつも通りの声――「なんであの人が一緒にいるの?」という視線と言葉。
その空気に、つい、またため息がこぼれる。
「水川さん、ため息なんてついて、どうしたの?」
そこにいたのは、副社長としての、あの演技がかった笑顔。
私は表情を崩すことなく、「なんでもありません」とだけ答えた。
……そして、自分がまたため息をついていたことに、気づいていなかった。
会食は問題なく進んだ。
契約の続行、そしてお互いの会社における常務の処分――話はその線でまとまりを見せた。
「この度は誠にありがとうございました」
深く頭を下げた誠に、先方の社長は笑顔で応える。
「こちらこそ助かりました。不正をきちんと見つけてくださって、感謝していますよ」
一回りは年上に見えるその人は、誠の肩をポンと叩いた。
「それは、うちの水川のお陰です」
誠が突然そう口にし、視線を私へ向ける。
「そうですか、優秀な秘書をお持ちで、うらやましいですな」
そう言われて、私もようやく安堵し、頭を下げた。
***
翌日の会議。
不正を指摘された木下常務は、誠を睨みつけていた。
しかし、それも空しく、彼には地方への出向が命じられる。
解雇とならなかったのは、社長の温情だろうか。
「水川さん、お疲れ様。本当にありがとう」
副社長室に戻り、ようやく安堵の息をついたところに、誠の声が背後から届いた。
私は振り返り、そっけなく答える。
「いえ、仕事ですので」
可愛げのない言葉が口をついて出てしまい、自分に嫌気が差す。
でも――どうしても、あのときの女性との姿がちらついてしまうのだ。
「お礼と言ってはなんだけど、今日、夕食行かないか?」
その言葉が、職務上のものなのか、それともプライベートとしての誘いなのか、私には判断がつかず、視線が宙をさまよう。
「今日は……」
「わかった」
誠のその返事が、なぜか傷ついているように聞こえた。
どうして? どうして、そんな顔をあなたがするのよ――。
気まずい空気が室内に残り、私はその場に耐えきれなくなった。
「今日の報告書は、明日やります。もう、失礼してもよろしいですか?」
定時はとっくに過ぎていた。私は短く要件だけを伝える。
「ああ」
そっけなく返されたその声に、胸がきゅっと締めつけられ、涙が込み上げる。
それを必死にこらえながら、私はバッグを手に取り、副社長室のドアノブに手をかけた。
「莉乃」
少し怒ったような声音。その一言に、私は反射的に振り返っていた。
目が合う。誠の瞳が見開かれたのが分かった。
――私の涙のせいだ。
それに気づいた私は、咄嗟に涙をぬぐい、そのまま駆け出すように部屋を飛び出した。
「莉乃!」
背後から聞こえる誠の声。
だけど、私は立ち止まらない。目の前のエレベーターに駆け込み、「閉」ボタンを何度も押す。
扉が閉まり、誠の顔が見えなくなる。
――どうして、追いかけたの?
エレベーターの中で、思わず言葉が漏れた。
私のことなんて、放っておいてよ。
……私は、あなたを独り占めしたいの。
そんな自分の気持ちに、心の底から驚いていた。
昔の元カレとの恋愛なんて、おままごとだったんだ。
人を好きになるって、こんなに――苦しい。
会社の外に出ると、未練がましく振り返ってしまう。
……誠が、追いかけてきていないかと。
でも、そこに彼の姿はない。
自分から逃げ出したのに、追いかけてきてほしいだなんて。
私はなんて、面倒で子どもなんだろう。
「莉乃」
うつむいたまま歩き出した、そのとき。
不意に――あの声が、聞こえた。