その脳裏に焼き付いた、あの声。
その瞬間、私の体から一切の力が抜け落ちたように、呼吸さえ止まりそうになる。
――溝口。
「やっと一人になったな。あの男は、何なんだ?」
低く湿った声。ゆっくりと私へ歩み寄ってくるその姿に、私は声すら出せず、ただその場に立ち尽くしてしまう。
街灯に照らされて、一瞬だけ光るものが見えた。彼の手元に――刃物。
その光景に、あのときの記憶が嫌でも鮮やかによみがえる。
逃げられなかった過去。閉じ込められた日々。
私は喉の奥がカラカラに乾き、まともに息もできなくなる。
「こないで……」
それは声になっていたのか、それともただ口が動いただけなのか。自分でも分からない。
足はすくみ、手も震え、動けない。いや、動こうという気力すら湧かない。
溝口が一歩、また一歩と距離を詰めてくる。
「戻ってくるなら、傷つけない」
その目には、かつて私が知っていた彼の面影など微塵もなかった。
完全に常軌を逸した――狂気だけがそこにあった。
私は首を振ることもできず、声も出せず、ただその場に凍りつく。
すると、彼が突然叫んだ。
「どうなんだ! 戻るって言え!」
怒鳴り声が夜の静けさを裂く。私はびくりと肩を揺らした。
会社の前という場所柄もあり、通りかかった人々や警備員が様子に気づいて立ち止まり、遠巻きに集まり始める。
その気配に焦りを見せた溝口は、突然私の背後に回ると、強引に両腕を後ろからつかんだ。
「やめてっ……!」
声にならない悲鳴とともに、私は身体を硬直させる。
彼の腕に力がこもると同時に、冷たい金属の感触が、首筋に突きつけられた。
ナイフだった。
逃げようとしても、体は言うことを聞かない。
恐怖で全身が凍りつき、涙が頬をつたう。
……やっぱり、私はこの男から逃れられないのだろうか。
そう思った瞬間、私はギュッと目を閉じて、ただ時間が過ぎていくのを待った。
「莉乃!」
――聞きなれた声。
その声に、私はハッとして目を開ける。
そこには、息を切らしながら駆けつけてきた誠の姿があった。
見えた瞬間、体の奥がふっと軽くなるのを感じる。
状況は何も変わっていないのに、不思議と「大丈夫」と思えてしまった。
「誠!」
人目もはばからず、私は声を上げる。
すると、溝口が怒りに満ちた声で叫んだ。
「黙れ!」
彼の手に力がこもり、ナイフがより強く首元に押し付けられる。
だけど、私はもう、あの声に触れたことで、少しだけ勇気を取り戻していた。
誠が一歩踏み出し、毅然とした声で言う。
「おい、周りを見てみろ。逃げられると思うのか?」
その言葉に、私の心にも希望が差し込む。
溝口がわずかに周囲を見渡すのが分かる。いつの間にか、警備員や警察官まで集まり、彼を取り囲んでいた。
……そのときだった。
突きつけられていたナイフが、ふっと首元から離れる。
拘束されていた腕の力も抜けた。
――いまだ。
私は反射的にしゃがみこみ、彼の腕から一気に抜け出す。
その瞬間、誠が走り寄り、私の手を引いた。
その手のぬくもりに、私は全身の力が抜け、思わず彼にしがみついた。
背後では、「やめろ!」という溝口の叫び声と、
「おとなしくしろ!」という複数の警察官たちの声が交錯する。
そっと振り返れば、数人の警察官に押さえ込まれ、手錠をかけられている溝口の姿があった。
その光景に、私はようやく心から安堵し、力が抜けて、そのまま膝が崩れそうになる。
けれど――誠が、しっかりと私を支えてくれていた。
「大丈夫か?」
心配そうに見つめる誠に、私は震える声で答えた。
「ありがとう……」
あのとき、誠の姿を見なければ、私は一歩も動けなかったと思う。
本当に、何もできなかった。
「莉乃!」
溝口の声が、パトカーへ連行される間際にまた響いた。
私はギュッと唇を噛み、もう一度だけ彼に向き直る。
「ごめんなさい。私は、もうあなたとは二度と会わない」
言葉には、一切の迷いがなかった。
私の瞳をじっと見返した溝口は、一瞬、目を見開き――
そのまま、静かにパトカーへと乗り込んでいった。
そのあとの誠は――さすがだった。
社内での騒ぎが広がらないよう、社員たちにはすぐに箝口令を敷き、警察への対応もすべて自ら行ってくれた。
さすがにあの一件の後では、私も事情聴取のために警察署へ行かなければならなかったけれど、誠は何も言わず、当然のように付き添ってくれた。すべてに、ぬかりなく。
ニュースになるだろう。
そうなれば、また両親に心配をかけてしまう。
そんな私の不安を察してか、誠は「上司として事情を説明する」と言って、実際に両親へ電話までかけてくれた。
溝口の件についても、誠はすでにある程度調べていたようで、「今回のことで莉乃が不利になることは一切ない」と断言した。会社として、法的な対応をすべて引き受けると。
……また迷惑をかけてしまった。
そう思ったけれど、それでも――あの場で一人だったら、私は何もできなかったと思う。
もう深夜近く。
送るよ、と申し出てくれた誠の好意を、私は躊躇いながらも受け入れ、彼の車の助手席に座っていた。
言葉を探して、私はそっと切り出す。
「あの、ご迷惑をかけて本当に……」
「それは別にいいって言っただろう。それより、大丈夫か? 顔色が戻らないぞ」
心配そうな誠の声に、私はハッとする。
自分ではもう落ち着いたつもりだったけれど、まだ体は強張ったままだった。
――このまま、彼のやさしさにすがってしまいたい。
けれど、その優しさが苦しくなることも、私は知ってしまった。
「……一人で家に帰ります。大丈夫です」
覚悟を決めて、そう伝えた。
運転中だった誠が、思わず私に顔を向ける。
「莉乃!」
少し怒気を含んだ声。私はビクリと肩を揺らす。
「すまない……。こんな日に……」
悲しげに崩れたその声が、胸の奥を強く締めつける。
いろんな感情がいっぺんに押し寄せてきて、気づけば私は涙を流していた。
「あの……奴は捕まったし、大丈夫……」
そう口にしてみても、実際は全く平気じゃなかった。
張りつめていた気持ちが急に緩み、手が震えていた。
誠は、それ以上何も言わなかった。
俯いたまま、静かな車内。
やがて車が止まる。顔を上げれば、そこは誠のマンション前だった。
思わず身構えた私に、彼が懇願するように口を開く。
「莉乃、頼むから……降りてくれ。俺が一緒にいないと、心配で仕方ないんだ」
上司として。友人として。
どんな感情であれ、誠が私を気遣ってくれるのは当然のことだ。
これ以上迷惑はかけられない。そう思って、私は黙ってうなずいた。
「莉乃、シャワー浴びておいで」
そう言われ、断ろうとしたけれど……溝口に触れられたあの感触が、まだ肌に残っているようで、気持ち悪かった。
「ごめんなさい」
自分でも、何に対して謝ったのか分からなかった。
そのままシャワーを借り、着替えとして渡された誠の部屋着を身につける。大きくて、ぶかぶかだったけれど、なぜか少し安心した。
リビングに戻ると、誠がソファに座り、天井を仰いでいた。
彼も疲れているはずだ。連日の激務に加え、今日の一件、そして私の対応まで。
「私はソファを借りれれば十分だから。誠も眠って。今日は、本当にありがとう」
そう告げると、誠が立ち上がり、こちらへ足早に近づいてくる。
「莉乃! どうしたって言うんだ! ……こんな日ぐらい、一緒に眠ろう?」
突然の態度の変化に、彼も混乱しているのだろう。
でも――私の心は、もう平静ではいられなかった。
あの夜、バーで見た女性のことが、頭を離れない。
あの姿を見てしまった私は、「二番目でもいい」なんて思っていた自分に、もう戻れなかった。
私はただの部下で、彼の恋愛対象にはなれない。
その現実が、思った以上に私を傷つけていた。
どうしてそんなことを言うの。
そんなふうに優しくしないで。
今日の恐怖も、その感情も、すべてがぐちゃぐちゃになって溢れ出す。
「私に……もう構わないで!」
口から飛び出したその言葉に、すぐに後悔が押し寄せた。
助けてもらって、守ってもらって、ここまでしてもらった人に――そんなこと、言うべきじゃなかったのに。
泣くなんて卑怯だ。そう思っても、涙があふれるのを止められなかった。
「どうして急にそんなことを言うんだ?」
静かに、でも何かに耐えるように絞り出された誠の声。
その瞳を見て、私はたまらなくなって、彼のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
「ごめんなさい……いろいろしてもらったのに……でも……」
でも――その先の言葉が見つからない。
沈黙の中、誠がゆっくり口を開く。
「俺が強引だったから、嫌になった?」
え……?
「キスをするのも、抱きしめるのも……莉乃は、嫌だったよな……」
それはまるで、自分に言い聞かせるような声だった。
「だから……どういうつもりでそれをするの? 私がトラウマ持ちだから? かわいそうだからキスして、抱きしめてくれたの? リハビリのつもりだった……? ……自分は女の人と会ってるのに……」
本音が、とうとうこぼれた。
私はその場に、力が抜けるようにして座り込んだ。
「え……?」
誠はその場に立ち尽くし、私を見下ろす。意味が分からないという顔。
でも――もう逃げたくなかった。
溝口の件が終わった今、誠とのこともきちんと向き合いたかった。
私は大きく息を吐き、意を決する。
「この間、バーで見たの。きれいな女性と親密そうに話してたの。
誠にはたくさん女性がいて、誰にも本気にならないんだって、思った。私のことも、遊びなのか、同情なのか、部下だからなのか、わからない。
でも……私はそんな軽い付き合いは無理だから……。だから――」
「違う!」
私の言葉を遮るように、誠が勢いよくその場にしゃがみこみ、私の目を真正面から覗き込む。
「莉乃、違う!」
その真剣な眼差しに、私は吸い込まれるように言葉を失った。
「何が……違うの……?」
震える声で聞く私の目の前で、誠が、私をそっと抱きしめた。
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