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「そうはさせないよ」
突然聞こえてきた耳慣れた声に、一華も乃恵も麗子も振り返った。
「それだけ元気があるってことはいいことだと思うけれどね」
誰の許しも請うことなくテーブルへと近づいてくる男性。
それは3人共によく知る人物。
ヤバッ。
麗子が心の中で呟いた。
「随分派手にやってるようじゃないか」
テーブルの上に広げられた料理やグラスに目をやりながら、呆れた顔。
「「「・・・」」」
その圧のある言葉に、誰も返事ができない。
目の前にいきなり現れたのは、完璧なオーダースーツをサラッと着こなし整った顔で眼光鋭く周りを威圧する鈴森商事の御曹司。
「孝太郎、どうしてここへ?」
最初に反応したのは麗子だった。
今は出張で大阪のはず。
まだ帰ってくる予定にはなっていない。
「小熊から麗子の体調がよくないって聞かされて、無理して帰ってきたんだよ」
「そんな・・・」
麗子が何よりも避けたいのは、自分が孝太郎の足を引っ張ってしまうこと。
彼の力になることはあっても負担にはなりたくない。そんなことになるくらいなら、自分は身を退く。
ずっと、そう思ってきた。
「私は大丈夫なのに。明日だって、明後日だって、大切な会議があったはずでしょ?」
孝太郎のスケジュールを把握している麗子の口調が少し強くなった。
今は孝太郎にとっての正念場。
うまく社長就任を乗り切らないとこの先仕事がやりにくくなるだろうし、下手をすれば鈴森商事の経営自体にも影響を及ぼしかねない。
自分のために時間を裂いて欲しくないと、麗子は考えていた。
***
麗子の前まで来て歩を止めた孝太郎。
「お前のことだから、放っておいたら又よからぬことを考えるだろ?だから帰ってきたんだ」
ウッ、鋭い。
「さすがお兄ちゃん。よくわかっているじゃない」
それまで唖然として見ていた一華が、楽しそうに笑った。
「一華、お前だって笑っている場合じゃないぞ」
麗子に向けるよりもさらに厳しい顔で、一華を睨む孝太郎。
そうか、この2人は兄妹なんだと乃恵は思い出した。
「それに乃恵ちゃんも、徹に黙って来たんだろ?」
「ええ、まあ」
黙って来たと言うほど遅い時間でもないし、そもそも最近帰りの遅い徹に何の報告が必要なんだか・・・
どこで何をしようと、どうせ何も言わない。
「とりあえず君達のことは置いておいて、まず麗子。お前だ」
ちょうど空いていた席に座り真っ直ぐに麗子を見つめる孝太郎。
一方見つめられた麗子は、耳まで真っ赤になりながらゴモゴモと口ごもる。
誰もが振り返るほどの超美人で、綺麗なお姉さんを地で行く麗子の意外な一面。
いつもははっきりものを言うカッコイイ麗子さんなのに、孝太郎さんの前ではかわいいな。
乃恵はそんなことを思っていた。
***
「バカだなあ、どれだけ食べてないんだよ。頬がこけてるぞ」
俯きかけた麗子の顎に手をかけ、顔を上げる孝太郎。
そのまま頬に手を当て、もう片方の手も添えて、麗子の顔を包み込む。
その優しい仕草も、切なそうな視線も、麗子への愛を感じさせるもの。
一華も乃恵も身動き一つできないままその場にいた。
本来なら、孝太郎は人前でこんな行動に出る人ではない。
わかっているからこそ、麗子も抗うことができなかった。
「心配させるんじゃないっ」
強めの口調で言って、孝太郎が麗子を抱きしめた。
「明日の朝一で病院に行くぞ。俺もついていくから、何も心配するな」
「でも・・・」
「でもはなし。これは決定事項だから。イヤだって言うなら担いででも連れて行くからな。観念しておとなしく着いてこい」
たとえ病気があったにしても、なかったにしても、孝太郎ならありのままの麗子を受け入れてくれるだろう。
麗子はこんなに愛されているんだから。
乃恵は、羨ましいなと思いながら2人を見た。
隣に座る一華もきっと同じ気持ちだろうと横を見ると、あれ?様子がおかしい。
席からかなり離れた入り口の辺りを見つめたまま固まっている。
「一華さん?」
心配になって声をかけてみたけれど、
「・・・」
耳には届いていないらしい。
***
ここにいるはずのない人物を見つけ、一華は固まっていた。
「嘘・・・」
小さくささやいた声に、
「一華さん?」
乃恵が反応する。
「大阪から鷹文くんの用意したヘリで一緒に帰ってきたんだ。じゃなければ、こんな時間に戻っては来られない」
不思議そうにする一華に、孝太郎が説明してくれた。
ああ、確かに。
浅井の力があれば、ヘリを飛ばすことも一華の居場所を突き止めることも容易いことだろう。
わかっていたはずなのに、浅井の力の大きさを忘れていた。
「お前のことを心配して鷹文くんは帰ってきたんだ。まずは心配かけてしまったことを謝れ。その上で、思っていることをはっきり伝えてこい。お互いに我慢ばかりしていたって夫婦は続かない。ちゃんと2人で話し合わないとな」
まだ結婚もしていないくせに、偉そうなことを言う孝太郎。
いつもなら文句の一言でも言ってやりたい所だけれど、今日は一華の方が分が悪い。
「ほら、行ってこい」
孝太郎が一華の背中を押す。
一華は立ち上がり、鷹文の元へ駆け出した。
***
「鷹文」
無表情でたたずむ鷹文に、一華が声をかけた。
言いたいことはたくさんあるはずなのに、その先が続かず言葉に詰まった。
それに、さっきの騒動で浅井の名前を出してしまったから、鷹文の元には店の人が集まっていて、とてもこの場で話ができる雰囲気ではない。
「少し外へ出ようか」
「うん」
鷹文が支配人と話を付けてくれて、2人で店を出た。
綺麗に芝生が張られ、ライティングまでされた庭。
さすがにこの時間に散策する人はいないけれど、ベンチやテーブルもいくつか置かれゆっくり話ができる空間。
「迷惑をかけてごめんなさい」
一華の方から口火を切った。
「迷惑?」
何が?と言いたそうに鷹文が聞き返す。
「さっき若い子に絡まれて、警察を呼ぶって言われたものだから浅井の名前を出してしまったの」
きっとそのことは鷹文の耳にも入っているはず。
「ああ、支配人から聞いた。申し訳ないと頭を下げられて驚いたよ」
「そう」
「それだけ?」
「え?」
「一華が謝るのはそれだけなのか?」
「ええっと、」
わかっているけれど、素直に言葉が出てこない。
すると、
ムギュッ。
いきなり鷹文に頬をつねられた。
「い、痛いっ」
慌てて逃げようとするけれど、結構しっかりつままれていて逃げられない。
「心配かけてごめんなさい。だろ?」
最近聞くことのなかった強い口調。
「うん、ごめん」
「ちゃんと言って」
「心配かけてごめんなさい」
「うん。許す」
「守口さんにも謝るわ」
「そうだね」
「鷹文、こんなわがままな奥さんは嫌いになった?」
最近ずっと、聞きたくて聞けなかったこと。
何をしても文句の一つも言われなくて、もう愛されていないんじゃないか、見捨てられたんじゃないか、そう思っていた。
***
ムギュッ。
もう片方の頬にも鷹文の手が伸びてきた。
「い、痛いって」
半分キレ気味に振り払おうとするけれど、やはり逃げられない。
「バカなことを言うんじゃない。俺の愛する奥さんは一華だけだよ」
「じゃあ何で」
何も言ってくれないの?
「俺と一緒にならなかったら一華はもっと自由に生きられた。仕事だって続けられただろ。俺は、一華から自由を奪ってしまった責任をずっと感じていた。だから、何も言えなかったんだ」
「鷹文」
「でも、お兄さんに言われた。一華に遠慮して何も言えなくなったら夫婦としてダメになる。夫婦は共に暮らしていく存在だから、お互いを見つめるんじゃなくて2人で同じ物を見て生きなくちゃだめだってね」
「へえー、お兄ちゃんが」
良いこと言うじゃない。
「もう一華に遠慮はしない。何でも言う。たとえそれで喧嘩になっても、浅井の家を出ることになってもかまわない」
「そんな、おおげさな」
「お兄さんが、『いざとなったなら2人とも鈴森商事で使ってやるから安心しろ』って」
フフフ。
絶対にないことだけれど、そう言ってもらえるだけで気持ちが軽くなる。
「鷹文、ほっぺた痛いから離して」
さすがにもう限界。
「もう2度と行方不明にならないな?」
「うん」
「心配事があればまず俺に話すこと」
「はい」
「よし」
はあー。
やっと手が離された。
「ごめんね鷹文。ずっとあなたの気持ちを疑っていた」
「俺こそ、一華の気持ちに気づかなかった」
真っ赤になった一華の頬を鷹文が包み込む。
「痛かった?」
「うん」
「凄く心配したんだ。もし一華がいなくなったらと思ったら、生きた心地がしなかった」
「ごめん」
「一華、何があっても離さないよ」
「何があっても離れないわ」
そっと唇が重ねられ、鷹文の温もりが流れ込んできた。
***
一華も麗子も無事に仲直りできたみたいで、その後は5人でテーブルを囲んだ。
「一華がわがままで申し訳ないな」
兄として孝太郎が鷹文に謝っている。
「いえ、俺の度量が狭いせいだと思います。すみません」
鷹文も頭を下げる。
なんだかんだ言って、麗子も一華も愛されている。
お互いに不器用ですれ違いはあるにしても、素敵なカップルに違いない。
いいなあ、みんな幸せそう。
ただ1人人ごとみたいに見ていた乃恵だけが冷静でいられた。
「乃恵ちゃんも、ちゃんと話をした方がいいわね」
いつの間にか食事の手が止まってしまった乃恵に、麗子が囁く。
いくら話をしたって、何も変わらないと思う。
あの香水の女がいる限り、私達は終わりなんだ。
イヤ違う。香水の女がいるからうまくいかないわけじゃない。
徹の気持ちが、
「乃恵ちゃん、ちょっと持っていてくれる」
ポケットから携帯をとりだした孝太郎が、並々とワインの注がれたグラスを乃恵に渡した。
「え、ええ」
目の前のテーブルにもグラスを置くくらいのスペースはある。
なぜ渡されたんだろうと首をかしげる乃恵。
カシャッ。
小さなシャッター音がした。
「孝太郎さん?」
おそらく写真を撮られたんだろうと、乃恵は抗議の声を上げる。
「大丈夫、悪用しないから。ありがとう。ほら、食べて」
グラスを奪い返すと、何もなかったように鷹文との会話を再開させた。
***
「へえ、乃恵ちゃんは産科のお医者さんなんだ」
お酒も入り、呼び方も乃恵さんから乃恵ちゃんに変わった鷹文。
「優華の出産でお世話になった大学病院で、勤務しているんですってよ」
「ふーん」
「診察室でいきなり会って、びっくりしちゃった」
「そうなんだ」
楽しそうに話して聞かせる一華を見て、『週に1度の非常勤なんです』とか、『まだ研修医です』とか言い訳めいたことが言えなかった。
楽しそうだな。
幸せそうだな。
羨ましいな。
ただ、そんな思いだけ。
「乃恵ちゃん、大丈夫?」
黙り込んでしまった乃恵に、麗子が声をかけた。
「大丈夫です。今日はいっぱい歩いたから、少し疲れたのかな」
愛想笑いをしながら、近くのグラスを口に運ぶ。
「「ああ、それっ」」
孝太郎と、麗子の声が重なった。
え?
「それ、ワインよ」
ええ、
ゴクン。
飲んじゃった。
「もう、孝太郎がそんなところに置くから」
麗子さんが怒り出し、
「だから、広いテーブルに変わろうって言ったじゃないか」
孝太郎も不機嫌な顔。
「あの、大丈夫です。別にお酒が飲めないわけではないですから」
体のために控えてはいるけれど、飲めないわけではない。
時々1人で缶チューハイを空けるときもある。
「ごめんね乃恵ちゃん」
「麗子さん、本当に大丈夫ですから。ほら、結構いける口なんです」
近くにあったグラスに孝太郎さんの前に置かれた赤ワインを注ぎ、ゴクゴクと流し込んだ。
あぁあー、美味しい。
ワインってこんなに美味しかったっけ。
***
「乃恵ちゃん、もうやめておいた方がいいわ」
みんなが唖然とする中グラスいっぱいのワインを一気に飲み干した乃恵に、麗子が水を差し出す。
「いいんです。私だって、たまには飲みたいときも」
あれ?
なぜだろう、目の前の景色が揺れ出した。
おかしい。
たった1杯のワインで酔うはずなんてない。
動揺を誤魔化すように、もう1度グラスに手を伸ばそうとしたその時、
「何をやってるんだ?」
ほどよい低音の、耳障りのいい声。
え?
現れたのは、ここにいるはずのない人。
仕事が忙しくて、ここ最近は日付が変わってからしか帰ってくることのない旦那様。
「何で?どうして、徹がいるの?」
状況が理解できずポカンと見つめてしまった乃恵に、
「俺が呼んだんだ。『乃恵ちゃんが酔っ払ってるぞ』って」
さっき撮った乃恵がワイングラスを持つ写真を見せて、孝太郎が答えた。
確かにこの写真だけ見れば、乃恵が楽しそうにワインを飲んでいるように見える。
でも、だからって、徹がどうして・・・
「何で酒なんか飲むんだよっ」
珍しく叱られた。
「まあまあ徹さん」
鷹文が驚いた顔で仲裁に入るけれど、
「乃恵、酒はよくないって言われているはずだろう」
徹の怒りは収まらないらしい。
「いいじゃない、たまに飲んだって」
つい言い返してしまった。
乃恵にだってお酒に逃げたいときはある。
今は体より心が苦しくて、お酒を飲んで忘れたかった。
「お前・・・」
凄い目力で睨み付ける徹。
「落ち着け徹。乃恵ちゃんの言い分も聞いてやれ」
自分が徹を呼んでおいて怒り心頭の徹に焦ったのか、孝太郎も慌てている。
乃恵だって、ここまで機嫌の悪い徹を見るのは初めてかも知れない。
「もういい、帰ってからゆっくり聞く」
そう言うと、徹が乃恵の手をつかんだ。
その瞬間、
あっ。
あの香水の香りがした。
徹は今まであの人といたんだ。
せっかく2人でいたのに呼び出されて、きっとそれで怒っているんだ。
「行くぞ」
グイッと腕を引かれる。
「ィヤ」
「え?」
「イヤなの、離してっ」
乃恵は徹を突いた。
***
「乃恵?」
さっきまで怒っていたはずの徹の不安そうな声。
「イヤっ」
乃恵の嗅覚からあの香水の香りが消えることはない。
それがどれだけかすかなものであっても、徹の匂いとは違うからわかってしまう。
「何がイヤなんだ?」
少し背を低くし、息の掛かりそうな距離で見つめられた。
「乃恵?」
言ってごらんと、促される。
しばらく続いた沈黙の後、
「徹から香水の香りがする」
やっと口にした。
「香水?」
コクン。
「乃恵ちゃんはね、徹に女がいると思っているのよ」
はっきりと言わない乃恵にかわり、麗子が口にした。
「はあぁ?」
心底驚いたように、徹の声が大きくなる。
「徹さん、最近ずっと帰りが遅いでしょ?」
今度は一華が席を立った。
「ああ」
「女の人からのメールも頻繁にある」
「だから、それは」
「遅くに帰ってきた徹さんから香水の匂いがするのを乃恵ちゃんは気づいていたの」
「それは・・・」
いつもは雄弁に相手を言い負かす徹が言葉に詰まった。
「ハハハ。徹、お前の負けだな。そもそも、お前がちゃんと説明しないからこんなことになるんだ」
この状況で、なぜか孝太郎が笑っている。
ん?
何?
「乃恵ちゃん、君の心配は今から徹がきちんと説明してくれるから、今日は一緒に帰りなさい」
「でも・・・」
この状況で、2人になるのは少し辛い。
「何かあれば電話をくれればいい。俺でも、麗子でも、一華でも、すぐに駆けつけるから。まずは徹の話を聞いてやってくれないか?」
頼むよと孝太郎が手を合わせる。
ここまで言われて断れるはずはない。
乃恵は諦めたように、徹の手を取った。
***
乗り慣れたはずの徹の車。
乃恵は助手席に座り、徹は運転席から前を見ている。
これといった会話もないまま車は走り続けた。
普段から口数が多いわけではない徹。
乃恵だっておしゃべりではないから、2人で過ごす無言の時間も不快ではない。
むしろ心安らぐと今までは感じていた。
でも、今夜だけはこの沈黙が辛い。
結婚式もあげず身内だけの食事会をして入籍を済ませた乃恵と徹。
2人とも不規則な時間で働いているせいもあり、住む所だけは利便のいいところにと都心のマンションを買った。
今日はたまたま大学病院での勤務だったけれど、普段はマンションから病院まで駅2つ、こうして徹の車で帰る事は珍しい。
「眠かったら寝てていいぞ」
「うん」
少しお酒が入ったせいか眠さはある。
それでも、今は寝られない。
「着いたら起こしてやるから」
そう言われても・・・
流れる車窓に目をやりながら、乃恵は窓に映る徹の横顔を眺めていた。
***
「着いたぞ」
「え?」
マンションに帰るとばかり思っていた乃恵は、見覚えのない景色に戸惑っていた。
「ここは?」
「中で説明するよ」
車を降りていく徹。
「ま、待って」
乃恵も後を追った。
方角としては自宅からそう遠くないと思う。
暗くてよくわからなかったけれど、途中まではマンションに向かっていた。
眠さとお酒でボーッとしてしまって、はっきりとした場所はわからないけれど、ここは都心の一角にあるビル。
10階建てくらいだろうか、暗くて最上部までは見渡せない。
「ねえ、どこに行くの?」
駆け寄って、徹の腕をつかんだ。
「いいから、ついておいで」
後ろからつかんでいた乃恵の手をしっかりと繋ぎ直し、徹は歩き出す。
ギュッとつながれた徹の掌は、お酒の入った乃恵よりも温かい。
思えば付き合った時期がないまま結婚してしまった乃恵と徹は手をつないで出かけたことさえなかった。
これからは2人で出かけられると思っていたのに・・・
泣かないでいようと思っていた乃恵の瞳から、涙がにじんだ。
「どうした?」
心配そうに振り返った徹の顔。
「何でも、ない」
「嘘つけ。乃恵の何でもないは、信用できない」
フン。
わかったようなことを言わないで欲しい。
ここ最近は、私に声さえかけなかったくせに。
「ほら、行くぞ」
ちょうどエレベーターがきたところで、乃恵は腕を引かれた。
***
「ねえ徹、ここは?」
連れてこられたのはビルの8階。
ちょうど工事中らしく、壁が取り払われ大きなワンフロアになっている。
「広いだろ?」
「え?」
「都心だから交通の便はいいし、近くには大きな公園もあるから緑も豊かだ。隣の町には大きなマンションがいくつも建設中で、人口自体も増えつつある。立地的には文句ないだろ?」
いくらいいだろうと言われても、乃恵にはさっぱり話が見えない。
もしかして、徹はここで会社でも始める気なんだろうか?
徹のお父様は会社の経営者だったと聞いた。
残念ながら徹が小さい頃に経営に行き詰まり倒産してしまったけれど、経営者の血は徹にも流れていると思う。
私にお金があれば、徹に起業させてあげたい。
徹なら、きっといい経営者になるはずだから。
その時、
「あれ徹、もう戻ってきたの?」
いきなり後方のドアが開き、女性の声がした。
声につられたように乃恵も振り返る。
「あら?」
驚いたように乃恵を見る女性。
こんな時間なのにきちんとスースを着たスタイルのいい美人。
格好からして水商売の人ではなさそうだけれど、化粧は派手め。目も鼻も綺麗に整いすぎていて作り物みたい。それに・・・
「オイ、口が開いてる」
徹に肩をツンツンとされ、乃恵は慌てて口元を引き締めた。
「どうしたの?私に見とれちゃった?」
女性はにっこりと笑いながら近づいてくる。
その瞬間、
あぁ。
乃恵は声が出そうになった。
この匂い。
これは、徹に付いていた香水の匂い。
そうか、この人が・・・
きっとこの時、乃恵の目つきが変わった。
ここにいたくない。
帰りたい、逃出したい。
何も聞きたくない。
「乃恵?」
徹の声が聞こえて頭を上げると、
「初めまして、杉本ヒロミです」
目の前に女性の手があった。
これって、握手だよね。
でも、イヤだ。
杉本ヒロミさん。
年は・・・徹と同じくらいかな。
目は大きな二重で、鼻筋は通っていて、唇はプックリとして存在感がある。
とにかくパーツの全てが整っていて、美人さん。
でも・・・
「オイお前、変な挨拶をするんじゃない」
ペシッと、徹がヒロミさんの頭をはたいた。
嘘。
徹に限って女性に手を上げるなんて、ありえない。
それに・・・
何だろう、この違和感。
「恵・・乃恵」
ん、ん?
いけない自分の世界に入っていた。
「長谷川乃恵です」
差し出された手は無視して、ただ会釈をした乃恵に、
「オイッ」
徹の突っ込みが入る。
「あ、ああ、香山乃恵です。職場では旧姓のままなもので、つい、すみません」
頭を下げた。
フフフ。
聞こえてきたヒロミの笑い声。
なんだか凄く気分が悪い。
「かわいい方ね、徹の奥さん」
フン、どうせ子供ですよ。
「だからっ、」
大きな溜息と共に肩を落とした徹。
不機嫌全開の乃恵と、仏頂面の徹、なぜか楽しそうなヒロミ。
深夜の工事現場には似つかわしくない面々が顔を見合わせる。.
ヒロミさんって名前は、徹に来ていたメールの中で見た名前。
きやっぱりこの人からのメールだったんだわ。
「なあ、もういいだろう」
徹がヒロミに声をかける。
え?
「そうね」
しかたないわねと、ヒロミが乃恵の元に歩み寄る。
え、ええ。
怖いんですけれど。
乃恵は一歩後ろに下がった。
このヒロミさんって人、美人であることに違いない。
でも・・・
まず体のサイズが、大きい。
身長175センチはしっかりあると思う。
もちろん女性にだって大柄な人はいるから、おかしくはないんだけれど・・・
手も足も大きいし、何よりも声が、
「本名は、杉本弘道って言います」
ああ、やっぱり。
声の低さからそうかも知れないと思っていた。
でもあんまり綺麗だから、騙されそうになった。
じゃあ待って、私は男性に嫉妬していたの?
***
「こいつは俺とも孝太郎とも幼馴染でね。こう見えて金持ちの息子で、優秀な経営コンサルタントなんだ」
「へえー」
人は見かけによらない。
着ている服のせいでかろうじてOLぐらいには見えるけれど、雰囲気は夜の仕事の人みたいなのに。
「それで、乃恵ちゃんは私と徹の浮気を心配してくれたの?」
「ええ、すみません」
なぜか謝ってしまう乃恵。
そもそも、徹が何も言ってくれないのが問題なんだと思う。
この状況で経営コンサルタントが現れたってことはここで徹が仕事をしようと思っているのはわかるけれど、夫婦なんだから事前に何か一言話があるべきだと思うし、隠れてコソコソしようとするからこんなことになるのよ。
「それで、乃恵ちゃんには話したの?」
今度は徹の方を見たヒロミ、いや弘道。
「まだだ、話そうとしたらお前が現れた」
「そりゃ邪魔したわね」
なんだろうこの打ち解けた感じ。
男性だとわかっていても視覚から入ってくるイメージが大きくて、ついイライラしてしまう。
***
「乃恵ちゃん、お茶どうぞ」
どこから持ってきたのかいつの間にか3人分のお茶を部屋の隅のテーブルに用意した弘道。
小さな椅子も用意してくれて、3人で腰を下ろした。
「ここ素敵でしょ?」
「ええ」
徹からも聞かされたけれど立地的にも環境的にも好条件。
徹が何を始める気かは知らないけれど良い場所だと思う。
「よかったわ、乃恵ちゃんが気にいってくれて」
別に私が気にいる必要はない。
「徹の出した条件が結構厳しくてね、ここを探すのにすごく苦労したの。条件が良いかわりに金額も高いけれど、ここなら間違いないと私も思うわ」
一体、徹は何をする気なんだろう?
さすがに気になって徹の方を振り返る。
すると、徹が1枚の封筒を差し出した。
「見ていいの?」
「ああ」
受け取った封筒に入っていたのは何枚かの書類。
「これって・・・」
それは新規の事業計画書だった。
タイトルは『乃恵レディースクリニック 開院計画』
***
「驚かせたよな」
「うん」
驚きすぎて言葉が出てこない。
「でも、今すぐのつもりではないんだ。研修医の期間が終わって少し落ち着いたら考えてくれればいい。ここは条件もいいし、気に入らなければすぐに手放せばいい。無理強いするつもりはないから」
「徹」
正直、この先に不安を感じていた。
研修医が終わっても今の病院に残りたいかと聞かれれば違う気がするし、大学病院に戻ってバリバリ働くのも体力的に自信がない。
じゃあと考えると、今よりももっと小さくて患者さんを近くで診られるところ。クリニックのような所に行けないかと思っていたところだった。
さすがに開業は考えていなかったけれど・・・
「山神先生の協力で大学病院との提携もとれそうだし、今まで通り週に何日か大学病院へ勤務して手術に入るってこともできるらしい」
「へえー」
そんなことまで調べてくれたんだ。
確かに、小さなクリニックで働きたいけれど、手術にも入りたいし、色々な症例だって経験したい。
そんな私にとって徹の提案はベストなもの。
でも、
「ものすごいお金がかかるのよ」
もちろんこのビルのワンフロアを借りるのだってものすごいお金。でも開業となればそれ以上のお金がかかる。何しろ医療機器はバカみたいに高いんだから。
だからみんなある程度勤務医をしてスキルを積んで、お金を貯めてから開業する。
「大丈夫。こう見えて蓄えはある」
「でも」
「いいから好きにさせてあげなさい。あの淡白な徹がここまでするのはよっぽどなんだから」
弘道が楽しそうに言ってくれる。
「お前はうるさい。もういいから帰れよ」
「ハイハイ。徹の浮気疑惑を払拭したところで、邪魔者は帰りますよ。じゃあね」
弘道は荷物を片づけて出て行った。
***
「なんだか申し訳なかったわね」
やはり、徹に呼び出された弘道は忙しい時間を縫って駆けつけてくれたらしい。
「よく言うよ。俺が浮気しているって信じ込んでいたお前に、いくら説明したって納得しなかっただろう?」
「まあ、それは」
そうだと思うけれど。
「結局、俺を信じてなかったわけだ」
「ええ、違うでしょ?」
「どこが?」
「だって、徹が最初から説明していてくれれば、こんな誤解を生むこともなかったのよ」
普段からちゃんと言ってくれない徹にも問題があると思う。
口をとがらせ文句を言った乃恵に、徹が顔を寄せる。
ちょ、ちょっと、近い。
「じゃあ聞くが、俺が事前に開院の準備をするって言えば乃恵はどうした?」
「そりゃあ・・・止めたと思ぅ」
最後の方は声が小さくなった。
「だろ、俺の金で開院準備をするなんて言えば、全力で抵抗しそうだもんな」
うん。
間違いなく阻止します。
「だから黙っていたんだ。これは俺なりに考えた結果だ。乃恵のためには違いないが、俺が愛する妻との生活を考えて最善策を選択したらこうなっただけ。だから、これは俺のためにやったことだ」
「とお、る」
鼻の奧がツーンッとして、声が詰まった。
「バカだな、こんなことで泣くな」
そっと、徹が乃恵を抱きしめる。
「泣いてないもん」
「じゃあ、これは汗か?」
乃恵の頬を伝った滴を徹の指がなぞる。
「・・・意地悪」
ここしばらくの心配事は、乃恵の取り越し苦労に終わった。
徹は乃恵を愛してくれていて、女の影もなかった。
完全に乃恵の暴走。
結末を知ってしまえば、恥ずかしさしか残らない。
***
「もう、俺の知らないところで酒なんて飲むなよ」
「そんな、働いていれば付き合いだってあるし、私にだって飲みたいときもあるの」
つい、いつもの調子で言い返した。
「旦那が浮気したときとか?」
「それは・・・」
なんだか、今夜は乃恵の劣勢。
どれだけ言っても勝てる気がしない。
「飲みたくなったら俺に言え。飛んで帰って付き合ってやるから」
抱きしめられたまま頭をポンポンと叩かれる。
「うん」
今度からそうする。
「それと、お互い言いいたいことは言い合って、嘘のない夫婦でいよう」
「はい」
「麗子や一華に言う前に、必ず俺に言うんだぞ」
「はいはい」
「怪しいなあ」
「徹も、隠し事はせずに何でも話してね?」
「ああ」
きっとこれから先だって喧嘩はするだろうし、泣いちゃうこともあると思う。
でも、1つずつ積み重ねて本当の夫婦になっていこう。
すっかりお酒の抜けてしまった乃恵に、徹の唇が重なる。
いつも以上に熱を持った口づけによろけそうな乃恵を、徹が支えている。
息を切らせ、絡み合い、溶け合ってしまいそうな思いが何度も水音を立てる。
ダメだ、これ以上立っていられない。
一旦放れようとした乃恵を徹が強く抱きしめた。
***
「帰ろうか?」
次に徹の声が聞こえたとき、乃恵は放心状態だった。
「うん」
でも、歩けるかなあ?
ただキスをしただけなのに、腰が抜けてしまった。
そのくらい今日の徹は情熱的だった。
「こんなのでバテられちゃ困るよ」
「そんな・・・」
「帰れば、このままベットに直行だからね」
え?
お酒も飲んだし、明日も仕事だし、
「イヤならこのままホテルを取ろうか?その方が早いかな」
すぐに携帯を取り出して操作し始める徹。
「イヤ、帰ります」
ホテルなんて行けば本気で潰される気がするし、やっぱり家に帰りたい。
「じゃあ行こうか」
答えは求めることなく、乃恵を抱え上げた徹。
「イヤ、あの、歩けるから」
必死に抵抗をみせる乃恵だけれど、
「いいからジッとしていろ」
今日の徹にはきかないらしいです。